新しい一歩

石渡親子を見送った後の診断室。


ジーニーが、素晴らしいアイデアをひらめかせていた。


「御門先生、時間を持て余して困っていましたよね。」


「いや、まぁ、そうなんだけどさ…ジーニー。」


「それなら一石二鳥ではないですか?」


「うーん…。」


診断室に戻った御門先生は、頭を抱えて唸っていた。


「何をそんなに悩んでいるんですか?」と私が聞くと、


PCの画面に文字が表示されると同時に、音声も流れた。


「御門先生に提案しています。笑心さんに勉強を教えて差し上げればと。」


「すごい、ジーニー! それは素敵ですね。さすがです。」

思わず、私は手を叩いた。


「いいですよね? 先生。きっと笑心ちゃんも喜びますよ!」


それでも御門先生は「うーん」と唸り続けている。


「どうしたんですか? おなか痛いとかですか?」


「いや、痛くない…。」


「では、何でそんなに唸っているんですか?」


「僕はねぇ、人に勉強を教えるのが苦手なんだよ。学校で教わる程度の内容の、何がわからないのかがわかってあげられないから。

しかも、女子中学生でしょう? どうやって接すればいいかわからないじゃない。」


なんとなく、鼻につくような話で固まってしまった。


「えっと、先生。龍神様に憑かれてますか?」

思わず、ジトっとした目で見てしまった。


「いや、ないよ。って、何が? 何でそう思ったの?」


どうやら御門先生には、わからないようだった。


「御門先生にも課題ができて何よりです。」

ジーニーだけが、私の気持ちを理解してくれたようだった。


それから数日が経った。

相変わらず雨は飽きることなく、地面に水たまりを作り続けている。


「こんにちは」

元気な声がクリニックに響いた。


そこには、石渡親子が立っていた。前回とは違い、明るい笑顔で。


「こんにちは」

私は二人の顔を見て、とても安心した。聞かなくても、症状が改善されたことがわかる。


「今日はどうされましたか?」

一応、声をかけてみる。


「娘が学校に行く前に、またこちらに来たいと言うので連れてきました。

病院なのに、気軽に来てしまい申し訳ないとは思ったのですが…」

そう言って、お母さんは済まなそうに笑った。


「いえ、こんな足元の悪い中、来てくれて嬉しいです。」


「どうしても花村先生とお話したかったんです」

笑心ちゃんは笑顔で、そんな可愛いことを言ってくれた。


「ありがとう。今日も、たくさんお話しましょうね。」


私は笑心ちゃんに笑顔でそう返した。

それから、石渡さんの方に向き直る。


「お母様は、どうされますか?」


「私は……。もしご迷惑でなかったら、娘をお願いして、私は一度買い物に出てもいいですか?」


少し遠慮がちに、そう尋ねてきた。


「もちろんです。

どうぞ、ゆっくりしてきてください。」


石渡さんを二人で見送ると、


「じゃあ、カウンセラー室に行こっか。」


そう言って、待合室から直接入れるドアを案内した。


「先に座って待っててね。」


そう声をかけてから、私は一度診断室の方へ向かう。


御門先生は、相変わらずトランプでピラミッドを作っていた。


私は診断室に顔を出し、トランプでピラミッドを作っている御門先生に笑心ちゃんが来ていることを伝えると、カウンセラー室へ戻った。



「さて、今日はどんな気分ですか?

何でもは出してあげられないけれど。」


そう言うと、笑心ちゃんは「お茶のこと、よくわからないから教えてほしい」と言った。

私は少し考える。

それならハーブティーで、できるだけクセのないものを……。


(やっぱり中学生だから、フルーティーなものがいいよね。)



「温かいのと冷たいのと、どちらがいいですか?」


後ろを振り返って笑心ちゃんに確認すると、「温かいので」と返ってきた。


アップルとカモミールを手に取ると、それぞれの茶葉をスプーンですくう。この時点ですでに、甘い香りが漂い始めていた。


「リンゴの匂い。」

と、気づいた彼女が声を上げる。


カップをソーサーにのせ、トレイに置くと、ハチミツの入った小さなポットと、シナモンスティックを添えた。


笑心ちゃんは、好奇心の塊みたいな無邪気な笑顔で、それらを見ている。


「この棒みたいのはなんですか?」

と、シナモンスティックを手に取って聞いてきた。


「匂いを嗅いでみてください。なんでしょう。」


そう言うと、笑心ちゃんは鼻の下に持っていき、匂いを嗅ぐ。


「あっ、これ、シナモンですか?」


「正解です。小さなポットにはハチミツが入っています。それを、そのシナモンスティックでかき混ぜると、シナモンの香りがお茶につきますよ。お好みで使ってくださいね。」


そう言うと、笑心ちゃんの瞳がキラキラと輝き出した。


「素敵です。オシャレ。」


彼女はカップを口元に運ぶと、

「このまま飲んでみよ」

と言って、一口飲んだ。


「美味しい。リンゴの匂いがする。アップルティですか?」


「はい。正確に言うと、アップルカモミールティで、少しカモミールというハーブが入っています。」


「へぇ。」


そう言いながら、そのままのお茶をもう一口。

次にハチミツを入れて、また一口。


実験をしているみたいに、少し入れて飲んで確かめて、最後に嬉しそうにシナモンスティックで数回かき混ぜると、深く匂いを吸い込んだ。


「うわー、いい匂い。」


ゴクリ、とひと口飲んでから、


「美味しい。先生、すごいですね。天才!」


「えへへっ、ありがとう。でも、さすがに天才は言い過ぎです。」


「そんなことないです」


そう言って、笑心ちゃんと二人で笑い合った。


お茶を堪能すると、笑心ちゃんは少しだけ表情を引き締めて言った。


「先生、私、学校に戻ります。でも、先生が言ったように、やっぱり勉強が心配なんです。だから、いつ行こうかって考えているうちに、一日が終わっちゃって……。一応、教科書は見ているんですけど、内容が全然、頭に入ってこなくて……」


「先生には、そのことは伝えていないの?」


「はい。言えば、先生が色々やってくれるとは思うんですけど……。今って総体の時期ですよね。だから、あんまり迷惑をかけたくないというか……」


そうやって相手の立場を考えられる笑心ちゃんは、もともと周囲に気を配れる、賢い子なのだ。


「それなら、ここで少し勉強していきませんか?」


そう言うと、笑心ちゃんはパッと顔を上げ、ぱっと明るい表情になった。



「いい家庭教師がいるんですよ。」


(……なんだろう。心なしか、花村先生の顔が小悪魔に見える……)


そんな笑心ちゃんの視線など気づかないふりをして、私は心の中で「ふふん」と小さく笑う。

御門先生を、ほんの少しだけ困らせてみたくなったのだ。


長く続いている雨も、毎年こうして次の季節を迎え入れる準備をしてくれている。

そして、日々悩み苦しんできた目の前の少女もまた、新しい日常へと踏み出そうとしていた。


救われる。人も、そして見えざるものも。

ここは、そんな存在たちを受け入れるクリニック。

その一員になれたことを、私はこの上ない誇りに思い、そして感謝している。




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