第16話「空白」

朝の移動は、静かだった。


 誰も、昨夜のことを口にしない。


 だが――

 忘れているわけじゃない。


 ただ、

 触れたくないだけだ。


「……なあ、カイ」


 歩きながら、ハルドが言った。


「お前、自分の過去を

 どこまで覚えている?」


 突然の問いだった。


「普通にだ」


「生まれた村」


「親の顔」


「剣を振り始めた時期」


「……曖昧じゃないか」


 言われて、気づく。


「そうか?」


「具体的な“出来事”が少ない」


 ハルドは、足を止めた。


「例えば」


「十六の年」


「お前は、何をしていた?」


 ……。


 答えが、出てこない。


「……移動してた、と思う」


「どこから、どこへ?」


「それは……」


 思い出そうとすると、

 頭が、ひどく重くなる。


 霧がかかったみたいに。


「……分からない」


 リィナが、こちらを見る。


「カイ」


「はい」


「あなたの祈り」


「……祈り?」


「時々」


 彼女は、言葉を選びながら続けた。


「誰かに向けて

 発している感じがします」


「世界じゃなくて」


「神でもなくて」


「もっと……

 近い、誰か」


 胸が、ざわつく。


「俺、祈ってなんか……」


「無意識です」


 リィナは、はっきり言った。


「眠っているとき」


「あなた、

 同じ言葉を繰り返しています」


「……何て?」


 一拍、間があった。


「――『戻らない』って」


 その瞬間。


 視界が、一瞬だけ揺れた。


 音が、消える。


 遠くで、

 鐘が鳴った気がした。


「……何だ、今の」


 ハルドが、険しい顔になる。


「やっぱりな」


「何がだよ」


「お前」


 ハルドは、低い声で言った。


「一度、世界から外れている」


 意味が、分からない。


「……外れる?」


「魂脈から、だ」


 リィナが、息を呑む。


「そんなこと……

 人間にできるんですか」


「普通は、無理だ」


「だが――」


 ハルドは、俺を見る。


「王に近い存在なら、可能だ」


 胸が、嫌な音を立てる。


「王?」


「神話にしか出てこない」


「世界が壊れそうになったとき」


「均衡の外に立ち、

 選択を下す存在」


 風が、吹いた。


 草が、同じ方向に倒れる。


 まるで、

 世界が話を聞いているみたいだった。


「……冗談だろ」


「だったらいい」


 ハルドは、笑わなかった。


「だがな」


「観測者が来た理由」


「調律獣が退いた理由」


「リィナが、

 お前を“遠い”と感じた理由」


「全部、説明がつく」


 リィナが、そっと俺の袖を掴む。


「カイ」


「もし」


 震える声。


「もし、あなたが

 世界の外に立てる人なら」


「……」


「きっと」


 目を伏せる。


「最後に、選ばされます」


 その言葉は、

 刃みたいに胸に刺さった。


 遠くに、遺跡が見えてくる。


 崩れた塔。


 石に刻まれた、古い紋様。


 ハルドが、呟く。


「……着いたな」


「最初の王が消えた場所だ」


 足が、自然と止まった。


 分からない。


 何も、思い出せない。


 でも。


 この場所を見た瞬間――

 胸の奥で、何かが安堵した。


「……知ってる」


 無意識に、そう呟いていた。


 ハルドとリィナが、同時にこちらを見る。


「何をだ」


「……分からない」


 でも、確かに感じる。


 ここで何かを、置いてきた。


 戻らないと、決めた何かを。


 世界は、静かだった。


 だが、その静けさは――

 嵐の前のものだった。

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