第9話「砕かれた心」

 俺がΩであるという噂は、燎原の火のごとく屋敷を越え、都中にまで広まっていった。


「福の作り手が、あろうことかΩだった」


「龍神様への冒涜だ」


「すぐに儀式から引きずり下ろせ」


 人々の声は日増しに大きくなり、俺を非難する激しい嵐となった。


 暁は俺を案じ、外出を固く禁じた。だが、部屋に閉じこもっていても、外の喧騒は嫌でも耳に入ってくる。俺は日に日にやつれ、心をすり減らしていった。


 あんなに楽しかった福巻き作りも、もう手につかなかった。厨房に立っても、あの侍女たちの冷たい視線や、都の人々の罵声が蘇り、吐き気さえ覚える。食材に触れる指は震え、何度も包丁を取り落としそうになった。


『俺なんかが、神聖な料理に触れていいはずがない』


 一度生まれた疑念は、毒のように心を蝕んでいく。

 料理人としての自信も、誇りも、全てが粉々に砕け散ってしまったようだった。


「伊吹」


 その日も、部屋の隅で膝を抱えていた俺の元に、暁がやって来た。彼の顔にも、心労の色が浮かんでいる。俺のせいで、彼も苦しんでいるのだ。それがたまらなく辛かった。


「……暁さん。ごめんなさい」


「なぜ、お前が謝る」


「俺が、Ωだから……暁さんに、たくさんの迷惑をかけてる」


 声が震える。涙がこぼれ落ちそうになるのを、必死でこらえた。


「俺、もうダメみたいです。福の作り手なんて、やっぱり無理だったんだ。料理を作るのが、怖い……」


 そう口にした瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。俺の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。


「う、ぁ……っ、ごめ、なさ……っ」


 嗚咽が止まらない。子供のように泣きじゃくる俺を、暁は何も言わずに力強く抱きしめてくれた。その胸は、いつもと同じように温かくて、逞しい。


「……迷惑だなどと、思ったことは一度もない」


 しばらくして、暁が俺の髪を撫でながら、静かに言った。


「辛い思いをさせて、すまなかった。お前が苦しんでいるのに、すぐに助けてやれなくて」


 彼の声は、自らを責めるように痛々しく響いた。違う、暁さんは何も悪くない。悪いのは全部、俺なんだ。そう言おうとしても、喉が詰まって声にならない。


「伊吹。顔を上げろ」


 促されるままに顔を上げると、暁が真剣な瞳で俺を見つめていた。その瞳には、いかなる嵐にも揺るがない、強い光が宿っている。


「いいか、よく聞け。俺はお前を信じている。お前がΩであることも含めて、お前の全てを愛している。それは、何があっても変わらない」


 彼の言葉が、一言一言、砕かれた心に染み渡っていく。


「世間の声など、気にするな。お前の価値は、お前自身が決めるものだ。俺が、それを証明してみせる」


 暁はそう言うと、俺の涙を指で優しく拭った。その眼差しは、何よりも雄弁に彼の覚悟を物語っていた。


 俺のせいで砕かれたはずの心が、彼の言葉によって、再び繋ぎ合わされていくような気がした。まだ痛みは残っている。恐怖も消えてはいない。

 けれど、この人だけは、何があっても俺のそばにいてくれる。

 その事実だけが、暗闇の中に差し込む一筋の光のように、俺を照らしていた。

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