朝焼け ——約束は果たされなかった

のら犬ユイユイ

第1話

Prolog、、、



 夢かうつつか

 きみのこえがする

 僕にだけ響く

 きみのこえ


 もう聴こえない

 きこえるはずがないのに




「もう駄目よ、隠し通せやしない」

「駄目なんて言わないで」

 薄茶色の髪を腰まで伸ばした少女は、その蒼い瞳からひと粒の涙をこぼした。

「もう貴女には会わない」

 その蒼い瞳に映る、黒髪を顎のラインで前下がりボブヘアにした女性は、瞳を潤ませながらも、決然と言い放つ。

 少女は雷に打たれたような悲壮な表情を浮かべた。その表情を見て、女性は自分の発した言葉を初めて後悔した。

「…会わない」

 先程の決然とした言い方とは程遠い、揺れた声。

「嫌よ」

 その揺れに気付いたのか、少女はぐいと1歩前に出て、女性との距離を詰める。

「わたしから貴女を引いたら何が残るの?」

「何が残るって…言われても……」

「何も残らないわよ」

 少女の一言は、女性の脳内では死んでやる、に変換されて大きく響いた。

 少女は更にもう1歩前に出て、女性の手を掴んだ。

「お願い、貴女を喪いたくないの」



どうして其の手を

離したのだろう

他に術など

無かったのに

君の存在だけが

僕の中で


今も

ずっと

未来永劫


輝いている




 

 その日はよく晴れた月曜日。

 普段なら仕事に向かうはずのその車は、いつもとは反対方向に向かっていた。

 一人の少女が、後部座席で人形のようにかしこまって座っている。ハンドルを握るその父親は、何度もバックミラーに映るその姿を確かめていた。

 まるで、瞬きをしてる間に消えてしまうかのように、生気のない顔からは、なんの感情も読み取れない。

 少女の名は仲畑美代。腰まで届く長い亜麻色の髪、薄いブルーの瞳は、硝子のように輝いている。肌は白く、透けてしまいそうなほどだ。

 美代の細く折れそうな手を、ふっくらした暖かな手が包む。母親の美奈子は、隣に座る美代をずっと見つめている。

 まるで、今生の別れのように、目に焼き付ける。

 美代の涙がポロリと零れて、美奈子の手に落ちる。

「あなた、やっぱり戻って…連れて行くなんて、できないわ」

 美奈子の悲痛な声が車内に響いた。

「美奈子、もう何度も話し合ったじゃないか」

 父親の孝之は、諦めたように溜息をついた。

「だって……」

 美代はそれを、ただ聞いていた。なんにも反応しない。その視線は一心に、窓の外に向けていた。

「この半年、何をしても駄目だった。もう美代が傷つくことだけは…」

 美奈子の脳裏にこの半年がかすめる。

 夜中に帰宅した娘を、驚いて受け入れたあの日。

 半狂乱になって暴れる娘を押さえつけた日。

 リストカットの跡を見つけて叱りとばした日。

 そして、ある手術を経て心を閉ざし、喋らなくなった今の美代。

 これしか道はないと、二人で何度も話し合った。

「やっぱり駄目だわ…離れるなんて…」

「美奈子、しっかりするんだ」

 美奈子の目に、娘と同じ硝子のような瞳に涙が溜まってポトポトと零れる。

「…だって、こんなに大人しくなって、害もないのに」

「いつ暴れるか、わたしらにはわからんのだぞ」

 孝之は、バックミラー越しに二人を観察しながら言った。

「暴れる、だなんて」

「いつ、また自傷行為を繰り返すか、わからん。安全な病院に入れるしかないんだ」

「安全?目を離すことが安全なの?」

 美奈子はあり得ない、とばかりに叫んだ。

「あなたは結局、この子が憎いんだわ。そうでしょう?」

 論点のずれた返事に、孝之はまた溜息をついた。

「また溜息ね!早く車を止めて、家に帰って」

 ヒステリックな叫びが、美代の耳についた。

 また、これだ、と美代は思った。

 美代は美奈子の前夫との子供で、孝之と血の繋がりはない。美代が五歳の時に二人は出逢い、再婚した。

 美代の下には弟がいた。弟はもちろん、孝之と血の繋がりのある子だ。だから仲畑家では時折、美代について論争が起こるのだ。

 血の繋がり、そんなに大事なのかな、と美代は何度も自分に問うた問いの中に逃げた。

「美奈子、落ち着いてくれ。美代が動揺するよ」 

「落ち着いてなんて…あなたはよくもそんなに落ち着けますね」

 美奈子が扉に手をかけたので、孝之は慌てた。丁度路肩にスペースがあったので、車を寄せて停める。

「わかった。わかった、とりあえず停まったよ」

「美代を、連れていかないで」

 美奈子は自分のシートベルトを外し、次に美代のシートベルトに手をやった。

 その時だった。

「お母さん、わたし、行くから」

 美代が窓の外を見つめたまま、そう呟いた。

「へ?美代?今なんて…」

「わたし、行くから」

 その鈴のような声に、悲壮な色はなかった。ただ淡々と、自分の意志を乗せて伝える。

「お父さん、車を出して」

 孝之は呆気にとられて美代を見つめたままだ。

「美代……いいのか?」

 それ以上話すつもりはないのか、美代は代わりに小さく頷いた。

 再び車が動き出す。

 今度は車内には、エンジン音以外響かなかった。


 山あいにある、入院設備のある精神病院。

 三人は時間通りに目的地に着いた。

「ここは、安心して休む場所だと思って頂けますか?」

 三人の前には、佐伯と名札のついた女性医師が座っていた。

「安心して?ええ、まあ…」

 孝之は、美奈子の方をそっと見やりながら、受け答えする。

「美代さん、主治医の佐伯エミリです。よろしくね」

 美代の瞳には、何も映って居なかった。ただ天井を見上げている。

「やっぱり、無理なんじゃ…わたしたち、間違ってるんじゃ…」

 その様子を見て、また美奈子が泣き出した。

「お母さま、落ち着いてください。美代さん?」

「よろしくお願いします」

 美代は小さく、けれど確かに呟いた。

「大切なのは、ご家族もしっかりおやすみになることです。では美代さん、こちらに同意のサインを…」

 美代は佐伯の方を向き、指さされた箇所にサインをした。その白く細い腕には、赤く腫れたリストカットの跡が、痛々しく残っている。

 数ヶ月前には確かになかったその跡が、美奈子の迷いを吹っ切ったらしい。

「美代…ここにいれば美代は、安心して休めるんですよね?」

 そして、佐伯に問いかける。

「はい、ご安心ください」

 急激に窶れた頬、栄養失調から来る、蒼白いその色。なにもかもが悲劇的な美代は、サインを終えるとまた天井を見上げた。

「片倉くん、ご案内して。ご両親はここまでです」

 佐伯は傍らに控えていた看護師に声をかける。片倉と呼ばれた男性の看護師を、美代はチラリと見た。

 片倉が男性であることに、一瞬怯えた色がその瞳に浮かぶ。けれど抗うことはなく、美代は片倉に従った。

「美代、待って」

 美奈子は思わず立ち上がると、美代を抱きしめた。

「きちんと、ごはん、食べてね。元気にするのよ」

 美代は相変わらず立ち尽くすばかりでなんの反応もしない。

「お母さま、ご安心ください」

 佐伯の声で美奈子は我に返ると、我が子を愛おしそうに見つめた。

 美代は無言のまま、診察室を出ていった。

 

 美代はその心の閉ざしようと、自傷行為を繰り返した経験から、閉鎖病棟の隔離室に入れられた。

 隣室は埋まっていた。美代が前を通った時、扉を蹴ってこちらを威嚇してきた。

「開けろこらぁ!」

 その野太い威嚇の声に、一瞬だけ美代は揺らいだが、覗き窓に映っているその女性の姿を認めてハッとした。

 黒く大きな瞳、焼けた小麦色のつやつやの肌、眉上で切り揃えられた黒髪。この女性の名前は三坂凛。

 凛も、覗き穴越しに美代を認めた。蒼白い顔に、何も映さないその空虚な蒼い瞳、亜麻色の髪。幽霊でも出たのかと、一瞬焦る。

「出せ!出せ!出せ!!」

 しかし凛の衝動は止まらなかった。扉を蹴り、叫ぶ。

「少しうるさいと思うけど…」

 片倉は申し訳なさそうにそう言うと、凛が叫ぶ横の扉を開けて、美代を招き入れた。

 殺風景な部屋、と美代は思った。トイレとベッドしかなく、トイレットペーパーすら差し込み口から出されているだけ。何も無い。

「お隣さん、多分これから拘束するから、少し我慢してね」

「…拘束?」

 美代が初めて質問したので、片倉は驚いた。

「ごめんごめん、驚くよね。あんまり暴れてるからちょっと縛るかなって感じ」

「わたしなら、平気です」

「本人のためだから」

 美代はベッドに腰掛けながら、隣室の物音を聞くでもなく聞いていた。

 どんどん、がんがん、と扉を叩いたり蹴ったりする音に混じって、怒鳴り声が漏れてくる。

「出せって言ってるだろ!」

 凛は、声の限りに叫んでいた。

 頭の中には夫との約束があった。今日は、凛と夫の結婚記念日だ。

 凛は二十八歳で二人の子供を育てる母親だった。しかし、病院側はそれを知らない。凛が何も話していないからだ。

 凛は点滴で薬を投与されていた。それを外し、また暴れる。

 そして駆けつけた主治医に、鎮静剤を打たれて眠りに落ちた。

 目覚めた時、両手を拘束されていた。

 凛は焦った。病室は真っ暗。夜中だろうと見当はついたが、叫ぶしかなかった。

「三坂さん?どうしたの?」

「外せ、外せよ!」

「まぁ、やだ。暴れないの。いま夜中の三時ですよ」

 夜勤帯の看護師が駆けつけて、凛を宥める。

「今日は結婚記念日なんだ。家に帰らせて」

 凛はブワッと泣き出した。

「三坂さん、自分のこと、思い出した?」

「ずっと、忘れてない、話してないだけ」

「じゃあ、話してくれる?」

「いいから、これ、外して外に出して」

 凛はまだ拘束具を外そうと、ベッドの上で暴れている。

「今はどちらも出来ません」

 看護師の山口は毅然とした態度で応じる。

「睡眠をとらないと…旦那さんにも会えませんよ」

 凛の怒りはおさまらない。拘束具がギリギリと音を立てる。

「ここから出して」

「三坂さん、落ち着いてください」

 山口の宥めるような声が、凛の耳に木霊する。

「落ち着けだなんて!こんな状態で!」

「お医者さん呼びますよ」

「嫌だ!嫌だ!!」

 

