薄明層にて
すずなり
薄明層にて
僕らはいま、薄明層にいる。太陽光はすでに意味を失い、世界は人工の白い円だけで切り取られている。この明るさが、僕らの限界だ。
ROVのライトが海底の縁をなぞり、沈殿した粒子が雪のように舞った。完全な暗黒だが、圧はまだ「人間が関われる限界」に踏みとどまっている。耐圧カプセルの内側で、機械音と呼吸音だけが整然と並んでいた。わずかなオゾン臭。その無機質な冷たさに混じって、いつみくんの髪から漂っていた石鹸の匂いが、僕の肺を静かに侵食する。
その匂いが、ふと潜行前の狭いハッチの記憶を呼び寄せる。あの時、初めて彼が「一緒に潜ろう」と言った日──彼は僕の操縦する水中ドローンを、まるで生き物のようにそっと撫でていた。何度もシミュレーションしたはずなのに、その指先は少し震えていた。
「大丈夫。最初は、俺がついてますから」
その一言で、送り出す側だった僕は、見守る場所を彼と共有するようになった。
ビーコンの低い電子音がひとつ鳴り、記憶は静かに沈む。通信越しに届く呼吸音のひとつが、確かにいつみくんのものだと、改めて胸に染みた。
「……この深さ、やっぱり好きだな」
僕は管制席で、モニターに映る闇を眺める。
この闇の向こうに、彼がいる。
「深海の入口。人間の常識が、ぎりぎり剥がれずにいられる縁側ですね」
「ふふ、いつみくんが、ひなたぼっこしてるみたいに浮かんでる」
通信越しに返る声は落ち着いている。昔からそうだ。緊張するほど、彼は静かになる。ライトの中心で、何かが揺れた。膜のようで、影のようで、形が定まらない。
「……お、ここにきてファースト村民発見伝。観測開始から1時間彷徨って、やっとじゃない?」
僕は指を組み、無意識に画面へ顔を近づける。
「いつみくん、あのコ。個体判別できる?」
「了解」
声が、ほんの少し上ずる。その変化が、僕にはわかる。
「視認しました……器官の区別がない。左右も、前後も、曖昧だ」
水中からの声は、少し遅れて届く。その遅延さえ、距離の証明みたいで、嫌いじゃない。
「なるほど」
僕は指を組んだまま言う。
「文化史的には、性別以前の存在だね。粘土板が文字になる前の、まだ掬いきれない概念のスープ」
その分裂しそうでしきれない一つながりの形状を持った生命体は、ライトに怯える様子もなく、波打つように形を変え、こちらへ意識だけを寄せてくる。まるで、僕ら二人をまとめて観測しているみたいだ。
その不確かな輪郭に、僕は懐かしさを覚える。朝に雄として目覚め、夕には雌として眠るような、形を変え続ける命たち。僕にとっては、研究室の水槽で、昨日と少し違う母がそこにいるのと同じだった。形が増えても減っても同じ存在だと、僕は幼い頃に覚えてしまった。
「隊長、翻訳をお願いします」
いつみくんが言うと、通信回線の別レイヤーが静かに立ち上がった。通信ログの隅で、甲殻がわずかに軋む音がする。翻訳層が起動すると同時に、隊長の外装がこの深度に適した形へと再構成された。
《マッタク! 機械ヅカイノアライヤツメ。翻訳開始
《……アナタガタハ ナゼ 自分ヲ 2ツニ 分ケテイル?
いつみくんが小さく息を吸う。
「……これは……性別の話?」
僕は返事をせず、次に来る言葉を待った。
彼が一度、考えてから喋るときの沈黙だ。
通信越しでも、その間合いだけは昔と変わらない。ふと、あの頃の沈黙が重なる。
昔、僕たちは確かに分けられていた。研究所にいた僕と、当時まだ高校生だったいつみくん。彼があの学校に籍を置いていなければ、同じ水槽を覗き込むことも、言葉を交わすこともなかった。社会は年齢と所属で線を引き、僕らはその別々の岸に立っていた。それでも、あのとき初めて気づいたのだ。一度つながってしまえば、もう切り分けられない関係があることに。
「ふふ、初手で核心きちゃった。文化人類学の初回講義かな?」
僕はコンソールの冷たい縁を、指先でなぞる。理論的には完璧な断熱を誇るはずの壁面から、深海の底冷えが思考に染み込んでくる。
《役割ノ固定ハ、移動ヲ遅クスル。環境適応シナイ。アナタガタハ 不自由デハナイノカ?
