じいじの嘘と、ばあばの百個のてるてる坊主
家守 慈絵美
じいじと、ばあば
二〇二六年一月七日。午前七時。
福岡、糸島の沿岸に位置する古い平屋の縁側で、俺――オトモは、吐き出す息が白く濁るのを眺めていた。
液晶画面の中では、気象予報士が沈痛な面持ちで、灰色の日本地図を指し示している。
『本日、九州全域は厚い層雲に覆われ、沿岸部では冷たい雨が混じるでしょう。日中の気温も上がらず、一月らしい、厳しい曇天の一日となります。お出かけには厚手のコートと傘が手放せません』
俺はため息をつき、静かにテレビを消した。
今日は、祖父母の金婚式だ。
祖父――じいじは、半年も前からこの日を「人生最高の晴れ舞台にする」と繰り返していた。庭の片隅で、祖母――ばあばが愛してやまない純白の菊を、霜に負けぬよう毎日世話し、今日という日のために育て上げてきたのだ。
だが、窓の外に広がるのは、無慈悲な鉛色の空だった。海は鈍く、重たい光を反射している。
ばあばは、曇り空が嫌いだ。
かつて戦後の貧しかった頃、雨漏りのする狭い部屋で、幼い子供たちを抱えて耐え忍んだ日々の記憶が、彼女を曇天から遠ざける。彼女にとって、暗い空は「我慢と忍耐」の象徴だった。
「……じいじ、残念だったね」
俺が小さく呟いた時、背後の襖が迷いなく開いた。
「おはよう、オトモ。何をそんなに暗い顔をしているの。せっかくの記念日なのに」
現れたのは、ばあばだった。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、糊のきいた真っ白な割烹着を締めている。その凛とした佇まいは、外の暗鬱な景色を撥ね退けるような、独特の気高さがあった。
「でも、予報は雨だって。せっかくの金婚式なのに」
「予報がどうしたっていうの。空が暗いなら、私たちが家の中を明るくすればいいだけ。さあ、掃除を始めるわよ。おじいさんの大切な日なんだから」
ばあばは雑巾を手に取ると、一切の迷いなく縁側に膝をついた。
彼女は知っているのだ。じいじが今日のために、どれほど心を砕いて準備してきたかを。だからこそ、彼女にできる最高のおもてなし――家中の隅々までを清めることで、彼を迎えようとしていた。
そこへ、一張羅の紺色の背広に身を包んだじいじが廊下を通った。
彼はばあばの働く姿を見た瞬間、言葉を失い、顔を耳の先まで真っ赤に染めた。七十を過ぎた男が、まるで初めて恋を知った少年のように、たどたどしく背中に隠した「白い菊」の花束を差し出す。
「……ばあさん。お、おはよう。……これ、庭で咲いたから、あげるよ」
じいじの顔は、燃えるように赤かった。その圧倒的な熱量が、冷え切った廊下の空気をわずかに震わせた。
二人が連れ立って、海沿いの「菊まつり」へと出かけていった後。
俺は一人、静まり返った家で、じいじが脱ぎ捨てていった仕事用の上着の下からこぼれ落ちた、一冊の手帳を拾い上げた。
何気なくページをめくった俺は、その瞬間、心臓を強く鷲掴みにされた。
そこには、「今日を一月で一番の晴天にする」という目的のためだけに費やされた、一人の老人の壮絶な戦いの記録があった。
『十月十二日。気象庁の元予報官に面会。一月七日の雲の発生確率を分析。絶望的だと言われる。統計学的には、一〇〇%に近い曇天。……ならば、確率の外側へ行くまでだ。』
『十一月三日。地元の漁師仲間に頭を下げる。当日、沿岸部でドライアイスを散布する協力体制を確約。上昇気流を人工的に生む。……費用は、これまで貯めた酒代と、父から継いだ古い時計を売って作る。』
『十二月二十日。近隣の商店街、小学校、すべてに手紙を書いた。――もし当日、空が暗くても、どうか皆、明るい色の服を着てほしい。黄色や赤の傘を差してほしい。彼女に「世界はこんなに明るい」と信じさせてやりたいんだ。』
