子育て世帯のための時間再分配法

剛田ぽんぬ

子育て世帯のための時間再分配法

 二〇三五年四月一日、午前六時。

 田中健司は、左腕に埋め込まれた「時間計」のアラームで目を覚ました。

 健司の一日は、二十三時間三十分しかない。

 毎日午前〇時に三十分が徴収される。年齢も収入も関係ない。「子供を扶養していない者」は全員、一日三十分。年間で百八十時間以上。十年で二千時間近く。

 人生から丸々八十日以上が消える計算だ。


 「子育て世帯のための時間再分配法」が施行されて五年が経つ。

 施行当初は一日十分だった。

 十分ならまあいいか、と多くの人が思った。

 しかし二年目、「育児支援強化」を名目に二十分に増えた。

 四年目、「少子化緊急対策」として三十分になった。

 十分が二十分になり、二十分が三十分になった。次は四十分か、一時間か。誰も分からない。分かっているのは、一度始まった徴収は増えることはあっても減ることはない、ということだけだ。


 健司は冷蔵庫を開けた。

 中には賞味期限が二日過ぎた牛乳と、コンビニで買った惣菜の残りがあった。

 三十四歳、独身、一人暮らし。

 彼女いない歴は二年になる。三年付き合った彼女に別れを告げられた。

 「子供、欲しくないの?」

 「うん」

 「……じゃあ、私たち続けても意味ないね」

 それだけだった。

 健司は子供が嫌いなわけではない。ただ、欲しいと思ったことがなかった。

 この世界では、それだけで「負け組」になる。



      *


 同じ日の午前七時。

 田中美咲は、時間計を見て小さく息をついた。

 美咲の一日は、二十六時間五分もある。

 三人の子供がいる。長女の莉子が八歳で二十分、長男の蓮が六歳で三十分、次女の結衣が三歳で四十分。それに加えて、三人以上の多子世帯には追加で三十五分が支給される。合計二時間五分。

 「ママー、ご飯まだー?」

 蓮が台所に走ってきた。

 「今作ってるわよ。もうちょっと待ってね」

 美咲は余裕の笑顔で答えた。


 この法律ができる前、美咲は壊れかけていた。

 仕事、家事、育児。すべてが中途半端で、毎日が地獄だった。

 朝五時に起きて弁当を作り、子供たちを起こして朝食を食べさせ、保育園と小学校に送り届け、満員電車で会社に行き、昼休みも惜しんで働き、定時で上がって買い物をして、子供たちを迎えに行き、夕食を作り、風呂に入れ、宿題を見て、寝かしつけ、洗濯をして、食器を洗い、やっと座れるのは夜十一時。

 そして朝五時に目覚ましが鳴る。

 夫の大輔は「手伝う」と言うが、その「手伝い」は週に一度あるかないかだった。

 何度も離婚を考えた。

 何度も、消えてしまいたいと思った。


 でも今は違う。

 二時間の余裕が、美咲を救った。

 朝、子供たちを送り出した後の三十分のコーヒータイム。

 昼、結衣が昼寝している間の三十分の読書。

 夜、子供たちが寝た後の一時間のドラマ鑑賞。

 二時間。それがあるかないかで、人生は全く違う。

 

