喰い破る臓物

四季織姫

第1話 僕は彼女の“それ”を見た

“彼女”に最初に出会ったのは大学の図書館だった。

 普段、知識を餌にしている僕は空いた時間、いや本来の授業時間ですらひたすらに本を読んで腹を満たしていた。

 窓からさす光が茜色に染まったタイミングが僕の次の行動時間であり、満足げな様子で外の空気を吸いに出る。

 知識で満たされた腹には大学の学食は荷が重いらしく、せっかく美味しいと噂のこの大学の学食を食べたのは初日からの数日間だけであった。

 この数日はなぜ食べられたのかというと、図書館の位置がわからなかったからである。

 その日もなんと無くコンビニで買ったサンドイッチを口に運ぶ。

 十分に腹が満たされたのであの図書館へともう一度足を運んだ。

 今度は“彼女”に会いに行くために。

 図書館の一番奥の奥にある一室で“彼女”はいつも文学に向き合っていた。

 文学と表現したのは本を読んでいる時もあれば、パソコンで本を書いている時もあるかだ。

“彼女”の描く文章が僕にとって一番の美食であったことが彼女に関わるきっかけであった。

“彼女”の愛憎というスパイスを表現している恨みったらしい文章をいただいた時にこそ僕の舌鼓は高く鳴るというものなのだ。

 そんな偏食な僕のことを“彼女”がどう思っているのかは僕自身には知る由もなかった。

 ただ一つ確信があるとすれば、僕がここにいることに対して“彼女”が何も言わないのは嫌悪感があるわけではないからなのだろう。

 あまり見たことがあるわけではないが講義に出る“彼女”に話しかける男どもに対してはひどく冷たい態度をとることもしばしばなのでこれは僕への信頼の一種なのだろうと僕は思っているわけだった。

