先生の日常

おでん先生

第1話 2026年始動

正月明けの体育館ほど、残酷な場所はない。


 2026年一月。

 世間では「仕事始め」という言葉が、どこか希望に満ちた響きを持って使われている頃だが、少なくとも私にとってそれは違った。


 私の仕事始めは、部活だった。

 しかも、合同練習。


 逃げ場はない。


 私は中学校の体育教師で、バドミントン部の顧問をしている。

 顧問と言っても、戦術を語るタイプではない。どちらかといえば、ラケットを握り、一緒にシャトルを追いかけ、「ほら、今のコースだ」とか「今の一歩が遅い」とか、身体で示すタイプだ。


 少なくとも、去年まではそうだった。


 だが、今年は違う。

 決定的に、違う。


 年末。

 「今年はゆっくり休もう」と決めたのが、すべての始まりだった。


 理由はいくらでもあった。

 二学期の行事ラッシュ、部活の大会、会議、書類、会議、書類、そしてまた会議。

 体育教師という仕事は、身体を動かしているようで、意外と心の方が先に疲れる。


 だから私は自分に言い訳をした。

 正月くらい、身体を休ませてもいいだろう、と。


 結果、私は完璧に休ませすぎた。


 朝起きて、餅。

 昼、餅。

 夜、鍋。

 間食、みかん。


 「運動は三が日が明けてからでいいか」


 その「三が日」は、いつの間にか五日になり、七日になり、気づけば合同練習当日を迎えていた。


 体育館に入った瞬間、私は悟った。


 ――これは、まずい。


 床に反射するライト。

 跳ねるシャトルの音。

 生徒たちの軽やかなフットワーク。


 彼らは、元気だった。

 実に、腹立たしいほどに。


 「先生! 明けましておめでとうございます!」


 何人かが声をそろえて言う。

 私は笑顔で返す。


 「ああ、おめでとう。今年もよろしくな」


 口ではそう言いながら、内心では別の挨拶をしていた。


 ――俺の身体、明けてないんだけど。


 ウォーミングアップが始まる。

 ランニング、ストレッチ、シャトルを使った基礎打ち。


 私は、なるべく目立たない位置で、動きを確認するふりをしていた。

 この時点では、まだ「いける気」がしていた。


 問題は、その後だ。


 「先生、一本お願いします」


 その一言で、すべてが崩れた。


 基礎打ち。

 つまり、ラリー。


 本来なら、私はここで手本を見せる役割だ。

 フォーム、タイミング、コース。

 どれも、生徒に伝えるための大切な要素。


 だが、現実は非情だった。


 一球目。

 クリアを打つつもりが、ネット。


 あれ?

 もう一度。


 二球目。

 今度はネットを越えたが、明らかに短い。


 三球目。

 足がもつれて、空振り。


 体育館に、微妙な空気が流れた。


 生徒たちは何も言わない。

 言わないが、見ている。

 しっかりと、見ている。


 私は笑って誤魔化した。


 「……正月明けだからな」


 誰かがクスッと笑った。

 それが救いだった。


 だが、身体は正直だ。

 息が上がる。

 心拍数が、明らかにおかしい。


 私は気づいた。

 これは「調子が悪い」のレベルではない。


 完全に、鈍っている。


 ラケットを振るたびに、過去の自分が頭をよぎる。

 去年の自分。

 一昨年の自分。


 「ほら、今の一歩」

 「そのタイミング」


 そう言いながら、軽々と動いていた頃。


 今の私はどうだ。


 「先生、大丈夫ですか?」


 心配されている。


 生徒に。


 体育教師が。


 情けない、と思う気持ちはあった。

 だが、それ以上に、妙な可笑しさがこみ上げてきた。


 ――ああ、そうか。


 これが、時間が進むということか。


 生徒は成長し、

 先生は衰える。


 当たり前のことを、私は今、身体で理解していた。


 それでも、練習は続く。

 合同練習だ。

 相手校の目もある。


 私は途中から、無理に打つのをやめた。

 指示に回る。

 声を出す。


 「今のレシーブいいぞ」

 「そこ、前詰めて」


 声は出る。

 頭も回る。

 ただ、身体だけがついてこない。


 それでいいのかもしれない、とふと思った。


 教師は、常に前を走る存在でなくてもいい。

 横に立ち、時には少し後ろから見る役割でもいい。


 生徒たちは、気づけば自分たちでラリーを続け、声を掛け合っていた。

 正月明けとは思えない集中力。


 私はベンチに腰を下ろし、シャトルの行方を追いながら、静かに息を整えた。


 「先生」


 隣に、生徒が座る。


 「今年も、よろしくお願いします」


 その一言が、妙に胸に響いた。


 私は頷いた。


 「ああ。よろしくな」


 体育館の外は、まだ寒い。

 だが、中は熱気に満ちている。


 こうして2026年は、

 華々しくもなく、

 劇的でもなく、

 ただ少し可笑しく、

 静かに始まった。


 生徒の成長と、

 私の衰えを抱えながら。


 それでも、悪くない。


 いや、きっと――

 これでいい。

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