御門先生の新しい一歩

ガチャッ。


勢いよく診断室のドアが開いたかと思うと、なんだか怪しい笑顔を満面に浮かべた花村先生が、ずんずんとこちらに近づいてくる。


(こわっ……)


咄嗟に椅子の背を掴み、身体を後ろに引いた。


「ど、ど、どうしたのかな……?」


「いえ、先生。あの、ご相談がありまして」


そう切り出してから、花村先生は一気に言った。


「実は笑心ちゃんが、勉強に不安があって、学校に行きたくても行けないって言うんですよ。まだ、笑心ちゃんのお母様も戻られていないじゃないですか。ですから、その間、御門先生に勉強を教えてあげてほしいんです」


「えっ、いや、だって勉強道具とかないじゃない……」


「それならお任せください。私が中学二年生の教材をお作りいたしますので」


食い気味に、ジーニーが会話に割り込んできた。


「えっ。でも……」


「笑心ちゃんに、いい家庭教師がいるって言っちゃったんです。それに、心配ですよね。御門先生も、笑心ちゃんのこと。戻りたいのに戻れないんですって。何とかしてあげたいですよね?」


花村先生は、そう言いながら、言葉の雨を降らせ続けた。


二人(?)に両脇を固められ、逃げ道を完全に断たれた。


「……わ、わかった……」


それ以外の言葉は、もう出てこなかった。

いや――出せなかった、という方が正しい。


カウンセラー室に向かうと、僕の姿を見つけた笑心ちゃんが、ぱっと立ち上がり、

「よろしくお願いします、先生」

と、ぺこりと頭を下げてきた。


ゔっ……眩しい。

診断室と違って、大きな窓が並ぶこのカウンセラー室が笑心ちゃんの笑顔によりさらに明るさを増す。


ひたすら籠ってゲームがしたい僕は、このまま溶けてしまうんじゃないだろうか……。

そんな、身の危険すら感じた。



「よ、よろしく……」

足と顔を引きつらせながら、笑心ちゃんの向かいに座る。

ジーニーは引き続き、タブレット越しにこちらの様子をうかがっていた。


「えっと、今日は何からやったらいいかな?」


「実は、二年の一学期、ほとんど通えてないんです。社会は教科書で何とかなりそうなんですけど、英語と数学、理科が難しくて……。

できれば今日は、数学の連立方程式から教えていただけませんか?」


なるほど。この子は賢い。

ちゃんと自分のできないところと、やるべき順番がわかっている。


これなら……できるかもしれない。

少しだけ、自分が人に勉強を教えるということに、希望が持てた。



「連立は、まったく初めて?」


「いえ、最初の加減法のやり方は自分でなんとかなりました。xとyのどちらかを消していくやり方ですよね。でも、その後が……」


「ジーニー、連立方程式の問題、作って。」


「はい。かしこまりました。」


そう言うと、いちばん最初に習うであろう問題から、徐々にレベルの上がった問題が提示される。


「それじゃあ、復習から。できるところまで、一人でやってみて。」

そう言って、紙と筆記用具を渡した。


「はい。」

そう言ってペンを握った笑心ちゃんからは、はっきりとした“やる気”が伝わってきた。



「えっと……これは……」

小さく何かを呟きながら、彼女のペンはスラスラと走っている。


「で、これは……こっちがxで、こっちが3xだから、これを全部3倍にして……よし、解けた。たぶん、合ってる。

で、次が……えっと、2xと3xで、5yと3y……」


彼女は視線を紙から僕の顔に移した。


「……? どこか、わからない?」

そう聞くと、


「すみません、ここからがちょっと……」

と言って、指で式を指した。


「えっと、今までのは解けてたかな。ちょっと答え合わせしてみていい?」


「はい、お願いします。」


そう言って紙を受け取り、彼女の書いたものを見直していく。

全問、正解。


「今までやったものは、ちゃんとできてるね。

じゃあ、どうしてそう解いたのか、僕に説明してくれるかな?」


「えっ? 説明……ですか?」


「そう、説明。」


彼女は少し困惑しているように見える。

……変なこと、言ってるかな。


そこへ花村先生が、二人分のコーヒーを入れてやってきた。

それをテーブルに置きながら、笑心ちゃんに言う。


「大丈夫ですよ。御門先生は、とても優しい人ですから。

笑心ちゃんの言葉で伝えてもらって。

あまり『ちゃんと説明しなきゃ』って思わなくていいんですよ。

友達に話すみたいに、説明してみてはどうですか?」


そう言われて、


(そうか……説明すること自体が難しいんじゃなくて、

“あまりよくわからない相手に、自分の言葉で伝える”のが難しいのか……)


と、ようやく腑に落ちた。


さすが花村先生だ。

彼女の一言のおかげで、笑心ちゃんもゆっくりと口を開いた。


「えっと…。xか、yのどちらかの係数を揃えて、足し算か引き算をして0にしてどっちかの文字を無くして一次方程式にする。そうすると、片方の値がわかるから、次に上か、下の式のどっちかにこの値を代入するば、また一次方程式になるから、もう片方の値もわかる。…です。」


「そうだね。じゃあ、この式の難しいところは、どこだった?」


「今までは、どっちかの式に係数を合わせればよかったんですけど、この問題は、2は3にならないし、5は3にならない。だから係数をそろえられなくて……」


「そうだね。片方だけ見てると、そろえられないって思うよね。

でもね、笑心ちゃんは、もう答えを言っているんだよ」


「えっ? どういうことですか?」


「係数を揃えるということ。

じゃあ、2と3の最小公倍数はいくつかな?」


「6です」

『最小公倍数』という言葉に、少しも迷うことなく答えてきた。


「そうだね。じゃあ、両方の式を2倍と3倍にしたら、どうなる?」


「あっ、xの係数が、両方とも6になります。

……そっか。片方の式しか触れないと思ってたから、できなかったんだ。両方の式にそれぞれ違う数字をかける。

等式だから、同じ数をかければ何でもできますもんね!」


「そうだね。一人で勉強していると、変な先入観を持ってしまって、なかなかそこから抜け出せなくなることもあるよね」


そこからは、迷うことなく次々と問題を解いていった。

難しい分数や小数の問題も、ほんの少しの後押しで、あっという間に終わらせてしまった。


その後は、代入法と、A=B=Cの考え方も説明して、この短い時間で、連立方程式を一通りきれいに解ききってしまった。



「すごいね、笑心ちゃん。数学、得意なんだね。」


「はい。数学はわりと好きですけど、先生の説明がとてもわかりやすかったです。ありがとうございました。私……とても勉強に飢えてたみたいです。」


そう言って、照れたように笑った。


「数学はもう、みんなに追いつけたと思いますよ。」

そうジーニーが、タブレットの画面に文字を残してきた。


「笑心ちゃん、僕の見た感じだと、君はとても賢い。学校の先生に相談すれば、あっという間にみんなに追いつくと思うけど――」



「……そうですね。」


パッと顔を上げた笑心ちゃんの表情には、自信が戻ってきているようだった。


「はい。私、学校の先生に相談してみます。」


そう言って、スクっと立ち上がり、


「先生、ありがとうございました。」


と、深々と頭を下げた。


僕もその場で立ち上がり、


「笑心ちゃんなら大丈夫。自信を持って。これからも応援してるから。またここに遊びにおいで。」


と声をかける。


「はい。先生、また勉強を教えてください。」


その言葉は、いつの間にか――

僕にも、家庭教師としての自信をくれていた。


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