“彼女”は溺れるほどの愛とそれに連なる憎を知っており、僕はそれを欲している。

 僕らの歪な関係は完璧なパズルのようにピッタリと噛み合っているのだった。

 今日の“彼女”はパソコンに集中している。

 つまり、新作を書き上げているのだろう。

“彼女”はすばらしい“それ”を持っているにも関わらず、新人賞などに出したことはないらしい。

 つまり、“彼女”の“それ”を知っているのは僕だけだということになる。

 あとは“彼女”が書き終わるまでこの部屋で愚かにも夕食(ゆうげ)を平らげていれば良いだけだった。

“彼女”は特段遅筆や速筆というわけではない。

 どちらかといえば早い方だろう。

 何故かと問えば内容を迷う瞬間がないからだといえば良いのだろうか。

 シェフが最後の調整にすら迷いなく自信に満ちているように“彼女”の筆には自信と“それ”が備わっていた。

 贅沢な晩餐を味わう前の腹ごなしは本日を優に過ぎ去り、それだけで腹が満たされるのではないかと思えるほどであった。

“彼女”の逸品が出来上がったのは翌日の早朝のことであった。

 夕暮れより始めてここまで一度も集中を切らさず、ただ文学を認めるその様に僕は途中、食事も忘れて夢中になっていた。

 出来上がった「暗き底に正義が灯った」から始まる“彼女”にしてはひどく短い小説は重苦しい程の人の暗き感情に満ち満ちていた。

 やはり感情の爆発ほど美しいものはないと確信さえできるほどのものが提示されていた。

 先人の言葉にもこれらの意図は含まれているのだろう。

 僕はただ、「素晴らしい」という一言だけ言い残し、足りない睡眠を補充すべく家に帰るのであった。


 快晴の空へ逆さまの雨が降る。

 こういう日は嫌いだ。

 図書館へは多くの人がやってくる。

 涼みにやってくる生徒によって、多くの本が傷つけられる。

 大変に腹立たしい。

 自分の食べ物を勝手に食べられるのはもちろん腹が立つが、それを汚されるのは尚のこと腹立たしい限りである。

 主は隣人を愛せと宣うが、そうであるのならば、何故僕をひとでなしなどという中途半端なものに仕立て上げたのか、地獄へ行ったらそう問うつもりである。

 もちろん、主が地獄にいるのならばだが。

 とりあえず、彼女の部屋へ向かう。

 そこへ入ると、“彼女”は嫌悪感に満たされた表情で出迎えられる。

 今日の“彼女”は読書の気分のようだ。

 片手で本を開き、もう片方の手は膝の上に仕舞われている。

 僕も一緒に本を読む。

 今日の分の食事を済ませていなかった。

 外国文学を嗜もうと思う。

 原文でも良いのだが、翻訳の違いを楽しむのも乙なものである。

「なぁ、君は何を読んでいるんだい?」

 素朴な質問だった。

 ただ普段“彼女”は本にカバーをかけている。

 つまり、これだけ本のある世界の中で自分のモノを嗜んでいる。

 そういう、不自然な常識を目の当たりにすると、自分の虚をはっきりと自認するというものである。

「一番綺麗に残っていた本」

“彼女”の一言は僕にとっては衝撃的だった。

 やはり僕は“彼女”のような“それ”を持ち合わせてはいないのだろう。

 そこで、僕は一度手を止めた手前、何か一つ事をなさねばならぬという気持ちになり、“彼女”のためにも茶を淹れる。

 入室の時の表情は何処へやら、素直に僕の淹れた茶を飲む“彼女”。

 やはり誰しも、上質な食事には最低限の水分が必要なのだろう。

 今、二人しか居ないこの部屋で彼らの存在を証明できるものがあるとするのならば、紙を捲る音と茶を啜る音の二つにおいて他ならないだろう。

「君の好物は何かな?」

「突然何?」

 今まで僕らの間にあまり会話がなかった。

 どちらか一方の独り言が空を飛び交うばかりだったからだ。

「よく言うだろう。奇人と才人は紙一重。故に君も小さな偏食の一つでもあるのかなと思ってね」

「ああ、貴方のようにね」

「それは違うな。確かに僕は偏食家だが、君のような“それ”を持ち合わせてはいない。それに、君の出すディナーに対しては幾分も愚痴をこぼしたことはないはずだが」

「そうね、貴方食べるの、好きだものね。私を」

 茶を吹きこぼしてしまう。

 嚥下(えんげ)用の大事な水分が失われてしまった。

 ただ、こちらから尋ねた事なので何も激情にかられることは無い。

「その言い方はやめて貰おうか。それではただのカニバリズムだ。僕が好んで食べるのは君の表現だ」

「そうだったわね。で、私の好きなもののことだったかしら?肉と魚」

 ほう、肉食系女子だったか。

「それと米、小麦、卵、野菜ぐらいかしら」

 ほとんど全てじゃないか。

 やっぱり僕のことも嫌いでは無い程度の認識なんだろう。

 そんな時だった。

 よくよく見れば、散乱とした机の上に見慣れぬ封筒が置いてあった。

 サイズから見てA4の書類が入る程度のものだろう。

 中身が数枚という程度では無いことが膨らみから察せられる。

「それ読んでもいいわよ」

 それを告げる時、“彼女”からは久しく見なかった表情が窺えた。

 封筒から出す。

 原稿用紙百枚程度の短編小説だった。

『雪花 沖野千鶴』

「雪の街に咲く一輪の花。

 いつぞやの女が道をゆく。

 唐傘を携えた男がそれに続く。

 確かに彼女の肌には頬紅のそれとは異なる赤みがあった。

