第8話 名前を呼ぶということ
デートの帰り道。
夕暮れの海が、空と同じ色に溶けていく。
二人の間には、いつもより少し長い沈黙があった。
それは気まずさではなく、言葉を選んでいる時間だった。
蓮は、何度も口を開きかけては閉じる。
――名前で、呼びたい。
その気持ちだけが、胸の中で大きくなっていく。
「……薫」
気づけば、声に出ていた。
薫が、ぴたりと足を止める。
「……今、名前で呼んだ?」
「あ……ごめん。嫌だったら――」
「嫌じゃない」
即答だった。
頬を赤くしながら、薫は小さく息を吸う。
「むしろ……嬉しい」
胸が、きゅっと鳴る。
「じゃあ……蓮、って呼んでもいい?」
「……うん」
互いの名前を、ゆっくり確認するように呼ぶ。
「蓮」
「薫」
たったそれだけで、距離が一気に縮まった気がした。
「……学校では、今まで通り苗字にしよっか」
薫が言う。
「そのほうが、落ち着くし」
「二人きりのときだけ、名前」
「うん」
それは、小さな約束だった。
けれど、二人だけの、大事な境界線だった。
帰り道、何度も名前を呼び合う。
「ねえ、ちゃんと恋人だよね」
「うん。間違いなく」
確認するたびに、現実になっていく。
潮風の中で、蓮は思う。
この人と、同じ時間を重ねていきたい、と。
まだ先のことは分からない。
けれど、今はただ、隣にいることが嬉しかった。
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