第5話「準備」

 朝は、唐突に来た。


 鳥の声で目を覚ましたわけじゃない。

 足音と、金属の擦れる音だった。


「……来たな」


 身体を起こすと、リィナもすでに目を覚ましていた。


 顔色は、昨日と変わらない。

 いや――少し、白い。


「早いですね」


「予定通りだ」


 焚き火の跡を挟んで、数人の人間が立っていた。


 灰色の外套。

 腰には短剣。

 胸元に、同じ紋章。


 管理官。


 アークを管理し、

 灯主を“無事に”起動地点まで運ぶ役目の人間だ。


「灯主リィナ」


 先頭の男が、淡々と告げる。


「起動準備が整いました。

 これより、護送を開始します」


 護送。


 その言葉に、逃げ場のなさを感じた。


「……同行者は?」


 男が、俺を見る。


「許可されています。

 ただし、ここまでです」


 ここまで。


 つまり、アークの内部には入れない。


「分かりました」


 リィナは、静かに頷いた。


 ためらいはない。


 その様子が、余計に胸を締めつける。


 歩き出すと、空気が変わった。


 昨日まで、ただの街道だった道に、

 人が立っている。


 警備。

 見張り。

 祈りを捧げる人々。


 すべてが、彼女のために用意されている。


「……すごいな」


 思わず、そう言った。


「世界を守るって、

 こんなに手厚いんだ」


 皮肉だった。


 管理官は、聞こえないふりをした。


 道の途中、子どもが駆け寄ってきた。


「灯主さま!」


 小さな花束を差し出す。


「ありがとう」


 リィナは、屈んで受け取った。


「大事にしますね」


 子どもは、満足そうに走り去る。


 その背中を見送りながら、

 俺は拳を握った。


「……なあ」


 小さな声で、彼女に言う。


「今なら、まだ――」


「カイ」


 名前を呼ばれただけで、止まった。


 彼女は、前を向いたまま言う。


「準備が始まったら、

 これはもう“私の問題”じゃありません」


 それは、どういう意味だ。


「世界の問題です」


 そう言って、少しだけ振り返る。


「だから、あなたが背負う必要はない」


 優しさだ。


 逃げ道を、与えてくれている。


 それが分かるから、余計に苦しい。


 やがて、アークが見えてきた。


 近くで見ると、想像以上に大きい。


 円環状の構造体が、静かに回転している。


 内部から、低い振動音が伝わってくる。


 生き物みたいだ。


「ここまでです」


 管理官が言った。


 境界線が、地面に引かれている。


 越えた先は、

 灯主しか入れない。


 リィナが、立ち止まる。


「……ありがとう、カイ」


 振り返って、微笑んだ。


「一緒に来てくれて」


 何か言おうとして、

 言葉が見つからない。


 代わりに、聞いた。


「後悔は?」


 彼女は、少しだけ考えてから答えた。


「あります」


 正直な声だった。


「生きたかったです」


 その一言で、胸の奥が裂けた。


「それでも?」


「それでも、行きます」


 理由は、もう聞かなかった。


 彼女は、一歩踏み出す。


 境界線を越える。


 その瞬間――

 空気が、完全に分かれた。


 こちら側と、向こう側。


 もう、同じ場所には立てない。


「……待て」


 思わず、声が出た。


 彼女が、立ち止まる。


 管理官が、こちらを見る。


「何か?」


 俺は、リィナを見た。


 彼女の背中。

 細い肩。

 消える予定の人間。


 世界は、完璧に準備を終えている。


 残っているのは――

 俺だけだ。


 選ばれていない。

 でも、見てしまった。


 このまま見送れば、

 世界は続く。


 止めれば、

 何かが壊れる。


 そのどちらも、

 もう他人事じゃない。


 心臓の音が、うるさい。


 ――今だ。


 そう、思ってしまった。


 それが、

 すべての始まりだった。

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