第14話 卒業式の日、名前を呼べない場所で

 体育館に入った瞬間、少しだけ空気が違うと感じた。

 いつもは部活の声や靴音で満ちている場所なのに、この日は妙に整っていて、静かで、よそ行きの顔をしている。


 椅子が並び、赤いじゅうたんが敷かれ、壇上には校旗。

 それだけで、「終わり」が近いことを突きつけられる。


 伊東蓮は、自分の席を見つけて腰を下ろした。

 制服の袖口が、少しだけ短く感じる。

 この三年間で、確実に時間は流れた。


 前の方に、澄田薫の姿があった。

 少しだけ背筋を伸ばして、前を向いて座っている。


 ――澄田。


 心の中ではそう呼ぶ。

 けれど、放課後なら、二人きりなら、違う名前になる。


 それを、ここでは口にできない。


 式が始まり、校歌が流れる。

 歌詞は覚えているはずなのに、声が少し震えた。


 卒業証書授与。

 一人ずつ名前が呼ばれ、壇上に上がっていく。


「澄田 薫」


 その名前が響いた瞬間、蓮は思わず背筋を伸ばした。

 薫は一瞬だけこちらを見て、それから前に進む。


 凛とした歩き方。

 受け取るときの、少しだけ緊張した横顔。


 ――きれいだな。


 そう思ってしまう自分に、苦笑する。

 こんな場所で、こんな日に。


 それでも、抑えられなかった。


「伊東 蓮」


 次に自分の名前が呼ばれたとき、頭が少しだけ白くなった。

 立ち上がり、歩き、証書を受け取る。


 壇上から見える景色は、思っていたよりも遠かった。


 ――終わるんだ。


 高校生活が。

 この距離感も、この呼び方も。


 式が終わり、教室に戻る。

 最後のホームルーム。


 担任が話す言葉は、どこか他人事のようで、

 けれど一言一言が、胸に積もっていく。


「これで、みんな卒業です」


 その言葉で、教室が少しざわついた。


 写真を撮り合い、メッセージを書き合い、

 笑い声と、泣き声が混ざる。


 薫は、友人たちに囲まれていた。

 蓮は少し離れた場所から、それを見ていた。


 ――今は、近づけない。


 それでもいい。

 もう少しだけ、我慢すればいい。


 校舎を出ると、空は驚くほど青かった。

 校門の前には、人が溢れている。


「伊東くん」


 後ろから、聞き慣れた声がした。


 振り返ると、薫が立っている。

 周りに人がいるから、呼び方はそのまま。


「……澄田さん」


 それでも、目が合った瞬間、分かる。


 同じ気持ちだということが。


「このあと、少しだけ」


「うん」


 短い会話。

 それで十分だった。


 人の流れから外れ、校舎の裏へ回る。

 誰もいない場所。


 そこで、薫が小さく息を吐いた。


「……やっと、二人きりだね」


 蓮は、周囲を確認してから、少し声を落とす。


「……薫」


 一瞬、薫の目が見開かれる。


「……もう一回」


「薫」


 今度は、ちゃんと笑った。


「蓮」


 それだけで、胸がいっぱいになる。


 名前を呼ぶだけなのに。

 名前を呼べるだけで。


「卒業だね」


「うん」


「離れるの、ちょっと怖い?」


 正直な質問だった。


 蓮は少し考えてから答える。


「……でも、終わりじゃない」


 薫は、ゆっくりとうなずいた。


「うん。始まりだよね」


 校舎の影が、少しずつ伸びていく。

 制服の時間は、もうすぐ終わる。


 それでも、この気持ちは、ここに置いていかない。


 蓮はそう、はっきりと分かっていた。

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