文字は震え、必死の筆致だった。
じいじは、奇跡を待っていたのではない。
魔法もSFも存在しないこの現実で、一人の人間ができるすべての「おもてなし」を尽くし、物理的に、そして心理的に、世界を塗り替えようとしていたのだ。
俺は、衝動に駆られて表へ飛び出した。
空を見上げる。雲は依然として厚い。
だが、海の向こうから、白い煙を吐き出しながらゆっくりと進む漁船の列が見えた。それが雲を散らすことなど、誰にも証明できないだろう。それでも、その白い煙は、一人の男の執念そのものに見えた。
さらに、町を見る。
登校する小学生たちが、眩しいほど鮮やかな黄色やピンクのカッパを身にまとって歩いている。商店街は、真昼だというのに全店舗が照明を全開にし、鮮やかな花々の装飾で埋め尽くされていた。
じいじは、天気を変えたのではない。
ばあばを愛するあまり、世界そのものを彼女の「味方」に変えてしまったのだ。
その時だった。
じいじとばあばが歩く、海沿いの遊歩道。
何十隻もの漁船が放ったドライアイスが、海風に乗り、奇跡のような上昇気流を生んだのかもしれない。
あるいは、数千人の住民たちが、じいじの無謀な願いに応えようと発した「善意の温度」が、空気を動かしたのかもしれない。
突然、空に亀裂が走った。
厚い雲の層が、劇的に、ドラマチックに割れたのだ。
そこから溢れ出したのは、純度の高い、一点の曇りもない太陽の光だった。
光は、ばあばが磨き上げた家の窓を反射し、町中の明るい色彩を照らし出し、そして、並んで歩く二人の背中を祝福するように包み込んだ。
「……あ」
ばあばが、天を仰いだ。
その瞳には、一〇〇%の確率で雨が降ると言われた空を裏切る、抜けるような青が映っていた。
「……おじいさん。見て、晴れたわ。……なんて、綺麗なのかしら」
じいじは、何も言わなかった。
ただ、真っ赤な顔のまま、こらえきれなくなった涙を隠すように、ばあばの手を強く、強く握りしめた。
天気と情緒はリンクしない。
けれど、一人の男が五十年の愛を込めて作った「景色」は、自然という冷徹なシステムを、その一瞬だけねじ伏せたのだ。
夕暮れ。
オレンジ色の光が縁側に差し込み、長く伸びた二人の影が畳の上で重なっている。
帰宅した二人は、ピカピカに磨かれた縁側に並んで腰を下ろし、オトモが淹れた茶を啜っていた。
じいじが手洗いに立った隙に、ばあばは小さく、いたずらっぽく笑ってオトモに耳打ちした。
「……実はね、私も朝からテルテル坊主を百個作っていたのよ。彼が、あんまり一生懸命だったから」
ばあばはじいじの手帳の努力を、最初から知っていたのかもしれない。あるいは、町中の不自然なまでの明るさに、すべてを察していたのかもしれない。
それでも、彼女は何も言わずに「おじいちゃんが晴れを連れてきた」と微笑み続けた。
じいじが戻ってくる。その手には、まだ少しだけ色を保った、あの白い菊の花束があった。
「ばあさん。……今日は、いい天気だったね」
「ええ、本当に。私、人生で一番の日本晴れだったわ」
二人の手が、夕焼けの中で静かに重なる。
その皺の刻まれた重なり合いは、どんな最新の気象衛星よりも確かな、幸福の指標だった。
明日もきっと、今日のような穏やかな天気が続くだろう。
たとえ空に雲が立ち込めても、この家には、世界で一番優しくて、狂おしいほどに熱い太陽が、ずっと輝き続けているのだから。
じいじの嘘と、ばあばの百個のてるてる坊主 家守 慈絵美 @ysasdf890
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