ロストシグナル

バーニーマユミ

第1話

「症状が現れたのはいつからですか?」

「いつから…あの、気になり始めたのは最近で」

「1週間とか、1か月とか、大雑把な日数でかまいませんので、覚えていませんか?いつから目の中に虫が泳ぐような感覚がし始めたか」

「ん〜…気がついたら…あの、飛蚊症とかじゃないんですか?先生。AI診断にかけたら飛蚊症の恐れありって1番最初に出たんですけど」

「AIはAIですから。でもうちを紹介されたでしょう?」

「ええ、はい」

 まばたきの度に目の中で虫が泳ぐような感覚と、小さな黒いものがつぅーっと下から上に動くのが見え始めてしばらく経つ。

 43歳、男。俺の職業は中型トラックドライバーだ。暗い時間も明るい時間もお構いなしに走る。積荷は主に飲料。パレットで積み込んで、大抵は手おろしになる。平均勤務時間は13時間ほど。元々、視力は悪くなかったためメガネなんかには世話になったことがなかった。

 むろん、サングラスとも無縁だった。日光にやられて目の奥が痛い、なんて感覚は実家が農業を生業としているせいか、さほど気になっていなかった。太陽とはまぶしいもんだ。それぐらいだ。

 ちょっと前まではたまに、目の中で泳ぐヤツがいた。しかし近頃は頻度が上がり、まばたきする度、ほとんど毎回現れる。左目だけに現れる厄介者が気になりはじめ、近所の眼科にかかる前にとりあえず、とAI診断に症状を入力してみた。

 AIーーここ何年か、この手の機能はあらかじめ住宅設備に組み込まれているパターンが増えて来ている印象がある。タッチパネル式の端末は、給湯器のスイッチを入れるぐらいですぐに使える。医療機関の人手不足にもひと役かっているらしいし、何よりこの端末が組み込まれた住宅の方が何かと補助がおり安く住むことができる。

 AIがすっかり酸素のように行き渡ってからのあれこれというのは、ほとんど家にはいないわりに薄給の暮らしには大助かりだった。

 とまあ、余談はさておきーーさる木曜日、俺は近所の眼科に予約を入れ、土曜日の午前中にかかった。飛蚊症でまあ間違いないだろう。そんな軽い気分のまま診察室に通され、眼球を診た医者はひとこと、"紹介状を書きますので、明日必ずーーへ行ってください"


 そして今に至るわけだ。俺が紹介状をもらったのは国立人工知能研究所だった。

 ぱっと見た外観はどう見ても病院っぽくはないし、眼科はなさそうだがーーとりあえず中に入る。自動ドアが開いてすぐ、受付は無人だった。壁に点滅していた手紙のマークに、紹介状のコードをスキャンさせると何もなかった壁の一部が開き、長い廊下が現れた。足元には誘導灯のような、柔らかいがはっきりとした光源があった。10メートルも歩かないうちに目の前の壁が開いた。そして現れたのが今座っている空間だ。

 目の前の医者は巷でもよく見るパターンで、どうやらアンドロイドらしい。人工的にわざとアンバランスに作られた全てが奇妙な生々しさを醸し出している。

 いくつかの質問の後、しばらく医者は黙った。沈黙は10分以上続いたように感じた。そして何の前触れもなしに、座っていた椅子から拘束具が現れ、俺の手足、頭部を固定した。

「飛蚊症ではありませんね」

「だったら何ですか!何ですか、これは!」

 俺は正直、びびっていた。これからどうなるのか全く分からない。

「大丈夫です。チクッとするだけです」

 うなじ辺りに何かが刺さる感覚があった。全身の力が抜け、耐え難い睡魔が俺を飲み込んでいく。視界が歪み、辺りの音は耳鳴りのように全てがハウリングして響いた。

 医者は何かに向かって言う。

『脳細胞に信号を送っていたチップがズレたようです。ズレを修正するために一度、リセットをかけてみます。アイデンティティを初期化します』

 前にもこんなことがあったような…

 2039年現在、生身の人間はほとんど存在していない。地球上にはよくできた最新式のアンドロイドか、テスト体として造られていたーー体内に埋め込んだチップで人格をもコントロールする旧式のーー通称オリジナルと呼ばれる人間的なもの、が蔓延っていた。

 体内に埋め込まれたチップはあらゆる欲求をコントロールする。犯罪は生身の人間の減少とともに、世界中で目に見えて消滅していっていた。人間というフォーマットは均一化されつつあり、オリジナリティを制御し続けているチップは、アイデンティティそのものと言っても過言ではない。

 今、地球上を歩いている"人間"の血管内を流れているのは血液ではなく、シグナルだ。

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