 凛の叫び声で美代は目覚めた。

 とろとろと眠っていたようだ。

 今何時だろう、と美代は思ったが、時間を示すものは室内には無い。

「家に帰して!結婚記念日が!」

 凛の悲痛な叫びが聞こえて来る。

 こんな風に叫ぶほどの情熱を持てて、羨ましいなぁと美代は微笑んだ。

 そして、微笑んでしまった自分に驚いた。笑う、という行為が久しぶりだったからだ。

 隣の部屋の扉が開く音がした。医者だろうか。そして次第に、凛の声が聞こえなくなる。

 美代の意識も、段々と薄くなる。そして二度目の眠りに落ちていった。


 翌朝、二人は初めて顔を合わせた。

 朝食後、歯磨きのために個室を出て、廊下にある水飲み場で一緒になったのだ。

「おはよう、ございます」

 凛がおずおずと声をかける。

「おはようございます」

 消え入りそうな声で美代が返すと、凛はニッコリ笑い返した。昨晩遅く、叫んでいたとは思えない輝かしい笑顔に、美代はたじろぐ。

「よく眠れましたか?」

 凛は美代を見て、やっぱり人形のように綺麗な子だけど、痩せ細ってて蒼白いのが玉に瑕だわ、と思った。

 美代は凛を見つめた。まじまじと。

「はい、おかげさまで。ぐっすりと眠れました」

 美代は凛の左手の薬指に、指環がはまっているのに気が付いた。そして、昨夜の夢うつつの中で聞いた凛の叫び声を思い返す。

 この人は、本当に誰かの妻なんだなぁとのんびり思った。

「わたし、うるさくなかったですか?」

「え?」

「昨日、夜中に叫んじゃったから」

 覚えているのか、と美代はびっくりした。

「どうしても、抑えられなくて…起こしちゃってたら、ごめんなさい」

「いえ、お構いなく」

 凛は美代を覗き込んだ。

「ごはん、食べられた?」

「…少しは」

「そう。よく食べた方がいいよ、もっとふっくらしたら、もっと可愛くなる」

 そしてぽんぽんと、美代の頭を撫でた。

 美代は、その箇所を自分の指で毛繕った。熱を持ってる気がした。

「…可愛く、なる?」

「ん?うん。もっと、可愛くなる」

 ストレートな言葉に、美代は改めて赤面した。

 凛のショートカットが揺れる。不意に美代は、その一筋が光り輝いて見えて、そっと手を伸ばす。

「お名前は?」

「わたし?三坂。三坂凛。あなたは?」

「美代…仲畑美代です」

「美代ちゃん。可愛い名前」

 こうして二人の短い交流は始まった。

 食後の歯磨きの時間、二人はささやかな交流を重ねた。

 天気のこと、献立のこと、他愛無い会話を交わす。

 そして、七回目の交流の時間。美代は名残惜しそうにこう伝えた。

「わたし、今日、隔離室を出るみたいです…」

「そう!おめでとうっ」

 凛は朗らかに喜んだ。その晴々とした態度に、美代の胸は痛んだ。

「わたしも早く、隔離室を出たいなぁ…まぁ、暴れてる限り無理か」

「早く出て来てくださいね。わたし、凛さんが居ないと思うと寂しくて…」

「美代ちゃん、可愛いから、すぐお友達出来るわよ」

 凛は屈託なくそう言って笑う。

「お友達…」

 美代は、言い慣れないその言葉を繰り返す。

「わたしたち、もう一生の友達よ、よろしくね」

 凛が手を差し出してそう言う。美代はその手をおずおずと握った。

「…はい。よろしくお願いします」

「今日はちゃんとご飯食べれたの?」

「凛さんに怒られないように、しっかり食べましたよ」

「お、偉〜い。良い子だ良い子だ」

 凛はそこから、美代に耳打ちするように、近寄って来る。

「わたしも、美代と離れるのは寂しい」

「凛さんっ…」

 美代の鼓動がとくんと鳴った。

「だから今日から大人しくするね」

 美代は凛を見つめた。視線が絡む。ほんの一瞬、確かに二人は見つめ合った。

 美代の視線に混じる熱に、凛がどう思ったのか、美代にはわからなかった。

 

 その日の午後、美代は隔離室を出て閉鎖病棟の個室に移った。ナースステーションに一番近い個室だった。個室なのは、両親の配慮だった。

 恐々とデイルームを覗くと、老若男女入り乱れて色んな人が美代を取り巻いた。

 まだデイルームを覗くのは早かったかもと後悔していると、ある男性患者に声をかけられた。

「こんにちは。新入りさん?」

「……あ、あの…」

 その男性は、美代を下から上までチラッと見ると、ぶっきらぼうに横の椅子を指差した。

 どうぞお座りください、といったところか。

 美代はそう解釈し、男性の横に座る。

 不思議だな、と美代は思った。家では父でさえ近くに寄ると嫌悪感を感じたのに、今はそれが無い。

 そう、凛と出会ってから、美代の中の男性不信が治って来ている。

「俺、小鳥遊リョウ。きみは?」

「仲畑美代です」

「ふーん、仲畑さん。今日来たばっかり?」

 小鳥遊は、手元の小説から目を離した。サラリと前髪が揺れる。

「隔離室から出たのが今日です」

「隔離室にいたんだ、ヘェ〜」

「小鳥遊くん、こんにちは」

 と、そこに女性患者が声をかけてくる。

「こちらは?」

「仲畑美代です。はじめまして」

「わたし、凪志摩子。よろしくね」

 小鳥遊の向かいに志摩子が座ると、小鳥遊は小説を脇に避けて、志摩子と向かい合った。

 それだけで、小鳥遊にとって志摩子が、美代より大切なことが伝わってくる。

「小鳥遊くん、次は何読んでるの?」

「…ん」

「わ!わたしがお勧めしたやつ。どう?面白い?」

「お、面白いよ」

 小鳥遊は美代より五つほど上に見える。志摩子は七個ほど上だろうか?

「美代さんは、どこから来たの?外来?」

「今日隔離室から出て…」

「ああ、そうなの。大変だったわね」

 志摩子は顔を顰めた。小鳥遊はそれをぼうっと見つめている。

「わたしもご飯が食べれなくて、隔離室からスタートしたのよ。あそこ、地獄よね?」

 美代は凛を思い出して、そうだったろうか?と思い返した。

「トイレとベッドしかないし」

 志摩子は美代の返事など待たずに続ける。

「時間の感覚までなくなって…スマホも勿論ないじゃない?」

「スマホ、こっちはありなんですか?」

「主治医が許可したらね。主治医はだぁれ?」

 志摩子はポンポンと話を進める。

「女の先生…名前はなんだったか」

「佐伯先生か、橘先生辺りかな?」

「それです、佐伯先生です」

 志摩子は、小鳥遊の方を面白そうに見やった。

「小鳥遊くん、後輩が出来たね」

「え?ええ、まぁ。俺も、佐伯先生が主治医なんだ。すっげえ厳しいって噂だけどね」

「厳しい?」

 美代は恐る恐る尋ねる。

「あの人、ほら、あっちに座ってる。二ヶ月入院してて、まだ外泊も許可されないって。で、あっちよあっち、スマホが許可されないって嘆いてる」

 志摩子は嬉しそうに小声で美代に色々と教えてくれる。そうか、あの佐伯という医師は患者に厳しい事で有名なのか。

「小鳥遊くん、可愛い後輩が出来て良かったねぇ。なんか、雰囲気もお似合いだわっ」

 志摩子は小鳥遊と美代を交互に見て、そう言い出す。小鳥遊は途端に不機嫌になった。美代はそれに気付いて心が痛んだ。

「まぁでも、患者思いの医者だと思うよ、俺は」

「そうですか…」

 志摩子は別の患者に呼ばれてそっちへ飛んでいってしまった。

 小鳥遊は小説を開きながら、美代に話しかけた。

「志摩子さん、綺麗な人ですね」

 志摩子は輝いていた。閉鎖病棟という鍵のついた空間に咲く一輪の花のようだった。

「そう?」

 小鳥遊は美代をもう一度よく見た。

「仲畑さんも、綺麗だよ」

「あ、ありがとうございます」

「俺なんかに言われたって嬉しくないか」

 そう言って美代の反応に無関心に、小説の世界へ落ちていく。


 午前中に隔離室を出て、小鳥遊や志摩子と交流したことで、美代はくたびれてしまった。

 午後は個室でトロトロと眠りについたり起きたりを繰り返すうちに過ぎていった。

「仲畑さーん、診察でーす。二番の部屋にどうぞ」

 何度目かの眠りに落ちそうになっていたところに、主治医の佐伯医師の声で起こされた。

 言われた通り、診察室二番に向かう。

 佐伯医師はパソコンを打ちながら、美代に向き合った。

「どうですか?具合は?」

「…普通、ですかね。午前中にデイルームに顔を出して、ちょっと人疲れしちゃいました」

「デイルームに行けましたか。それは良かった。誰と話しました?」

「えっと…患者さんの、小鳥遊さん、と、凪さんです」

 そして先生のことを、厳しいと言っていた、ということを思い出した。

「小鳥遊さんとは普通に話せましたか?」

「はい、不思議なくらい」

「そうですか。それは良かった。何か原因はわかりますか?小鳥遊さんは、その…例の彼を思い出すに足る存在だと思うのですが」

 佐伯医師はタイピングしながらも、美代の表情の変化を逃すまいとしているのがわかる。

 美代はその質問にたじろいだ。

「それが…ちっともわかりません。彼のことは浮かびもしませんでした。ただ……」

 美代は言い難いことを言葉にしようともがいた。

「失恋を癒すのは、新しい恋だと言いますね?」

「ええ、一般的には」

「その片鱗のようなものが、胸に棲みついて離れないとでも言いますか…」

 美代は一言一言、確かめるように言った。

「恋、ですか…」

 佐伯医師は慎重に呟いた。

 美代はその響きに敏感に危険性を感じ取った。

「恋、とは、違うような…もっと儚くて鋭い感じの……祈り、みたいな」

「恋とは、違うんですか?」

「その人を思えば、この単調な治療も耐えられるし、食事も喉を通るようになりました」

 そして、美代はこの想いに名前はないなと改めて思った。

「そうですか…」

「その頃から、男性看護師さんへの嫌悪感も減ったように思います」

「それは助かります」

 最初の頃、男性看護師への嫌悪で、看護を拒否したことを思い出して、美代は申し訳なく思った。

「そうそう、明日、ご両親が面会に来ます」

「両親が…平日ですよね?」

「明日?平日ですね、木曜日です」

 父の孝之は土日祝休みの仕事のはずだ。また美代のために、仕事を休んだのかと、美代は暗い気持ちになった。

「なにか不便なことはありませんか?」

「今のところ、なにも」

 美代はそう答える。

 不便さを訴えたり、退院を早くしたいと考えたり、そんな人の一角にわたしも加われるだろうか、と美代は漠然と不安になった。

 でも、凛が出て来たら…そして、わたしより先に退院するようなことがあれば、わたしは今の暮らしを不便に感じるんじゃなかろうか。


 両親との面会は、個室でひっそり行われた。両親はビクビクしながら、廊下を歩いてきた。

「美代…?」

 看護師の後ろに立ち、不安そうに声をかけるのは母親の美奈子だ。孝之は、美奈子の手を握っている。

 美代は看護師の後ろに控える両親をチラと見て、複雑な気持ちになった。

 笑いかけてあげたら、両親はきっと安心するし喜ぶだろう。それはわかるが、それが実行出来るかは別だった。

「少し、顔色が良くなったんじゃないか?」

 孝之は、美代の顔色を見て、少し安心したらしい。

「あなた、何を言ってるの。こんな所に閉じ込められてるのに…顔色がいいだなんて…でも、確かに少しふっくらしたような…」

 美奈子のヒステリックな響きを含んだ声が、どんどん落ち着いてゆく。

「美代…よく顔を見せて?」

 美奈子の手が伸びて、美代の髪を撫でる。

「お母さん…」

 美代は涙を零していた。

「美代…」

 美奈子も一緒に泣く。そして二人は抱き合う。

「ごはん、食べてるの?」

「ちゃんと食べてるよ」

「そっか…」

 孝之はそんな二人を少し離れた所から見ていた。夢に見たようなあたたかな景色に、ふわふわした感情に取り憑かれながら。

「お父さん?」

「美代?」

 美代は孝之に手を伸ばした。孝之は慌ててその手を掴む。

 そして、掴めた事に驚く。

 この半年間、美代との身体的接触は無しに等しかったからだ。

「心配かけてて、ごめんなさい」

 孝之も心の中で泣いていた。

 この半年の痛みが、少しずつ溶けてゆく。長い冬を超えて、あたたかな春の日差し…確かに、それを感じた。


 数日後。

 デイルームで小鳥遊と志摩子と話していた美代は、突然立ち上がった。

「凛さんっ!」

「…美代っ!」

 看護士に連れられて、デイルームに現れたのは、紛れもなく凛だった。

 二人はぎこちなく距離を詰める。そして美代は、そっと凛を抱きしめた。

 二人の間に、言葉のない数秒が落ちる。互いの体温だけが、崩れかけの世界を繋ぎ止めていた。

「ずっと、待ってた…凛さん…」

 そして、美代は堪えきれず、激しく凛の髪をかき上げた。

「久しぶりぃっ」

 照れるように言って、凛が美代から離れる。

「元気、でしたか?」

「元気元気」

 小鳥遊と志摩子が近寄って来ている。

「美代ちゃん、こちらは…?」

 志摩子が二人の様子を伺いながら、聞いて来る。

「三坂凛です。よろしくお願いします。美代とは隔離室が隣で」

「へぇー。そうなんだ。ねね、歳近そう。いくつ?」

 志摩子が凛に近寄る。

「わたし?二十八だけど」

「わ!近い。わたし、今年二十七になる。凪志摩子って言います。仲良くしてね」

 志摩子のロングの黒髪が揺れる。その度に煌めく光まで、美代にはしっかり見えていた。

「あ、やだ。結婚してるの?」

 さすがにめざとい志摩子は、凛の結婚指輪に気付いた。

「そうなんです…夫になんにも言わずに出て来ちゃってて」

「え?平気なの?お子さんは?」

「二人」

「えー心配。まだ会えてないの?」

 凛は、志摩子の勢いに押されているようだった。

「実はまだ連絡もしてなくて」

「そっか、そっか。まぁ色々あるもんね」

 そしてそこで初めて、小鳥遊の事を思い出したようだった。

「あ、凛ちゃん、こっちは小鳥遊。小鳥遊リョウ。わたしの二つ下」

「初めまして」

 凛は小鳥遊にそう言って頭を下げる。小鳥遊は凛に向かって黙って頭を下げるだけだった。

「小鳥遊くん、無愛想だなぁ」

 志摩子がその挨拶に不満げにすると、小鳥遊は肩をすくめてやり過ごした。

「ごめんねぇ、凛ちゃん」

「いえいえ」

「それより連絡してないって平気なの?ご家族に」

 志摩子は新しい仲間の詳細が気になって仕方ないらしい。キラキラした目で凛を見ている。

「スマホ、充電切れちゃったし…」

「そうなんだぁ。心配してるだろうなぁ」

「どうだか。そもそも家出したのも、夫の不倫が原因で…」

 凛の口から語られる事の真相に、美代は驚いた。

「不倫?!」

「志摩子さん、声大きい…」

「ごめんごめん、だって、つい」

「まぁ不倫らしきやり取りが、ラインに残ってて…スクショだけはしたけど。問い詰めるか悩んでたら、この病院の前に来てて」

「うん、うん」

 志摩子は前のめりだし、小鳥遊すら小説から顔を上げている。美代は、少し冷めた目で語る凛を見ていた。

「もともと外来にかかってた所から、入院設備のあるこの病院に入院治療を勧められてて、紹介状も取ってて…」

「なるほどねー。それでそのままうちに入院したわけだ?」

「外来受ける前に暴れたけど」

 凛は恥ずかしそうにそう言って美代の方を見て笑った。

 美代は不貞腐れたみたいに、顔を顰めていた。

「美代?」

「凛さんを傷つけるなんて、許せない。その旦那さん」

 美代は怒りを口にした。身を焦がすほどの、怒りを感じていた。

 それは、その話が初耳だったこと、志摩子が引き出したこと、二人きりの秘密にしたかったこと、なども怒りの要素に含まれているようだった。

「美代は優しいね、ありがとう」

 そう言って凛は、美代の茶色い薄いカールがかった髪を撫でる。

「凛さん…」

 美代は無意識に、その凛の手に自分の手を重ねた。

「スマホは?充電中?」

「うん。充電出来たら看護師さん立ち会いの元、開けてみる」

「玉手箱みたい。老けないように気をつけてね」

 志摩子はそう言って笑った。

「確かに、内容によっては、玉手箱より酷いかも」

「だねぇ」

 そして、凛も笑った。

 凛の笑顔を見て、美代も笑った。


 その日、美代は一日中塞ぎ込んでいた。

 凛の家族が面会にくる日だと、凛から聞かされたからだった。

 この頃の美代は、凛の家族の話になると、どうにも身の置き場が無い感覚につまされ、やるせなくなるのだ。

 凛は大部屋で過ごしていたので、面談室を使っての面会になる。デイルームからは面談室が見えるので、美代はデイルームに入り浸った。

 美代は、凛の家族を見たいのか見たくないのか、それすらも結論が出ない。

 そんな繊細な感情に包まれる美代を、支えてくれたのが小鳥遊だった。

「そんなに、気になる?」

 小鳥遊は小説に目をやりながら、美代に問いかける。

「気には…なるよ、うん」

「仲畑さんて、三坂さんのこと、特別視してるよね」

「そりゃあ、隔離室で出逢った仲だから」

 美代は自分でも思った以上にスラスラと答えた。それが全てではないと、自分自身も、小鳥遊もわかっていると判りながら。

「仲畑さん、頬っぺた赤いよ?」

「な…これは。べつに。その…」

 小鳥遊のからかいの言葉に、しどろもどろになる美代。

「冗談だったのに」

「変な冗談やめて」

 美代は小鳥遊を軽く睨む。小鳥遊はその視線の棘を感じて、黙って肩をすくめた。

 と、そこへ当の本人、凛が現れた。

 後ろを歩いているのは、夫である、三坂啓介。

 凛は怒ってるみたいに早足で、啓介を振り切りたがっているように見えた。

 かくいう啓介の方は、余裕の表情で、ゆったりと大きな一歩を踏み出して、凛の手を掴んだ。

「離してよ!」

「大声出すなよ」

 凛の大声に、デイルームにいた全員が凛の方を見る。そして啓介は、宥めるような声を出した。

「お騒がせして、すいません。三坂の夫です」

 そう言って皆に挨拶する啓介は、美代の目には軽薄な男に見えた。

 自尊心が強く、女を下に見て、凛のことは舌先三寸で言いくるめられる、そう思っているのが、透けて見えた。

「イケメンはイケメンだな」

 病棟一のイケメンと名高い小鳥遊が言うと、嫌味に聞こえるが、確かに顔は良い。

 凛と啓介が並ぶと、一対の雛人形のような愛らしさが浮かぶ。

「三坂の夫です、じゃないわよ。澄ましちゃって、この不倫男!」

 凛のヒステリックな叫びが、美代の鼓膜を揺らす。

 やっぱりもう、なにも知りたくないかもしれない、と美代は思った。

「誤解だってば。何度も言わせないでくれよ」

「誤解ですって?」

 凛はヒートアップしそうになる自分をなんとか宥めた。デイルームの皆の目があることが、それをなんとか可能にした。

「とりあえず、中へどうぞ」

「凛…きちんと話し合おう」

 啓介は凛の手を掴み、愛おしそうにそれに触った。

「触らないでよ」

 凛の方はそれを振り解いて、面談室へ消えてゆく。

 啓介がまたデイルームの皆の方を振り向いて、頭を下げてから同じ面談室へ消えていった。


 二人きりになった瞬間、いきなり啓介は凛を抱きしめた。

 凛は、最初こそ抵抗してポカポカと啓介を殴ったが、殴られても殴られても離れない啓介の愛情のようなものにほだされた。

「凛、不安にさせてごめん。誤解させた俺が悪かった」

 そう耳元で甘く囁くと、凛の目をじっと見つめた。

「不安とか、誤解とか…嘘ばっかり」

 凛は落ち着いて話そうと努力していた。

「また、エッチしようね、なんてライン、普通しないよね?」

「だから、その子の勘違いでさ。彼氏と間違えたんだって」

「次いつにするって、啓介、返してたじゃない…」

 啓介はため息をついた。

「それは冗談だよ。いつ気付くかなって。何通かやり取り見ててさ」

「そんな嘘…まかり通るとでも?」

「嘘じゃないから、信じてもらうしかない」

 啓介は、また凛の目をじっと見つめた。

 まるで震える子羊のように。

 凛は吐き気がした。

「離して…早く離して」

「嫌だ、離したくない」

 震える声で伝える凛に、圧倒するような声で否定する啓介。

「このまま、なぁなぁにしても、誰も幸せになれないよ?啓介…」

「ねぇ、凛…俺を信じてよ」

 啓介は、そう言うと今度は強引に凛をテーブルに押し倒した。

「やめて」

 凛は静かに行為を否定したが、啓介の勢いは止まらなかった。

 乱暴にキスを受ける。

 薄い扉一枚隔てて人がいる。その状況下で妻に襲いかかる。

 そんな愛情を、君に抱いているんだと言わんばかりの激しい抱擁。

 モードに入ってしまった啓介は止まらない。

 凛は長年の付き合いで、察していたので黙って全ての行為を受け入れる。

 すると啓介は、これこそが愛だと言わんばかりに興奮した。

「愛してるよ、凛…」

 虚しい言葉を残して。


 その夜。

 デイルームにはいつもの四人が固まっていた。

 美代、凛、志摩子に小鳥遊だ。

「啓介は…誤解だって言い張る」

「証拠はあるのにね」

 凛の冷たい声に、志摩子の怒りが滲んだ声が重なる。美代は、凛の声に感情が薄れてゆくのが、どうも気になった。

 啓介に何かされたのだろうか?

「それは、相手の女の子が彼氏に送るラインを間違えて送って来たんだって、そう言う」

「だって、やり取りしてたんでしょう?」

「冗談で返しただけだって」

「無理あるなぁ。厳しい言い訳…ねぇ?」

 志摩子が怒りながら、美代に話を振る。

 美代は咄嗟に声が出ず、ただ頷くばかりだった。

「もう、啓介は何考えてるか、わかんない」

「面談室で何話したの?」

 美代はそこが気になってしかたなかった。

「殆ど話してない」

 凛はため息をついた。志摩子はやっぱり、と呟いてやっぱりため息をついた。

「あの男、帰る時スッキリした顔してた」

「わかった?」

 志摩子の言葉に、凛は驚きつつも、ありがたかった。全部を語らずとも、察してくれる人の存在が。

「うわー凛ちゃん、かわいそう…」

「かわいそうなことないよ、夫だもん」

「でもあんなとこで…」

 志摩子は凛に同情しつつ、未成年である美代に察せられないように、言葉を濁した。

 でもその言葉を濁したことで、逆に美代にも察せられてしまった。

「え、凛さん、うそでしょ?」

「まぁ…この二人のとこには声は届かなかったってことだわ。良かった良かった」

 凛は小鳥遊を見つめてニヤリと笑う。小鳥遊は、珍しく、

「笑いどころじゃねーだろ」

 と、呟いた。

「もうここまで来たら、いいか。ねぇ凛ちゃん、夫婦間でもレイプって成り立つのよ?」

 志摩子が全員に話が伝わってしまったのを察知して、ざっくりと切り込む。

「そんな大袈裟なことじゃないの。大丈夫よ」

 凛は言葉と裏腹に泣いてしまった自分にビックリした。

「凛さん…泣かないで」

「美代…うん。ありがとう」

 そして凛は泣き止むと部屋にに引き上げていった。

 子供を望んで二人産んだ自分だったが、余りにも子供二人と引き離される現実に、なにが正しかったのかわからなくなるのを感じた。

 今回も、啓介は子供の身の安全のためと言って、子供を連れてこなかったが、本心は凛の身体目当てだったのかもしれない。そう思ってしまう自分が自分で嫌になる。

 美代はそんな悩める凛を見ているのが辛かった。感情の爆発を抑えて、そばに居るのが時折り辛いほどだった。

「夫婦って言っても、色々あるのね」

 三人の中に落ちた暗い沈黙に、志摩子が問いかける。

「そうですね…」

「十七歳の美代ちゃんには、まだ重いか」

「ええ、まぁ…」

「十七歳かぁ。でもその年でここに入ってるって、なかなかだよね」

 志摩子が今とても大切なことに気付いた、とばかりに呟く。

「そうでしょうか」

「話したくなったら、いつでも聞くからね」

 志摩子はそう言うと、凛を追いかけて部屋に戻っていった。凛は志摩子と相部屋だった。

 こういう時、自分も大部屋だったら…と、美代は夢想してしまう。

「小鳥遊さんって、なんでここに居るんですか?」

「なんでって…さぁ。自分でもよくわからないなぁ」

「そうですか」

「仲畑さんは?なんでここに、いるの?」

 問い返されて美代は、それがあまりに不躾な質問だったと気付き、赤面した。

「なんでだろう。家に居場所がなかったから?」

「居場所ねぇ」

 小鳥遊が驚く。

「こんなに頻繁に面会来てるのに、親」

 車で片道一時間かかる割に、両親は頻繁に面会に訪れていた。

「居場所…うーん、なんていうか。ほらわたし、がらんどうになっちゃってて」

「がらんどう?」

「何も感じない、何もしたくないって。それでなんか、全てが虚しくて」

 初めて自分の気持ちをこんなに言語化したなぁと、美代は思った。

 小鳥遊だから、話せる気もした。

「それはなんとなく、わかる、かも」

 小鳥遊は注意深く優しい目線を、美代にくれた。

「で、気付いたらここにいた」

「次はいつ出れるか、だなぁ。俺、そろそろ退院したいんだ」

「うっそ、小鳥遊さんも退院したい派?」

 小鳥遊はびっくりしたように頷いた。

「彼女が待ってるから、外で」

 そういえば先日、小鳥遊は外泊していた。その時に彼女と再会したのだろうか。

「彼女、居たんだ」

 てっきり志摩子のことを好きなんだと思っていたので、外の世界に彼女がいるとは知らなかった。

「いるさ。一人や二人」

「二人いちゃ駄目でしょ」

「仲畑さんは?まだ退院したくない派?」

 美代は思いっきり頷いた。

「まだ外の世界は怖い、かなぁ」

「怖い、かぁ。でも俺らだっていつまでもここにいれるわけじゃないからね」

「それも、そうか…」

 美代は凛の居ないこの病棟を思い浮かべてみた。

 がらんどうの心が、また戻ってくるような恐怖感に襲われて、美代は怖くなる。

「だからさ、特定の誰かに入れ込むのは、やめた方がいいよ」

 小鳥遊の忠告に、美代の心には再びがらんどうが広がるような音がした。


 一方、部屋に戻った凛は泣いていた。

 傍らに黙って侍るのは、志摩子だった。

「わたし、やっぱり許せないの…」

 散々泣いた後で、凛はそう切り出した。

「旦那さんの不倫?」

 凛は黙って頷く。志摩子はそうよね、と言わんばかりに、凛の肩を強く抱いた。

「謝罪もなしじゃ、許せないわよね」

「それに…」

「それに?」

 凛はその一言を言うのに躊躇っている。志摩子は嫌な予感しかしなかった。

「やっぱり愛してる、啓介を」

「ああ、そうよね」

 志摩子はまた泣き出した凛の顔を、じっと見つめた。

「それは、本当に、愛?」

 志摩子の問いは宙に浮いた。

 けれど確かに、愛を思い浮かべた時、凛の脳裏にある笑顔がよぎった。一瞬すぎて誰か掴めなかったそれは、啓介ではないことだけは、確かだった。

「診察受けて来ます」

「こんな時間から?」

「主治医、今日当直なの」

 凛は志摩子の手を振り解くと、優しく微笑んだ。

「ありがとう、心配してくれて」

 部屋を出たところで、美代とばったり会った。

「美代、どうしたの?なんかあった?」

「凛さん…泣いてるの?」

 美代はそう呟くと、そっと凛の頬に手を伸ばした。そして涙を一粒、掬ってみせる。

「うん、ちょっとね。でも平気よ、診察受けるし」

 美代の触れた箇所を、確かめるようになぞりながら、凛は答える。

「診察?こんな時間に?」

 何故か美代の問いは、先程の志摩子の問いとは違った。

「今日、当直で…」

「ねぇ、わたしの部屋で少し話さない?」

「部屋で?駄目よ、他人の部屋には入らないようにって…言われたし」

「少しくらい良いじゃない。ね?」

 美代は凛の手を掴んだ。凛も振り払わず、黙ってついてゆく。

 この頃美代は、ナースステーションから多少距離のある個室に入っていた。だから、こんな大胆に凛を招けたのかもしれない。

 二人きりになると、美代は凛に泣きついた。

「美代…?どうしたの?」

「わたし、怖くて…」

「なにか、思い出しちゃったのね?」

 凛は美代との付き合いの中で、美代の身に起きた不幸になんとなく思い当たっていた。

 過度な男性恐怖。それをシャットアウトするために、心を虚にするほど。

 きっと異性関係で良くないことに巻き込まれたんだろう、と思って見守ってきた。

「ごめんなさい、わたしが啓介のことなんか話したせいだわ」

「違う、違うの…」

 美代が怖かったのは、それじゃない。首を振って否定するけど、凛はその通りには受け取らなかった。

「ごめん、ごめんなさい」

「謝らないで。わたしが怖いのは、男性じゃない」

「え?」

「わたしが悲しいのは、凛さんが、泣いてること」

「ありがとう、優しいのね」

 凛が嬉しそうな声を出す。

「優しい…?」

「美代は最初から、いつだって優しかったわ」

 凛は美代の髪を撫でながら、出逢った日のことを思い返す。

 美代は凛の髪の撫でるのにうっとりと、身を任せていた。

「怒鳴り散らす隣人を、憐れみでもなく受け入れてくれてた」

「それは、凛さんだったから…」

「ありがとう」

 凛は美代の髪を撫でる手を止めた。美代がその手を掴んだからだった。

「凛さん…わたし……」

 二人は暫し見つめ合った。

 美代は続きの言葉を探したが、何も出てこない。

 好き、という二文字以外は。

 そしてそれを伝えたら、この関係は崩れてしまう気がして、美代には言えなかった。

「美代、ありがとう。行くね」

 丁寧に手を解くと、凛は部屋を去ってゆく。

 その背中に手を伸ばして、美代は心の中で叫んだ。

 愛してる、と。


 その週の週末。

 病棟ではカラオケ大会が催されていた。

 各々が好きな曲を入れ、順番に歌を披露する。

 美代は朝から凛を探していたが、ずっと見当たらない。

「美代ちゃん、歌わないの?若いのブイブイ言わせてよ」

 志摩子が美代のそばに寄ってくる。

「志摩子さんこそ、歌ってくださいよ」

「あ、もしかして小鳥遊くん探してる?外泊だって。凛ちゃんも」

「外泊…」

 志摩子は、美代の反応を見てクスリと笑った。

「相談なら、乗るよ?」

「え…」

「好きなんでしょ。凛ちゃんのこと」

「志摩子さん…なんで…」

 驚く美代に、肩をすくめて志摩子は答える。

「見てたらなんとなくね。でも、叶わぬ恋だ」

「叶わない…ですかね、やっぱり」

「凛ちゃんには、家庭があるのよ?」

 志摩子は驚いて言う。美代の心に、その一言が抜けない棘となって刺さった。

「叶わない恋の歌でも唄うかぁ?」

 志摩子が朗らかに言うのを、憂鬱な気持ちで美代は聞き流していた。

 志摩子が歌い上げたのは、身体だけの関係から抜け出せず、気付けば相手は最愛の人を見つけて結婚してしまった、悲しいラブストーリーの曲だった。


 一方その頃、凛はひと月振りに自分の城に足を踏み入れた。

 思ったより、悪くないな、と思ったのもその筈で、凛の不在時、義理の母が通い詰めていたのだ。その痕跡が、メモ用紙に現れた時、凛の張り詰めていたものが切れた。

「啓介、お義母さん来てたの?」

「ん?あぁ、だって啓太と莉子の面倒見たり、色々さ」

「今日は啓太と莉子は?」

「先生に聞いただろ、まだ会わせない方がいいって。母さんに預かって貰ってるよ」

 嫁の留守に、嫁にとっての敵である姑を無防備に招き入れたなんて…と、凛の頭の中は怒りがグツグツ煮えていた。

「な、それより、やっと二人きりだ。他のことはまた考えよう」

「やめて、やめてよ、わたしシャワーもろくに浴びてない」

「凛、いい匂いだよ」

 啓介は凛の胸元に顔を埋めて悦に入っている。

「駄目ってば」

 今日は病棟の面会室じゃないので、思い切って拒絶する。

「ちぇ。じゃあ、一緒にシャワー浴びる?」

「違う。不倫のこと、わたしまだ納得してない」

 啓介はやれやれと首を振る。

「そんなに俺が信頼出来ない?」

「そう言うなら見せて、アスカとのライン」

「もうブロックしたからなにもやましいことはないよ」

 啓介は携帯を差し出してくる。凛はおや、と思った。素直に携帯を差し出すなんて…怪しい。

「ははーん。ラインでやり取りするの、やめたのね?他のアプリかDMかしら」

「ち、違うってば」

「寝室を見せて」

「寝室?二人の?」

 凛はそう言うなり、二階に上がってゆく。

 人の夫と知りながら、不倫して臆面もなくラインしてくるあのアスカの神経から、必ず留守中に家に上がり込んでるに違いないと思った。

 寝室かバスルームに、きっとアスカの痕跡が残っている筈だった。

「ビンゴ」

 ベッドと床の隙間に、ド派手なパンティが残されていた。これは宣戦布告か。

 啓介は、それを見てあちゃあ、と頭を抱えた。

「これはどう説明する?きっとあなたの体液も出てくるわ。立派な証拠として押さえておきますから」

「終電を逃して帰れなくなった彼女を、家に泊めてあげただけさ。なにもしてない」

「嘘ばっかり。どうせバスルームに行ったらわたしの知らないシャンプーでも置いてあるんでしょうよ」

 限界だった。手元にあった枕で、啓介を殴りつける。

 啓介は、凛を抱きすくめて、ベッドに押し倒した。

 何度目の悪夢だろう。

 決して治らない浮気癖に、それを許してしまう自分。凛はため息をついた。

「凛、信じてくれよ。愛してるのは、凛だけなんだ。他の女はみんな、穴埋めでしかない」

「穴埋めだって、わたしでしてよ。他でしないで」

「それは凛が俺を一人にするから…」

「たったのひと月じゃない、耐えてみせてよ」

 凛は堪え切れず啜り泣いた。

「愛してる、凛」

「わたしもよ、啓介…」

 そして二人は赦し合うように唇を重ねた。

 何度も何度も。

 次第に熱を帯びるそれは、止めどなく続いた。


 その日わたしたちは、何度も何度も抱き合った。

 裸になってひとつになることで、離れていたひと月を埋めあうように。

 けれど唇を重ねても、身体をどれだけ重ねても、どんな言葉をかけられても、わたしの心は満たされなかった。

 わたしの心は、もう知っていた。

 自分の愛情が、ここにないことを。

 でも認めたくなくて、身体で愛を探した。啓介の中に。


 翌朝。

 病棟とは違う暖かなカーテンから漏れる光で凛は目覚めた。傍らには、夫の啓介が少年のような表情で寝入っている。

 結局昨夜は何度も抱き合うばかりで、ろくな話し合いが出来なかったな、と凛は思った。

 でもそれが、自分たちらしい結末でもある、と凛は思った。

 結局愛なんて不完全でどこかしら欠けている。

「啓介…」

「おはよ、凛…」

 啓介はうっすら目を開けて、凛の方を幸せそうに見た。

「おはよ」

「腹、減ったな」

「昨日のピザ温めようか?」

 夕飯はデリバリーのピザを頼んだ。それくらい離れ難かったのだ。

「うん。ねぇ、凛?」

 啓介は甘えた声を出す。

「なぁに?」

「早く退院して…寂しくてたまらないよ」

「はい、はい」

 退院の二文字が、凛の鼓動を早くした。

 退院?したくない。

 そしてハッキリ浮かんだ。美代の顔が。会いたい、胸を締め付ける想いに蓋をして、凛はベッドを出た。


「シャンプー、変えた?」

 病棟に戻って来た凛を、美代は抱きしめて迎え入れた。

 そしてすぐに、その変化に気付く。

「家にあるのを、使ったからね」

「いい匂い、似合ってる」

 凛を見つめる美代の目は、どこまでも優しい。

 でも、家を出る直前まで啓介と抱き合っていた凛には、それは眩しすぎた。

「…ありがとう」

「ねぇ、なんかあった?」

 美代はどこまでも純粋に凛だけを見つめている。

「なんもないよ」

 凛は慌てて美代から離れると、次は志摩子とハグをした。

「一晩だけど寂しかった」

「一人部屋になって、せいせいしたんじゃない?」

「まさか」

 志摩子は鋭い目で凛を見た。

「旦那さんと、愛の再構築を試みてる途中って感じ?」

「うん、まぁ…」

「お子さん達は?」

 凛は首を振った。

「まだ早いって会わせて貰えなかったけど、写真や動画は見れたよ」

「そっかぁ。でも一歩前進だね」

「小鳥遊くんは?」

「まだ帰ってこないね、ギリギリになるんじゃない?」

 午後三時四十五分、門限の四時まであと十五分。

 結局その日、小鳥遊は病棟に帰ってこなかった。三人は所在なげに小鳥遊の安否を心配したが、看護師も主治医も言葉を濁すばかりだった。

「なんか事件かな?」

 美代は言葉を選んで言う。最悪のパターンは考えないようにしていた。

「…かもね。彼女さん、独占欲が強くて困るって言ってたからなぁ」

「小鳥遊くんが心配で寝れそうにないや…頓服貰ってくる」

 志摩子はそう呟くと、ナースステーションに向かった。

 凛と美代は、二人きりになると、少し頬を染めた。

「…旦那さんと、仲直り、したの?」

 美代が遠慮がちに聞いてくる。

「なぁなぁだけど、なんとか。子供にとっては父親だし、簡単に別れられないよね」

 凛は言葉を選んでそう返す。

「ふーん。わたしなら、耐えられないかも」

 美代はどこか遠くを見ながら呟く。

「わたしの彼も、そうだった。浮気がやめられない人」

「…そうなんだ」

 美代は、言ってから自嘲した。

「ううん、違う。わたしが浮気相手だった」

「美代…大丈夫?」

「凛さんみたいに、本命側だったら、なにか違ってたのかな」

 凛はいたたまれない気持ちになる。美代の恋の話を聞くのは初めてだった。

「彼に本命が居るってわかってからも、関係を断てなかった」

「…わかるよ」

「むしろ一層身体の関係が深まった気がするの。触れ合っていれば、その間は二人きりだから」

 美代は必死に言葉を紡ぐ。それがグサグサと、凛を刺しているとも気付かずに。

 いや、気付いて刺しているのかもしれなかった。そんな関係に、しあわせは訪れないよ、と、伝えたくて。

「避妊まで、させなかった。何が起こるか、わかってたのに」

「美代…」

 美代の瞳に涙が溜まるのを、凛はただ見ていた。

 手が出せなかった。すぐそこにいて、すぐ手を伸ばせば涙を拭えるのに、出来なかった。

「妊娠した時、わたし、嬉しかったの。これで彼がわたしのものになるって」

 気付けば凛も泣いていた。

「でもそうはならなかった。彼はわたしのものにならなかった」

「…辛いね」

「辛かった。でも、今は辛くない気がするの」

 美代は、そう言い切った。

 そして、全く無関心にテレビを眺めた。

 心の中で、凛を好きになって良かったと、叫びながら。


 翌日。

「ご心配おかけしました」

 小鳥遊が左腕を釣って病棟に現れた。

「骨折?」

「ちょっと切れただけ。大袈裟なんだよ」

「誰にやられたの?」

 志摩子はうるうると泣いている。

「…まあ、それはいいじゃん。ご想像にお任せしますってやつ」

 きっと彼女だろうな、と美代は思った。

「…別れたの?」

 志摩子がやっと安心して寝れる、と言って部屋に戻ったのを見計らって、凛が聞いた。

「別れられてたらいいけど」

「議論はしたんだ?」

「俺の言い分なんか、聞いちゃいないけどね。まぁなんとか」

 小鳥遊はトレードマークの小説を失った。代わりに今はオーディブルで小説を聞いているらしい。

「生きてて、良かった」

 凛の一言に、小鳥遊は笑った。

「大袈裟。でも生きた心地はしなかった」

「彼女さん、なんて?」

「わたしが支えるから別れることないって。それじゃあ俺の気がすまないって言っても聞く耳持たなくて」

 小鳥遊は珍しく饒舌だ。一晩隔離室に入ったからだろうか?

「挙げ句の果てに、他に女が出来たんだなんて暴れてさ…」

「警察には…?」

「言ってない。自分で誤ってやったって病院には言ってある」

 凛は心配そうだ。

「でもストーカー化したら?怖くない?」

「とりあえず引っ越すよ、実家に」

 小鳥遊は飄々としているが、いつもより表情が固い。

「こんな風に別れるの初めてだから、勝手がわからない」

「今まで何人も泣かせて来たでしょうに」

 凛は揶揄うようにそう言った。

 美代も頷く。

「そんな事ない。いつも、振られる側だったから」

「意外」

「真面目すぎてつまらんらしいぞ、俺は」

 小鳥遊は面白そうに言った。

「その彼女さん、この病院のことは知らないの?」

「知らない」

「そっか、じゃあひとまずは安心ね」

 そこに、看護師が飛んできた。

「小鳥遊くん、落ち着いて聞いてね」

「俺は落ち着いてますけど、なにか?」

「加藤さんが受付に来て暴れてる。とりあえず、行こうか」

「え…」

 話の流れと小鳥遊の反応から加藤というのが、小鳥遊の元彼女だろうと見当がついた。

「ご迷惑おかけしてます…」

 小鳥遊を尾行して来たのだろうか、凛と美代は顔を見合わせて不安げだ。

「小鳥遊くん、大丈夫かなぁ」

 美代の呟きに、凛は励ますように肩を叩いた。

「さすがに病院で、これ以上変なこと起きないわよ」

「ですよね…」


 小鳥遊は、今度は数時間で病棟に戻って来た。

 途中、眠りから覚めた志摩子も加わって三人で小鳥遊を待っていた。

「すごく綺麗な人だったみたいよ、看護師さんの噂で聞いた」

「加藤さんって言ってたかな」

「ワンチャン、彼女さん、隔離室に入れられたりしてね?」

 三人でああでもない、こうでもないと言いながら待つのは辛かった。

 だから、小鳥遊が普通の表情のまま三人の前に現れた時、それを責めるような空気が三人にはあった。

「よっ。生きてるし無事」

 その不穏な空気を打ち消すように、小鳥遊は挨拶した。

「心配かけすぎ。許さない」

 志摩子は小鳥遊を睨んだ。

「彼女さんは、落ち着いたの?」

「俺の状態知って、やっぱり別れないって言い張るんだ」

 小鳥遊はため息をついた。

「俺には今、俺を支える力しか残ってないから、別れるしかないって何度も伝えたけど」

 志摩子はうんうん、と頷いた。

「とりあえず別れないって言われた。他の女が出来たわけじゃないってことは、理解したみたい」

「そっか。大変だったね」

 小鳥遊は右肩をすくめて、どうだか、と言いたいみたいだった。


 小鳥遊と志摩子が先に部屋に戻って、凛と美代の二人になった。

「彼女さんの気持ちも、わかるから辛いな」

「そうだね」

 昨日の美代の告白を考えれば、小鳥遊ではなく彼女の加藤の方に肩入れしたくなるのは、当然だと思えた。

「恋愛って難しいね…片方の気持ちだけじゃ、どうにもならないはずなのに」

「うん、両方ともの気持ちが大切なのにね」

 二人の視線が絡まる。

「…ねぇ、凛さん」

 美代は凛の手を大切そうに包む。

「美代…なに?」

 こんなに、近くにいるのに。こんなに、好きなのに。どうして口に出せないんだろう。

「……小鳥遊くん、無事で良かった」

「だね」


 その晩、寝付けなかった凛が睡眠薬を貰いにナースステーションに行くと、小鳥遊も同じく睡眠薬を貰いに来ていた。

「三坂さんは、外泊どうだったの?旦那さんと話せた?」

 小鳥遊は、気にしてくれてたらしい。

「話せやしなかったよ、身体で埋め合わせしただけ」

「身体で埋め合わせってエグいな」

 小鳥遊は笑った。

 その笑顔に、凛は気が軽くなった。

「付き合ってる時からそうだったのかも。何か噛み合わない事があっても、抱き合ってる間は忘れられたから」

「なるほどね」

 小鳥遊は珍しく感心したみたいに頷く。

「あながち、間違ってないのかもね、その選択も」

「そうかな?」

 心は叫んでいる。啓介以外の人の名前を、ずうっと呼んでいる。

「一つにはなれるわけだし、間違ってはないでしょ?」

「どうかなぁ。わからないな」

 小鳥遊は眠気が来たかのような大きな欠伸をした。

「ごめん、引き留めて」

「いいって、どうせすぐ目覚める。彼女に追われる夢ばっかり見るんだ」

 小鳥遊は諦め切った表情だった。

「ねぇ…既婚者で子供もいて、今更恋愛なんておかしいと思う?」

 凛は思わず聞いていた。眠気と現実の境目に居たからかもしれない。

 この想いが最後の一線を越える日も、近いような気がした。

「別におかしくないんじゃない?」

 小鳥遊はいつもの飄々とした言い方だ。

「人生何が起こるか、わからんもんさ」

 そう言うと、まるで全てを悟ったかのような表情を浮かべて、自室へ引き上げて行った。


「あれ?凛さん?」

 次は美代の部屋の前を通ると、美代が丁度部屋から出て来た。

「ね。ね、来て来て」

 そのまま部屋に招かれる。凛は戸惑いながら部屋に足を踏み入れた。

「寝れないの?」

 美代が凛に尋ねる。

「目が覚めちゃって」

「わたしも。でも起きて良かったな。凛さんに会えた」

「毎日会ってるじゃない」

 凛はストレートな表現に赤面しつつ、嗜めるように言う。

「夜中は特別じゃん」

 美代はワクワクしているし、それを隠さない。

「ねぇ、このまま朝まで一緒にいない?」

「寝ないと身体に悪いよ」

「一日くらい、きっと大丈夫」

 二人はベッドに腰掛けて、暗闇の中で見つめあっていた。

「眠くなったら、横になればいいし」

「そうね」

 美代の言葉に、凛は頷く。

「ねぇ、手、握っていい?」

 美代は、凛の目を見つめたまま、そう尋ねる。

 凛は返事の代わりに、美代の陶器のような白い肌の掌を包んだ。

 と、美代はそれを恋人繋ぎにする。ギュッと指を絡め合う。

 振り払うという選択肢は凛にはなかった。

「一緒に朝焼けを見よう、部屋から綺麗に見えるのよ」

「いいね」

 指先から伝わる熱で、身体が絆されてゆく。

 美代の頬は紅潮していた。

「凛さん、寝ちゃう?」

「睡眠薬…飲んだのにな。全然効いて来ないや」

「無理しないで寝てもいいからね」

 美代の声が弾んでいて、可愛いな、と凛は思った。

「美代こそ、寝ていいのよ?」

「うん、眠くなったらね」

「……可愛く、なったね、出逢った時よりずっと」

「へ?」

 凛は掠れるような声で、精一杯の告白をした。

「…嬉しい」

 美代は照れた。

「凛さんに出逢った日から、わたしは救われてばかりよ?ありがとう」

 美代は一つ吐息を吐く。

「だからね…わたし、決めたの…もう二番手なんて、嫌だと思ってた。でも、凛さんとなら、二番手でも良いの」

 ことん、と音がした。告白に必死になっていた美代はびっくりした。

 凛が寝ている。手を握りしめたまま、ぐっすりと。

「凛さん……」

 その寝顔を見ながら、美代もいつしか寝てしまった。

 一時間半後、凛は朝焼けを感じて目覚めた。

 美代から愛を告白される夢を見ていた気がする。

 二人の手は寝ている間も強く握られたままだった。

 朝焼けの美しさに目を奪われていると、モゾモゾっと横で美代が起きた。

「わ!凛さん!おはよう」

「美代、おはよう」

「朝焼け、綺麗だぁ」

 美代が無邪気な起き上がる時に、二人の繋がれた手は離れてしまった。


 ——もう、戻れない。


「綺麗だね」

 そう呟きながら、離れてしまった手をつい、繋ぎ直してしまう。


 ——もう、離せない。


「綺麗って、言ったでしょ」

 そう言い返しながら、繋がれた手を硬く結ぶ。もう二度と、離れないように。


 それから、二人は時間を作っては美代の部屋で逢瀬を重ねた。

 二人きりになると、必ず手を握って、時間がないときはひたすらお喋りをし、時間が許せばそのまま寝てしまう。

 看護師に見つかる日もあれば、主治医の診察に呼ばれてしまう日もあった。

 志摩子と小鳥遊は、二人の変化に気付いていたかもしれないが、何も言わなかった。


 そんな日々も必ず終わる。

 それを最初に思い知ったのは、志摩子の退院の日だ。

「みんな、元気でね」

 病棟に咲く一輪の花は、可憐なまま去っていった。

「志摩子さん。わたし、寂しいです…」

 美代はずっと泣き通しだった。

「美代ちゃん、わたしも寂しいよ」

 そして志摩子は、そっと美代に微笑みかける。

「でも、行かなくちゃ。ね?」

「はい…」

 みんなに見送られて、志摩子は恐縮していた。でもとても、嬉しそうに、エレベーターに乗り込む。

 そしてみんなの方に手を振って、去って行った。

 美代は堪えきれず、凛に泣いて縋った。凛は、美代の肩を抱き、その長い栗色の毛を毛繕った。

 

「志摩子さん、元気にしてるかなぁ」

「美代、そればっかり。ラインしてみれば?」

 凛は面白そうにくすくす笑う。

 小鳥遊は、左腕が復活しても片耳にイヤホンをして、オーディブルで小説を聴いていた。

「さっき、マック食べてたよ。エックス見た」

 小鳥遊の情報に、二人はびっくりした。

「エックスやってるんだ。教えてよ」

「いいよ、これ。俺の裏垢」

「裏垢なんてあるの?」

「表垢はリアル優先。裏垢は闘病アカウントって感じかな」

「へぇー使い分けてるんだ。凛さんは?」

 美代はその使い分け方に心躍った。自分もやってみようと、小鳥遊に倣って裏垢を作る。

「わたしも、裏垢あるよ」

「表は表、裏は裏で繋がろうよ」

 美代は屈託なく言う。凛は戸惑ったが許可した。小鳥遊は、裏垢だけ繋がった。

「これ、志摩子さん」

「わー、マックだぁ、いいなぁ」

 先程まで傍に居た存在が、途端に遠く見えた。

 凛は落ち込んで来た。次の外泊の日が決まったせいかもしれない。

 いつまでも、守られた病棟の中で、美代との関係に救いを求めてるだけでは居られないのだ。


 外泊の日。

 その日凛は、迎えに来た夫がまた一人なのに落胆した。

「子供たちは?」

「平日じゃん、保育園だよ」

 預けて来たのか、と思った。凛は会いたかったので、呑気な夫の啓介に心底嫌気がさした。

「二人でデートしよう」

「デート?」

 思わず美代との朝の二人の時間を思い出してしまって、赤面する。

「ほら」

 と、差し出された啓介の右手を軽く繋いで、凛は歩き出した。

 胸に一抹の罪悪感を抱えて。

 その罪悪感が美代に対してなのか、啓介に対してなのかは、深く考えないことにした。

 

 病棟まで迎えに来た夫の啓介と、手を繋いで歩き出す凛を、美代は見ていた。

 顔を赤らめて歩く姿は、まるで新婚のそれだった。

 そうだよ、やっぱり凛はわたしのものにはならない。覚悟を決めた筈がまたぶり返す。それで良いのか?と。

 今朝は幸せだった。二泊の外泊を控えてるからか、凛はとても寂しそうにしていた。

 二泊の外泊を許されたとなると、退院も近いのかもしれないな、と美代は思った。

 この病棟を出た後、わたしたちはどうなってゆくんだろう。そんな漠然とした不安を抱えながら、美代も外泊の支度をした。

 十二時に両親が迎えにくる筈だった。

 手を繋ぎ話すだけの関係が、いつまで続くのか…美代は深淵の淵に立たされてる気がした。


 啓介の言うデートとは、ラブホテルへ行くことだった。

 確かに恋人時代はよく使った。その頃の気持ちを思い出そうよ、と啓介は言った。

 心に浮かぶ別の人が居る中での行為は、こんなに冷たいものだったろうか。

 手が触れるたび、唇が触れるたび、美代だったらどんなに良いだろうかと考えてしまう。

「今日、最高に気持ち良いよ、凛」

 啓介は身体が触れ合えれば満足らしい。

 その単純さが、今は恨めしかった。

「愛してるよ、凛…」

「わたしも、愛してる、啓介」

 

 その晩、子供たちとも再会し、夫である啓介に抱かれ、一見幸せそうな夜。

 凛は裸のまま、エックスの画面をジーッと見つめていた。啓介は寝てしまっている。

 美代も今、外泊している。

 確か隣町に住んでいる事がわかったので、比較的近い。

 愛のない行為に疲れた身体が、本当に愛する人と触れ合いたいと思わせてしまうのは、罪だろうか?

 ——えいっ、送っちゃえ。

 初めての美代へのDM。ストレートに、会いたい、それだけ打った。

 返事なんてないかもしれない。だってもう夜十時だ。睡眠薬を飲んでいつもなら寝てる頃…

 凛は啓介を起こさないようにベッドから這い降りると、下着を身につけた。次にパジャマを身につけて、階下へ降りる。

 と、エックスの通知が来た。

"わたしも、会いたい。

丸瀬浜海岸に来れる?"

 二人の住んでるところから見て、丁度中間地点の提案に、凛の心は躍った。

"すぐ行く"

 超特急で服を着替え、自転車で海岸を目指す。

 美代に会える。その想いで胸がはち切れそうだった。


 "会いたい"

 その短いDMが美代に届いたとき、世界は崩壊したのかもしれない。

 春先の夜は寒い。目一杯着込んで海へ出たけど、夜風が沁みる。それでも心は、愛する人に会えると喜んでいた。

 凛は自転車に乗って美代の元へやって来た。

 すぐに駆け寄り、夢中で抱き合う。自転車が脇で倒れる音がしたけれど、二人には響かない。

「好き、大好き。愛してる」

 凛の囁き声に、美代は頷く。

「わたしも、愛してる。凛…」

 そして二人は、浜辺に腰掛けて星の数ほどのキスをした。

 繰り返し、繰り返し、何度も。

 互いに夢中になっている間に、夜は更けて、朝が来た。

 あの日二人で初めて見たときのように、立派な朝焼けに包まれながら、二人は互いから目を離せずにいた。


 朝焼けを背に二人は手を繋いで途中まで帰った。

 互いにすべてを曝け出して、もう何も言わなかった。

 互いの家への別れ道で別れた後、美代はエックスを開き、海辺で撮った朝焼けの写真を投稿した。

"退院しても、浜辺で会えるね"

"うん、会いたい"

 恋人みたいな甘いやり取り。

 家に着くと、母親の美奈子が半狂乱で美代を探しているところだった。

「お母さん、ごめんごめん」

「美代、どこ行ってたの!」

「海までお散歩に」

「ああ、無事でよかった。すごい冷えてるわね、あったかくして」

 暖かい美奈子の手に包まれた手は、確かに昨日までの自分の手だ。

 でも、もう違う。

 この手はただの手ではない。

 欲しいものに手を伸ばし、掴んだ手だった。一番欲しいもの、凛の愛を得たと確信したこの日から、美代の世界は輝き出した。


 一方その頃、自転車に乗り家を目指す凛。

 家族は寝静まっていて、誰にも気付かれず寝室に戻る。

 啓介の寝顔を見て、先程までと違い、愛おしいとさえ思う心の余裕が出来た。

 凛はもう一眠りしようとベッドに戻る。その衝撃で、啓介が目覚める。

「おはよ」

「おはよ」

「今何時?」

「まだ六時よ」

 啓介はむにゃむにゃ言いながら凛を抱きしめた。

「冷たい」

「ちょっと朝日を拝んでたから」

「俺があっためてあげる」

 啓介は凛にキスしようとした。

「…やめて」

 凛は美代とのキスを忘れたくなかった。けれど、啓介は強引にキスをしてくる。

 また逆らえなくて、流される。けれど心の中では一心に美代を想っていた。


 それから一週間後。

 いつものように、美代と凛は二人きりの甘い時間を過ごしていた。

 硬く結ばれた手に、時折混じる甘い深いキス。

 その日はいつも以上に、甘いキスの回数が多かった。

 美代はついに、凛をベッドに押し倒した。そして、自分の上着を脱ぎ、下着姿になる。

「美代…わたし……」

「凛、愛してる」

 凛も覚悟を決めて自身の上着を脱ぐ。続けざまに下着も外し、上半身裸になった。

 明日、美代の退院が決まった。それを受けて、二人は燃え上がっている。

 当面会えなくなる。

 その間の重石が欲しかった。

 裸になって触れ合えば、その寂しさが埋まると思った。

 愛する人と肌を合わせる事が、こんなにも快感だとは知らなかった、と凛は思った。

 普段の夫、啓介との行為中には感じない域の高まりを感じて、凛は戸惑った。

「美代も、下着、外して…」

「凛…」

 二人は軋むベッドの上で裸になって睦み合った。誰かにバレると困るので、時間にして十五分ほどだったろうか。

 夢見心地のまま、衣服を身につける。

 そしてまた、甘いキスの応酬。

「…また、会えるよね?」

「退院したら、一番に会いに行くよ」

「待ってる」


 それからひと月。

 凛はなかなか、退院できなかった。

 美代という病棟での支えを失った事で、情緒不安定になった。

 外泊も家族以外の面会も許されず、凛は焦るばかりだった。

 美代に会いたいのに、こんなに遠いなんて…

「そろそろ、退院しますか?」

 主治医のその提案は突然降って湧いた。病棟レクリエーションで、映画を観ている最中の診察だった。

 凛は映画を中抜けしてしまった苛立ちを忘れ、主治医に感謝した。

「いいんですか?」

「ええ、もう十分休まったと思います。戻れますか?」

「はい!」

 その後すぐに、美代にラインした。退院日が決まったよ、と。

 ティロリティロリ。

 着信だ。

「美代!久しぶり!」

「凛、やっと声が聴けた…退院日が決まるまで、我慢してたの」

 なんだ。それで電話をくれなかったのか、と凛は納得する。

「その日、浜辺で待ってる」

 美代は嬉しそうな声を上げた。

「うん、必ず行くわ」

 凛は力強くそう言い返した。

「三坂さん、面会です」

 と、看護師に呼ばれたので、凛は電話を切った。

「啓介ですか?」

「それが…仲畑さんってゆう人」

 仲畑?美代なら、今電話した。ここに来ているなんて事があるだろうか?

「主治医も交えて面会したいって。変よね」

 この看護師は口が軽い事で有名だった。

 なにやら不穏な予想がされる。

 面会室を覗くと、硬い表情の主治医と、仲畑美代の両親がいた。

 入ってはいけない、そう思った。

「ああ、三坂さん、どうぞ座って」

 凛は美代の両親に頭を下げながら、椅子に座る。

「実は、仲畑さんからお話が…」

「なんでしょう」

「…美代に、もう会わないでいただきたい」

 孝之の声は、凛には異世界のもののように響いた。

「あの…それは……」

 凛は言い返す。けれど言葉にならない。

「もうあの子を誑かさないで」

 美奈子がヒステリックに叫ぶのを、凛は唖然と見ていた。

「落ち着いてください。順序立てて話さないと」

 主治医の男性医師、唐澤は、美奈子を制する。

「順序立ててなんて!この女は、全部わかってるんですよ!人妻の分際で美代に手を出して…」

「お、お母さん…わたし」

「貴女にお母さんと呼ばれるいわれはありませんっ」

 孝之が、バサリと凛の方に投げてよこしたのは、美代の筆跡で埋まったノートだ。見覚えがあった。

「…読んだんですね?」

「読んだ」

 それは美代が入院中につけていた日記だった。

「勝手に、読んだんですね?」

 凛は怒りが湧くのを感じた。その日記には、二人の愛の軌跡が詰まっている。

 凛の掌に汗が滲む。

「勝手に、だと?我々の娘だ!読んで何が悪い」

「いいから、美代にはもう会わないで」

 唐澤が、二人の態度に諦めたように凛と向き合う。

「日記に書かれていることは事実ですか?」

「……はい」

 美奈子と孝之の、凛を罵る言葉は右から左に流れてゆく。

「先生、わたしたち恋に落ちただけです。何が悪いんでしょう」

「三坂さんは、結婚してますね。それが、ネックでしょう」

 唐澤は言葉を選んでハッキリと言う。凛は痛いところを突かれた、と思った。

 どうしても払拭されない美代への罪悪感の源は、自分が配偶者を持っている事。

「…選ばなければ、なりませんね」

 唐澤は、凛を思ってか、苦しそうにそう呟いて沈黙した。

 凛は、素晴らしい朝焼けの朝に立ち戻り、美代の体温を思い出し、それでも逃れられない思考の波に沈んでいった。


 唐澤は、その面談の内容を外に漏らすようなことはしなかったし、美奈子と孝之も言いふらすようなことはしなかった。

 なので、翌日、啓介は普通の顔をして、いや、少し嬉しそうに退院する凛の迎えにやって来た。

 重い荷物を持ってくれた啓介と、手を繋ぎ病棟を去る。

 啓介と繋いだ手から伝わる温もりが、美代のそれに感じられて凛は揺らぐ。

 電車とバスを乗り継ぎ、自宅へ帰る。

 自宅へ帰ると啓介に抱かれる。その間も凛は揺れていた。

 今の生活、美代との逢瀬、啓介との行為、美代とのキス、色んなものが入り乱れて入ってくる。

「夕飯の買い出し、行ってくる」

「夕飯なんかなんでもいいのに。もう一回しよ?」

 啓介はなかなか凛を自由にしてくれない。でも、もう限界だった。

「また帰って来たら、ね?」

 ここに帰ってくる事があれば、だけれど。

 自転車に跨ると気持ちばかり焦った。

 こんな時でも、身体は正直に美代に会いたいと叫ぶ。

 海岸に着いた。美代は、二人が初めてキスをした場所で、凛を静かに待っていた。


「もう駄目よ、隠し通せやしない」

 凛は抱きつこうとする美代を制してそう言った。

「駄目なんて言わないで」

 美代は、その蒼い瞳からひと粒の涙をこぼした。

「もう貴女には会わない」

 凛は、瞳を潤ませながらも、決然と言い放つ。

 美代は雷に打たれたような悲壮な表情を浮かべた。その表情を見て、凛は自分の発した言葉を初めて後悔した。

「…会わない」

 先程の決然とした言い方とは程遠い、揺れた声。

「嫌よ」

 その揺れに気付いたのか、美代はぐいと一歩前に出て、凛との距離を詰める。

「わたしから貴女を引いたら何が残るの?」

「何が残るって…言われても……」

「何も残らないわよ」

 美代の一言は、凛の脳内では死んでやる、に変換されて大きく響いた。

 美代は更にもう一歩前に出て、凛の手を掴んだ。

「お願い、貴女を喪いたくないの」

 砂がサラリと風に煽られて舞うのを、凛は黙って見つめていた。

「突然もう会わないなんて、どうしたの?」

「わたしたち、やっぱり報われないわよ」

「それはこれから考えよう。わたしは…」

 美代は必死に考えた。繋ぎ止める言葉を探して。

「ねぇ凛、わたし、凛を、凛だけを愛してるの」

 美代はポロポロと泣き出した。砂浜に吸い込まれてゆくそれは、乾いた凛の身体にもすぅっと沁みた。

「だから、二番手のままでいい。啓介さんの次でいいの…そばに居させて」

「美代…聞いて」

 美代は掴んだ凛の手を、そっと優しく包み込んだ。

「貴女はまだ未成年で、未来は明るい」

「貴女さえ居てくれれば、ね」

「…わたしのことなんて、忘れた方がいい」

 美代はそれでもまだ、手を離さなかったし、凛はその手を振り解けなかった。

「家族のもとに、帰らせて」

 言いたくなかった台詞が、凛の口からスラスラと出る。

「貴女の愛は、重いの。もう、要らない」

 美代が静かに傷ついた表情をする。

「嘘よね?…わたしを傷つけるような事、わざと言って」

 そこで美代はハッとした。

「親に何か言われた?日記の位置が、昨日変わっていたの。もしかして…」

「関係ない。もう貴女のことは好きじゃない」

「嘘よね?」

「嘘じゃないっ」

 そして思い切り手を振り払った。

「さようなら」

 そのまま自転車に跨り、海岸を去る。

 最愛の人と決別した凛は、泣きながら自転車を漕いでいた。


 

epilogue



 何時間そこに居ただろう。

 凛が去った後も、美代はその場を動けずにいた。

 しゃがみ込んでは泣いてみたり、立ち上がって凛を追おうとしてみたり。

 でも結局、この場所から去れなかった。

 そう。

 約束したから。またここで会おうと。

 

 約束は果たされなかった。

 凛はここには来ていない。まだ、来ていないんだと、美代は思った。

 次第に夕焼けが美代を包み、夜の帳が下り、夜が白み始めた。

 美代の頬を涙が撫でる。

 もうそれを掬ってくれる人はいない。

 そう、居ないのだ。


 あの日以来の朝焼けに包まれながら、空虚な気持ちで美代は帰路についた。

 結局、死ねなかったな、と思いながら。

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朝焼け ——約束は果たされなかった のら犬ユイユイ @Norainu-huithuit

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