 「ねえママ、今日おばあちゃんち行くんでしょ?」

 莉子が聞いた。

 「そうよ。健司おじちゃんも来るって」

 「やったー! 健司おじちゃん、ゲーム上手いんだよね」

 「そうね」

 美咲は少し複雑な気持ちになった。

 弟の健司。三十四歳、独身。

 美咲が時間をもらう側なら、健司は取られる側だ。

 姉弟で、立場が真逆になっている。

 そのことを、最近はあまり話さないようにしていた。



      *


 昼休み、健司は会社の屋上で煙草を吸っていた。

 同僚の木村が隣に来た。

 「田中、聞いたか? 営業部の中村さん」

 「何かあったのか?」

 「シンガポールに行くらしい」

 健司は煙を吐き出した。

 「また一人か」

 「ああ。今年で五人目だ」

 「シンガポールは時間再分配法がないからな」

 「当たり前だ。こんな法律があるの、世界で日本だけだぞ。最近はポルトガルも人気らしい。物価も安いし、ビザも取りやすいって」

 木村が吐き捨てるように言った。


 「時間難民」という言葉が生まれたのは、法律施行から二年後のことだった。

 時間を奪われることに耐えられない人々が、海外に逃げ出した。

 最初は富裕層だった。金のある独身者は、シンガポール、ドバイ、ポルトガルなど、時間再分配法のない国に移住した。

 次に高スキル層が続いた。エンジニア、研究者、医師、弁護士。彼らは世界中で需要がある。日本にいる理由がなくなれば、出て行くのは当然だった。


 「中村さんの穴、どうすんだろうな」

 木村が言った。

 「また派遣か、外注だろ」

 「最近そればっかりだよな。正社員が減って、派遣と外注で回す。でもなり手がどんどん減ってる」

 「悪循環だな」

 「ああ、でも政府は『出生率が上がった』『制度は成功だ』の一点張りだ」

 健司は煙草を揉み消した。

 確かに出生率は上がっていた。

 法施行前の一・二〇から、現在は一・五五。

 数字だけ見れば、大成功だ。


 「なあ田中」

 木村が声を潜めた。

 「お前、ニュース見たか? 埼玉の事件」

 「ああ……」

 先週、埼玉県で三十代の女性が生後三か月の乳児を遺棄した事件があった。

 女性は取り調べでこう供述したという。

 「時間がほしかった。子供を産めば時間がもらえると聞いた。でも、育てるつもりはなかった」

 「時間目当て出産」という言葉が、ネットで広まり始めていた。

 児童相談所への虐待通報は、法施行後、二倍以上に増えたという。


 「あと、ペーパー養子縁組って知ってるか?」

 木村が続けた。

 「聞いたことはある」

 「経理の佐々木、あれやってるらしいぞ。月五万で、施設の子供と書類上だけ養子縁組。実際には会わない。金だけ払えば『子持ち』になれる」

 健司は何も言わなかった。

 数字の上では、この国は良くなっている。

 その裏で何が起きているかは、誰も気にしない。



      *


 夕方、健司は実家に向かった。

 月に一度の家族の集まり。両親と、姉の美咲一家。


 実家に着くと、姉の子供たちが飛びついてきた。

 「健司おじちゃん!」

 「おう、元気か」

 健司は莉子と蓮の頭を撫でた。結衣はまだ人見知りで、美咲の後ろに隠れている。

 リビングには両親がいた。

 父は六十五歳、母は六十三歳。二人とも、子育てを終えた今は時間を取られる側だ。


 夕食の席で、父がビールを開けながら言った。

 「健司、最近どうだ。彼女できたか」

 「いや」

 「そろそろ考えた方がいいんじゃないか」

 「……別に」

 「美咲だって大変なんだから。お前も結婚して子供作れば、取られる側から抜けられるんだぞ」

 「俺は子供欲しくない」

 「何言ってんだ——」

 「俺は子供欲しくないんだよ」

 健司は箸を置いた。

 食卓が静まり返った。

 「俺は帰る」

 健司は立ち上がった。

 「健司!」

 「ごちそうさま」

 玄関で靴を履いていると、美咲が追いかけてきた。

 「健司」

 「何」

 「……ごめんね」

 「姉ちゃんが謝ることじゃない」

 健司はドアを開けた。

 「また来るよ」

 そう言って、実家を出た。



      *


 帰りのバスの中で、健司はスマートフォンを開いた。

 ニュースアプリに、今日のトップ記事が表示されていた。

 「時間再分配法、来年度から徴収量を四十分に引き上げへ——政府方針」

 三十分が四十分になる。

 窓の外を夜景が流れていく。

 父の顔が浮かんだ。「お前も結婚しろ」。

 会社を去っていく同僚たちの背中が浮かんだ。

 元カノの顔が浮かんだ。

 出生率は上がり、制度は「成功」した。

 でも、健司のような人間は、この国にいる理由がなくなった。


 最寄りのバス停で降りて、健司はコンビニに寄った。

 缶ビールを手に取り、レジに向かう途中で足を止めた。

 雑誌コーナーの隅に、語学テキストが並んでいる。

 健司はしばらくそれを眺めてから、一冊を手に取った。


 アパートに戻り、缶ビールを開けた。

 テーブルの上には、さっき買ったポルトガル語の入門書。

 健司はそれを開き、最初のページを読み始めた。

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子育て世帯のための時間再分配法 剛田ぽんぬ @ponne_goda

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