この恋、まだ湯煎中。
守智月 茶沙
第一章 温める準備
五限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
一月になり授業自体の終わりも近づく教室には、温かい暖房の風が流れていた。
帰り支度を始める学生たちの声が柔らかく響く。
「そういやさ~、そろそろバレンタインだけど、チョコとかどうする?」
一日の授業を全て終えた青井(あおい)悠(はる)は、広げたプリントとタブレットを鞄に仕舞いながら、後方から聞こえてくる会話に耳を傾ける。
「あー、そういえばそうか。また交換会にする?」
話しているのは、同じゼミの女子たちだ。
バレンタインデーか。仁人(きみと)さんにチョコレートとかあげたことないな。
心臓が少しだけ跳ねる。
そんなこと、考えたこともなかった。
悠には、三つ年上の恋人がいる。
名前は、篠原(しのはら)仁人。
もともと同じ大学の文学科に通っていた先輩で、現在は少し離れた町の小さな編集部で働いている。
ただ、彼との関係を知っているのは、ごく一部の友人だけだ。
「それでもいいけど、みんなで作るのもあり」
「えっ、チョコって作れるの?」
気が付いた時には、声に出てしまっていた。
「え、作れるよ。本格的なのは難しいけど」
話していた女子の片方、清水(しみず)は、急に声を掛けられ、驚いた様子ながらもきちんと答えてくれた。
「誰かあげる予定あるの?」
清水と話していた狭川(さがわ)が、興味深そうにこちらを見る。
狭川は人をからかうのが好きな性格で、清水はゼミ内でも面倒見がいいほうだ。
「え、あ、えーっと、そんなところ」
「ふむ、青井なら彼女の一人や二人いるか」
彼氏がいるとは言えずに言い淀むも、二人は深く詮索しないでくれた。
「って、二人いたら問題でしょ!」
「ははは、まあまあ、そこは置いておいて」
「置くなよ!」
二人は悠のことをからかいながら、微笑ましいと言わんばかりに笑っている。
「で、青井くんはバレンタインのお菓子作りたいの?」
清水が少し不思議そうな顔で、悠のほうを見る。
「あー、うーん、そうだな。作って、みたいかも?」
悠がそう答えると、清水と狭川はなぜか嬉しそうに顔を見合わせた。
話をした数日後、悠は清水と狭川に呼び出されていた。
バレンタインのお菓子作りの相談だと聞いている。
「で、図書館で何すんの?」
椅子に荷物を下ろした悠は、先に座っていた清水の正面に腰を下ろした。
「遅かったね~。今さっちゃんが本取りに行ってくれてるから、もう少し待ってて」
「ごめん、授業が長引いて」
たくさんのプリントに囲まれた清水は、ノートパソコンでさらに何かを探しているらしい。
「あ、青井来てるじゃん」
そうこうしていると、背後の階段から狭川が降りてきた。
両手で何冊かの本を抱えて来たようで、「よっこいしょ」という掛け声とともに、机の上に本を下ろした。
「意外とたくさんあったんだねぇ」
「市内の図書館よりは少ないけど、なんとかなるくらいはあったよ」
そう話すと、本を置いた狭川は清水の隣に座り、面接官のように悠と向き合った。
「さて、青井悠さん、あなたはバレンタインデーに向けてチョコレートを作りたいとのことですが、何を作りたいなどの希望はありますか?」
「え、えっと、お菓子とか作ったことないから……」
「やーはーりー、そんなことだと思っていました。なーのーでー、私たちがここまで用意してあげました!」
清水から借りたらしい眼鏡をくいっと持ち上げた狭川は、机の上に広げられた本やプリントを指さした。
「えっと、つまり、こん中から作れるお菓子を探すの手伝ってくれるってこと?」
「まあ、そうだねぇ。さっちゃんが青井くん一人じゃ大変だろうからって」
狭川から返してもらった眼鏡をかけ直しながら清水が答えた。
「ちょ、ちょっとしーちゃん。そこまで説明しなくていいじゃん」
顔を少し赤くした狭川は、ぽかぽかと清水を叩いている。
「あ、ありがとう。全然わかんないから助かるよ」
悠は素直にお礼を言って頭を下げた。
初めてとはいえ、バレンタインのお菓子を作れるのは悠にとっても心躍るものだった。
机の脇に置かれたスマホの画面が光る。
『今週末はこっちに来られそう?』
机の周りから聞こえるのは楽しげな声。
あれがいい、これがいいと話し合う声だった。
真っ暗になった空に星が輝く。
キンキンに冷えた空気が、悠の息を白く凍らせた。
「『ごめん、課題が多くて、今週は会えなさそう』っと。返信するの忘れてて遅くなっちゃった」
スマホをポケットに仕舞った悠は、バイクに跨ってキーに手をやる。
送信してから、少しだけ胸がざわついた。
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