 おそらく長く外にいたことだろう。

 とすれば、男は何処から来たのやら。

 彼の者(かのもの)を見たことは無かった。

 であれば、彼方者(あっちもの)であるのやら。

 時はいよいよ彼誰、いいや今では黄昏時。」


 つらつらと正しい文章が並んでいた。

「どうだったかしら?」

「なに、いい文章だとは思うよ。僕にとっては腐った魚のはらわたを猿の脳汁で煮たような物の味がしたけれどもね」

 その返答に、“彼女”はいつもの静かな様子とは裏腹にただただ楽しそうに笑っているのだった。

「ごめんなさい、君がそれを食べたらそういう反応をするのだろうと予想はしていたのだけれどもかと言って後輩の頼みを聞かないわけにはいかなくてね」

 そこで“彼女”はこの部屋の入り口に向かって手を伸ばした。

「入っていいわよ」

 閑かに扉が開く。

 僕は“何”が出てくるものかと思い、その先に注視する。

“それ”を初めて目の当たりにした時のように僕の鼓動はだんだんと早くなる。

 ただし、その後の僕は唖然としていた。

「初めまして、それの著者、沖野千鶴です」

 そこにいたのはただの小さな女の子だった。


 あの日から、彼女、沖野千鶴はこの部屋に入り浸るようになった。

 これを言うとこの部屋の主である“彼女”からは「なら君が出て行くがいい」と言われてしまったのでここは黙ることにした。

 そして、僕は毎日のように沖野の小説を食わされる羽目になった。

 ただただ正しい文章を書いている彼女の小説は万人には良き食事になろうとも、僕にとってはまずいの一言に尽きるのだ。

 しかし、この毎日が続く中で“彼女”も申し訳ないとでも思ったのか“彼女”の小説をディナーに出してくれることが多くなった。

 最初こそ、“彼女”の“それ”を口直しとして位置付けていたのだが、次第に沖野の“それ”も僕に味覚に見合う上質な悪性を見出していた。

 流石の自分も後輩の女性にこんな表現を教え込んで良いものかと思っていたが、当の本人も紹介した“彼女”も満足げなので良いのだろう。

 神秘性を帯び、処女性に起因する彼女の作風は今このタイミングで崩壊し、壊滅の後に生まれる虚構と悪性が淑女をして、彼女を律し全てを不幸にして行くのだろう。

 それを食すときが今でも楽しみで仕方がない。

「幸せには切なさを、

 恋には浮つきを、

 天は地に着き、

 善性は悪性へと昇華する」

 ふと思い浮かんだ言葉だった。

 誰しもが善性や正義に酔いしれ、溺れているわけでない。

 たった一人のための悪の華があっても良いはずだ。

 例えば、悪い本からしか栄養を得られない僕のような人間がいても仕方がないのだ。

 愛に愛され憎しみを嫌うことも良しではあるが、愛に溺れ憎しみを憂うこともまた人間讃歌ではないのだろうか?

 などと、少し詩的な表現すぎただろうか。

 駄目だ僕にはそれをする資格がない。

 それを為せるほどの“それ”を持ち合わせてはいない。

 土と共に凍ったままの雪のように幸福の味も知らず細い息を吐きながら、春になるのをただ、ただかすかな夢の残滓のように祈る。

 それが僕だった。

 そこに幾許もの意味もなく、全てが虚構に染まりゆく。

 ふと、沖野と目が合った。

「どうかしたか?」

 僕の考え事は一瞬の出来事だったはずだ。

 誰かに察せられるようなものではない。

 そこに今までの僕には揺らぎはなかった。

 彼女が口を開くまでは。

「こんな感じだよね。貴方が望む美学と言うものは。貴方が“それ”と言うものは」

 唖然とする。

 この子はわかっていて、それを作り出したのだ。

 僕が望む美食という名のこだわりと美意識という名のプライドを美学と形容し呼称した。

 正直に言って、“彼女”ですらそれを自覚して意識的に作り出すことは難しいだろう。

 故に僕は“彼女”の“それ”の存在を確信しているのだった。

「お姉様、二人にしてもらってもいいですか?」

 沖野は“彼女”のことをお姉様と呼ぶ。

 そこにどれだけの敬意や尊みが含まれているのかはいささか疑問ではある言い草では合ったのだが今の僕にはそれに注力する余裕はなかった。

「そうね、喉が渇いたわ。お茶を買ってこようかしら」

 素直ではない言い訳だがどこか“彼女”らしさを感じられる言葉だった。

 僕らを残しその場を去る“彼女”。

“彼女”がいなくなった途端、あたりの空気が変わる。

 どこか冷たい空気は先ほどの文章を思い出させる。

 まさに白い吐息とすら見紛う雰囲気に圧倒される。

「貴方は自分を何者かであると自認したことはありますか?」

 唐突な質問だった。

 正直に言ってその真意を理解できない。

「いや、それで言うのなら僕は何者でもないと思うが」

「そうですね。正しく貴方を形容するのであれば、“何物”と言う言葉がよく似合います。まさに人で無し、ですね」

 今、自分がただの侮辱や罵倒ではない何かを言われたことをスッと理解できた。

 理解できてしまった。

 彼女の言葉が水に垂らしたインクのように広がり、蝕んでいく。

「貴方は自分で気づいていますか?貴方はもうすでに死んでいるんですよ」

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