カプセル内に、微妙な沈黙が落ちる。圧力計の数字が、淡々と現実を主張していた。
「不自由、かぁ……」
僕はモニターから目を離さない。
「君たちから見たら、ニンゲンはだいぶ箱詰めだろうね。その上、無駄にラベル貼りが大好きでさ」
「……俺も、そう思う時はある」
いつみくんの声が低くなる。言葉を選んでいるのがわかる。
「でも、それで全部が決まるわけじゃない」
その「全部」に、僕が含まれているのを、彼はわかって言っている。
生命体の輪郭が、ふわりと広がった。
《ナラバ アナタガタハ、ドノヨウニ 結ビツク?
僕は、通信越しに彼の存在を探す。深海に沈んでいても、彼は僕の隣にいる。
「例を出すのが一番早いな。理屈より観測だ」
少しだけ、声音を和らげる。
「よろこびたまえ、ちょうど君の目の前に、生きた教材がいるぞ」
「のりまさ、また変な例えを使おうとしてるでしょ」
「失敬な。今回は、わりと素直だよ」
僕は肩をすくめる。
「僕といつみくんは、同じ機能を持つ。だから繁殖はできない。でも、役割で愛してるわけじゃない」
いつみくんが、間を置かずに続ける。
「俺は現場、こいつは管制。でもそれは仕事の話。好きなのは……一緒に潜ってる、この関係」
解析音が、わずかに強まりノイズが走る。その向こうでいつみくんがヘルメットの中で、首を小さく鳴らした音がした。数百メートルの水圧が彼の骨格を均等に押し固め、その反動で彼の声がいつもより少しだけ、密度の高い色を帯びる。
「一緒に潜って、同じものを見て、違うことを考えて、後で擦り合わせる。……好きなのは、過程そのものです」
《固定デハナク、選択ノ反復。相互参照関係――理解
生命体は、淡い色を流すように変化した。
《アナタガタハ、ワケラレテイテ、ワケラレテイナイ
「いい表現だね。詩人さんだ」
いつみくんが言う。
「この深度で言われると、妙に沁みる」
《アナタガタモ、水圧ノ中デハ、同ジ
生命体はそれだけ告げると、ライトの縁から静かに、ゆるやかに去っていった。区別も境界も意識せず、僕らをただ並んで存在させたままの視線で。
闇が、また均一になる。世界が、しんとする。深海はいつもどおり、無言だ。
「……不自由でも、存外悪くないものですよ」
いつみくんの声が、やけに近く聞こえた。
「一人じゃ、ここまで来ない」
「だね」
僕は笑う。
「二人で箱詰めなら、悪くない」
性がないから自由、というわけでもない。さっきの生命体も、あの深度で、あの形でしかそこにはいられなかった。漂っているように見えて水圧と温度に抱え込まれていたのだ。
直後、隊長が容赦なく割り込む。
《Attention,背後150メートル、別個体接近。観測価値、チャンス
隊長の外装が静かに切り替わる。オオグソクムシ型の甲殻が内側へ収まり、ヒレとも外套膜ともつかない滑空に適した薄い構造が展開された。
《深度維持。人間個体耐性内。対象――大型頭足類横移動30。微上昇5》
その一語で、通信回線の向こうがざわつくのが分かった。
「……隊長、それって」
いつみくんが笑ったのか、息を詰まらせたのか、通信越しでは判然としない音がした。
《ダイオウイカ。記録価値、高。スキダロ?学習済ダ
ほんのわずかな間を置いて、続く。
《コレデ給料分 ノ 仕事ハ シタナ!
僕は小さく笑った。「ふふ、せっかくエモい気分に浸れたのに……学びの余韻は、許されないみたい」
「深海はいつもそうですよ。考えた分だけ、次を寄越す」
いつみくんが、どこか楽しげに旋回する。僕の手のひらに、彼が機体を傾けた際の振動が、微かな余震となって伝わってきた。
深度380メートル。人間がまだ立ち会える闇―薄明層で、またひとつ、宿題だけが増えた。けれどその闇の向こうに、彼のライトが静かに揺れている。
薄明層にて すずなり @crampon_3
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます