天泣の後、茶を二杯
夜啓よる。
第1話 天泣の後の世界で
黒く分厚い雲が覆う暗い空の下。ひしゃげて見えづらい青看板に一瞥もくれず、やけに動きの鈍いカーナビには目的地も経由地も一切設定しないまま、ぬかるんだ土の道路の上に車を走らせている。
この車以外に道路を走っている車は一台も見当たらない。代わりに様々な要因で大破したのだろう車たちと、それに乗っていた人であったはずのものが道路のあちこちに転がっていた。
惨劇とも呼べそうな光景だが今更それに驚きを示したりはしなかった。だって世界は、随分と前に滅んでしまったから。
数か月と少し前、突如として世界は滅んだ。理由は分からない。原因も同様に。
滅びの日、世界に何が起きたのかは春樹も分からない。春樹が覚えていることと言えば、雲一つなかった晴天の日だったのに突然──築数年のしっかりした構造の屋内にいたにも関わらず──上から「水」が降ってきたこと。それに飲み込まれて意識を失ったが、何故か五体満足で目を覚ますことができたこと。自分が気絶している間に世界が滅んでいたこと。そして自分と同じように生き残った人がこの世界にはいるらしいこと。たったそれだけだ。
こういう時多くの人は家へ帰ることを目指すのだろう。だが春樹はそうしなかった。そうすることができなかった。何故なら春樹はここ北欧の雪国から遠く離れた、極東の島国よりやって来た留学生だったからだ。船も飛行機も動かない状況となっては、特別な力を持たない一介の学生ではどう足掻いても帰ることができないのは自明の理だった。
世界をどうにかしようだなんて大層な志も無ければ、余生を豊かにする為の明るい目標も無い。右も左も分からない異国の地では行きたい場所も思い浮かばない。春樹に残されたのは、この地で余生を過ごすか、もしくは自ら命を手放すかの二択だけだった。どちらも絶望的な選択肢だったがしかし、春樹は前者を選んだ。
「──ねえハル、週明けから新コーナーが始まるって」
命を手放さなかった理由は、ラジオの音楽と共に後部座席から春樹の耳に届く、この透き通った声にあった。
高すぎず低すぎず、甘い声色だが決して甘ったるくはない。十人が聞けば十人が褒め称えずにはいられなくなるようなそんな声。すっかり日常の中に溶け込んで久しいものだが、春樹はいつ聞いても何度聞いても「美しい声だ」と感心せずにいられなかった。
「新コーナー?」
「そう。先週の回で、廃屋の地下室から引き上げたレコードボックスの話があっただろう? あれ、どうやら「水」の影響を受けていなかったみたいでね。そのレコード達を活用して、新しく音楽系のコーナーを設けるそうだよ」
「へえ……え、ってかそれだけの枚数あったってこと? すごいね」
楽し気なその声に相槌を打ちながら、春樹はルームミラーをちらと覗く。
そこにはこの世の者とは思えない美人がいた。キラキラと輝く緩くウェーブがかった白い髪、筋の通った高い鼻、長い睫毛に縁取られた青緑色の双眸。華奢な身体を包む真っ白なふわふわのシャツ。どれをとっても美しいことこの上ない。それより下は後部座席に横になっているので今は見えないが、普段は黒いスキニーとヒールブーツがその細い脚を覆い隠していることを春樹は知っていた。
そんな絶世の美人は手に持った小型のラジオを掲げると、ミラー越しに春樹に向かって柔らかく微笑む。
「よっぽどレコードが大好きな、センスの良い蒐集家の家だったのだろうね。ほら、今かかっているお試しの新曲もとても良い」
うっかり彼──もしかすると彼女かもしれないが──に見惚れかけた春樹だったが、慌てて気を引き締めると彼が言ったラジオの新曲に耳を傾けた。
ラジオから掛かっているのは、恐らくジャズだとかに分類されるだろう雰囲気の曲だ。彼が「センスが良い」と言うだけはあって、音楽に詳しくない春樹でも思わずリズムに乗ってしまいそうになるほど格好いい。
「確かにいいね。アマが好きそうな曲」
「分かるかい? ふふ、また楽しみができたね」
綺麗に並んだ鋭い歯を唇の下から覗かせながら、彼──アマは心底楽しそうに笑う。それにつられるように春樹もまた、黄色い瞳を細めて小さく口角を上げた。
アマは春樹の命の恩人だ。比喩ではなく、言葉の通りに。
突如世界が終わりを迎え、何もかもが流され消えた異国の地で、孤独となった春樹に手を差し伸べてくれたのがアマだった。変化に戸惑い、時には取り乱す春樹の言葉に真剣に耳を傾け、隠し事をせずに優しく真摯に受け答えをして、共にここで生きようと寄り添ってくれた。そんな彼の存在が、当時の春樹にとってどれほどのものだったかは筆舌に尽くしがたい。彼がいなければ、春樹はとっくに命を投げ出していただろう。
アマとの出会い、共に過ごしたこれまでの時間、そしてアマの存在。それこそ春樹が、この終末世界で生きていこうと決めた理由だった。
「ハル。
閑話休題。アマお気に入りのラジオ番組が終わり、エンディング代わりの新曲から番組の合間を埋める曲へ変わった頃。窓の外を眺めながら春樹と他愛無い話をしていたアマが不意にそう呟いてラジオの電源を落とした。
唐突な言葉に思わず春樹は急ブレーキを踏み、車体が大きく揺れる。後部座席から聞こえた、アマのバケツが倒れ水がこぼれる音、それに驚いたのだろうアマの声に「ごめん」と一言詫びを入れると春樹はアマと同じように左側の窓の外を見た。
「どこ? あの辺?」
「もう少し右。丁度あの木が途切れる辺りから見える丘の上だ」
後方から伸ばされた、青緑色に彩られたアマの指先を目で追うと、確かにこの市街地と郊外の住宅地を結ぶ広い道路から少し離れたところにぽつんと何か大きなものがあった。広大な森の中にある、拓けた丘の上に立っているのもあって確かに目を惹かれる。更によくよく目を凝らしてみれば、それは恐らく木でできた家のようなもの──コテージやログハウスと呼ばれる建物であるように思えた。
「本当だ。誰かの家?」
「位置的に住宅地からは離れているし、貸し別荘のようなものかもしれないな」
「……少なくとも工場とかじゃなくて、人が滞在するための場所っぽいよね」
「違いないね。寄ってみるかい?」
「いい?」
「勿論、せっかくの機会だ。食糧の補充もできるかもしれないからね。ただし、安全運転で頼むよ」
「……ごめんって。水はまた後で汲むから」
からかいに苦笑しつつ窓から視線を外し、カーナビを操作する。動きどころか反応も鈍いこのナビにはいつも苦しめられているが、今日は調子が良かったのか、さほど時間をかけずに手際よく目的地設定を終えられた。
春樹は少し機嫌を良くしながらハンドルを握り、安全のためにルームミラーを見やる。後部座席ではアマがバケツから引き抜いた脚を拭き、いつものスキニーパンツを履くところだった。ふやけ知らずの真っ白い脚が目に映り心臓が跳ねる。
慌てて目を逸らそうとした春樹だったが、直前であるものの存在に気付くと、そっと指先でミラーを数度叩きながらアマに声をかけた。
「アマ、それ引っかかったら痛いやつでしょ」
「おっと。ありがとう」
鏡越しに春樹が指さすもの──太腿に取り残されていた青緑色の鱗達の姿を認めたアマは、礼を言いながらそれをさっとひと撫でする。ほんの一瞬の軽い仕草。しかし手を退かせばまるで幻だったかのように、そこにあったはずの鱗は綺麗さっぱり消えていた。
これでもう出発しても問題ないだろう。何事も無くスキニーを履き終え靴に手を伸ばすアマを横目に、春樹は今度こそナビの案内に従って車を発進させた。
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