よもつひらさか
朝霧 悠
プロローグー
―はじまりの神々―
まだ、名も、形も、境もなかった頃。闇とも光とも呼べぬ揺らぎだけが、世界に満ちていた。それは静寂ではなかった。音がないというだけで、そこには無数の予感が折り重なり、生まれようとするものと、まだ生まれてはならぬものが、互いの輪郭を探り合っていた。
その揺らぎの最奥に、ふと、意志が生まれた。
誰かが生まれたのではない。「在ろう」とする力が、初めて自らを肯定したのだ。
それが、コトノアマツカミと呼ばれる五柱の始原であった。
彼らは語らなかった。名乗らず、姿を持たず、互いを見もしなかった。それでも確かに、そこに在った。
一柱は、すべてを貫く中心として。 一柱は、拡がろうとする方向として。 一柱は、留めようとする静止として。 一柱は、満ち欠ける循環として。 一柱は、まだ触れられぬ可能性として。
五つの意志は、互いに触れぬまま、世界の核をゆっくりと整えていった。
時間は、まだ流れていなかった。だが、変化だけはあった。変化はやがて、差異を生み、差異は、重なりを生んだ。
その重なりの中から、次の神々が、滲むように現れ始める。
それは突然の誕生ではない。意志が、重力を帯び、概念が、影を落とし、やがて「在る」と言えるほどに、輪郭を持っただけのこと。
こうして現れた神々は、まだ男でも女でもなく、善でも悪でもなく、光でも闇でもなかった。
彼らは、「分かれつつある世界」そのものだった。天と地の兆しが生まれ、軽きものは上へ、重きものは下へと、まだ名もない法則に従って、ゆっくりと離れていく。
神代七代と後に呼ばれる存在たちは、この分離の過程から生まれた。
最初の代は、まだ一対ですらなく、「対になろうとする気配」だった。
次の代では、初めて「並び立つ」という概念が生まれ、神々は互いを意識し始める。やがて、触れ合い、交わり、影を落とし合い、そこに初めて、関係が生じた。
関係は、喜びを生み、同時に、欠如を生んだ。満たされぬものがある、という感覚。失われるかもしれない、という予兆。 それらが、神々の内側に、微かな不安として芽吹いていく。それでも、世界は進んだ。進むという言葉すら、まだ未熟だったが、戻ることは、すでに許されていなかった。
七代目の神々が現れたとき、世界は、もはや抽象だけではいられなくなった。触れれば変わる。失えば痛む。選べば、取りこぼす。
神々は、初めて「創る」という行為の意味を知る。そして、その創造が、やがて愛と呼ばれるものを必要とすることを、まだ、誰も知らなかった。
ただ、遠い予感だけが、静かに、深く、世界の底で脈打っていた。
―この後、愛は生まれ、死も生まれる。
それは、世界が完成へ向かうために、どうしても避けられない、最初の代償であった。
―神代七代の終わり―二柱が生まれる前―
神々は、すでに七度、かたちを変えていた。数ある中には消えゆく神があったり、また、名を持たぬ存在として、天と地のあわいを漂っていた。
神代七代と呼ばれるその系譜は、完成ではなかった。むしろ、それは未完成であることの連なりだった。
最初の神々は、触れることを知らなかった。 次の神々は、触れても変わらなかった。
さらに後の神々は、変わることを恐れ、最後の代に近づくにつれ、恐れそのものを内包するようになった。
世界は、すでにかなりの広がりを見せていた。天は高く、地は深く、その間に横たわるものは、秩序と呼ぶには未熟で、混沌と呼ぶには、あまりに静かだった。
神々は知っていた。このままでは、世界は止まる。創造は続いているのに、意味が生まれない。在るものは増えても、「在る理由」が育たない。
神々は、初めて気づいた。世界には、「創る力」だけでなく、継続的に選別する存在が必要なのだと。
選ぶということは、捨てるということだ。捨てるということは、痛みを引き受けるということだ。その役割を、 誰が担うのか。神代七代の神々は、互いに見つめ合い、そして、沈黙した。彼らは、すでに完成しすぎていた。迷いを持たない存在に、選択はできない。
そこで、世界は、自らを削り始めた。軽きものと重きものが、よりはっきりと分かれ、天は天として、地は地として、決定的に距離を持った。その裂け目に、初めて、孤独が生まれた。
孤独は、意志を生む。意志は、欲を生む。欲は、世界を動かす。
こうして、神代七代の最終代は、それまでの神々とは決定的に異なる条件を与えられた。
彼らは、互いを必要とする存在として、生まれねばならなかった。二柱でなければならなかった。並び立ち、時に背を向け、時に寄り添い、互いの欠落を、互いで補う存在。その瞬間、天と地の境界に、初めて「揺れ」が走った。それは、誕生の前触れだった。
まだ名はない。だが、すでに性は分かれ、性が分かれたことで、世界は初めて、緊張を帯びた。触れれば変わる。失えば戻らない。共にあれば強くなり、離れれば壊れる。そうした条件を、最初から背負わされた存在。それが、 これから生まれようとしている二柱だった。
神々は、祈ることを知らなかった。だが、この時だけは、誰ともなく、沈黙の中で、同じ願いを抱いた。
―どうか、世界を完成させてほしい。
完成とは、終わりではない。終わりを引き受けられる、始まりのことだ。そして、その願いに応えるように、 天と地のあわいに、二つの気配が、ゆっくりと形を結び始める。
まだ、イザナギでも、イザナミでもない。ただ、互いを探すように、引き寄せ合う、二つの意志。世界は、この瞬間を待っていた。
やがて、彼らが名を持ち、言葉を交わし、愛を知り、死を知ることになるのを、神々は、まだ知らなかった。だが、すでに確信していた。
―この二柱こそが、世界に「意味」を与える存在になる、と。そして、その意味が、あまりにも重く、あまりにも美しい悲劇を生むことも。
よもつひらさか 朝霧 悠 @Kochi1040kakuyomu
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