灰の世界で君と歩く

なゆちゃ

第1話 「灰の街で、狼は立ち止まった」

――灰夏・葵


最初に聞こえたのは、足音じゃなかった。

金属が引きずられる、耳障りな音だった。


瓦礫だらけの通り。

崩れた高架の影で、灰夏は息を殺していた。

もう何日、まともに食べていないのかもわからない。

この街には、人も、救いも、未来も残っていなかった。


それでも、動かなければ死ぬ。

そう思って足を出した瞬間――


吠え声。


人の声じゃない。

獣の声とも違う。

怒りと命令だけを詰め込んだような、歪んだ咆哮。


「……っ!」


振り向いたときには、もう遅かった。

瓦礫の向こうから現れたのは、獣人だった。

巨大な体。剥き出しの牙。

片腕には、錆びついた装甲が食い込んだまま外れていない。


目が、壊れている。

生きているのに、何も見ていない目。


――逃げなきゃ。


そう思ったのに、足が動かなかった。


次の瞬間、世界が揺れた。


――ルピナス・テイラー


間に合った。


判断は一瞬だった。

距離、風向き、相手の筋肉の緊張。

そして――子供。


人間の子供が、そこにいた。


暴走個体。

制御系は完全に死んでいる。

命令も、敵味方の区別もない。

残っているのは「排除」だけ。


舌打ちを一つ。

私は地面を蹴った。


2.3メートルの体が、空気を裂く。

相手がこちらに気づき、吠えた瞬間には、もう懐に入っていた。


拳を振るう。

骨が砕ける感触が、腕を伝う。


――弱い。


否。

弱いんじゃない。

壊れている。


相手の爪が私の脇腹を裂いた。

痛みはある。だが、構わない。


次で終わらせる。


私は首元に腕を回し、力を込めた。

抵抗は激しかったが、長くは続かなかった。


ごきり、と。

鈍い音。


暴走した獣人の体から、力が抜ける。


――また、殺した。


――灰夏


目の前で、巨大な狼の獣人が、同じ獣人を倒した。


血が、灰に染み込んでいく。

もう、戻らない色。


助かった、と思ったのは、ずっと後だった。


足が震えて、座り込む。

呼吸がうまくできない。


狼の獣人が、こちらを見た。


――殺される。


そう思った。

でも、その人は、武器を下ろしたまま、動かなかった。


「……怪我は」


低い声。

でも、乱暴じゃない。


「……だい、じょうぶ、です……」


声が裏返った。

情けない。

でも、嘘はついていない。


狼の獣人は、しばらく俺を見ていた。

まるで、物じゃなく、数字でもなく、人として。


「……一人か」


うなずくしかなかった。


「……ここでは、生きていけない」


その言葉は、冷たかった。

でも、正しかった。


「判断する。君は――」


一歩、近づいてくる。

大きい。怖い。

でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。


「――一人で生きられない」


それが、俺と彼女を繋いだ言葉だった。


――ルピナス


連れて行く理由を、私は感情にしなかった。


情で拾えば、また失う。

それはもう、十分に学んだ。


これは判断だ。

子供。栄養不足。戦争孤児。

この世界での単独生存率は、ほぼゼロ。


だから、私は言った。


「私の名前は、ルピナス・テイラー」


子供は、少し間を置いてから、答えた。


「……灰夏です。

 ……ルピナスさん」


その呼び方に、胸の奥が、少しだけ痛んだ。


文明はもう、戻らない。

この世界に、正しい選択なんてない。


それでも。


私は歩き出す。

灰夏は、少し遅れてついてくる。


妹を探す旅。

ついでに、子供一人。


それでいい。

それしか、できない。

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