第3話「日常」

街を出る朝は、静かだった。


 誰かが消える前の日だというのに、

 市場は開き、店は声を張り上げ、

 子どもたちは走り回っている。


 昨日と、何も変わらない。


「行きましょうか」


 リィナが言った。


 背中には、小さな荷袋。

 旅というより、散歩に近い装いだ。


「ああ」


 短く答えて、歩き出す。


 街道に出ると、すぐに人とすれ違った。


「灯主様だ」


 老人が、帽子を取る。


「どうか、お気をつけて」


 次に会った母親は、子どもの手を引きながら頭を下げた。


「ありがとうございます」


 その子どもは、興味深そうにリィナを見る。


「ねえ、あの人、すごい人?」


 母親は、笑って頷いた。


「ええ。世界を守ってくれる人よ」


 リィナは、何も言わず微笑んだ。


 それができるのが、すごいと思った。


 歩くほどに、同じ光景が繰り返される。


 感謝。

 尊敬。

 当然のような期待。


 誰も、彼女を引き止めない。


「……慣れてますね」


 思わず、そう言った。


「はい」


 リィナは、歩きながら答える。


「小さい頃から、見てきましたから」


「灯主を?」


「はい。三人」


 三人。


 その数字が、重い。


「覚えてます?」


「……名前は、あまり」


 少し間を置いてから、続けた。


「でも、声とか、笑い方は覚えてます」


 忘れられていない。


 でも、残ってもいない。


 それが、この世界の仕組みだ。


 昼前、街道沿いの小さな村に着いた。


 休憩のために立ち寄ると、

 ちょうど何かの準備をしていた。


 布を張り、花を並べ、

 簡易的な祭壇を作っている。


「今日は、起動の日か?」


 俺が聞くと、村人は頷いた。


「ええ。別の灯主様ですが」


 別の。


 つまり、今日は――


「二人、ですか」


 リィナが、静かに言った。


「え?」


「あ、いえ……」


 村人は気に留めず、笑った。


「多い方が安心ですからね」


 その言葉で、胸の奥が冷えた。


 安心。


 そのために、何人消えてもいい。


 祭壇の奥に、若い男が立っていた。


 年は、俺と同じくらいだろう。


 顔が、強張っている。


 周囲の人間が、声をかける。


「立派だ」

「誇りに思え」

「ありがとう」


 男は、ぎこちなく頷いている。


 目が、泳いでいた。


 リィナが、立ち止まった。


「……大丈夫ですか」


 男は、彼女を見て、驚いた。


「あなたは……」


「同じです」


 それだけで、通じた。


 男は、唇を噛む。


「……怖いです」


 初めて、正直な言葉を聞いた。


 周囲には、聞こえない声で。


「怖いですよね」


 リィナは、頷いた。


「でも」


 男は、続けた。


「逃げたら、全部無駄になる」


 誰かに、そう言われ続けてきたのだろう。


 そのとき。


 鐘が鳴った。


 低く、重い音。


 村人たちが、一斉に空を見る。


「始まる」


 遠くで、アークが光った。


 地面が、わずかに揺れる。


 男の顔から、血の気が引いた。


 リィナは、一歩前に出る。


「……先に行ってください」


 俺を見る。


「私、少しだけ……」


 何を言うつもりなのか、分かった。


 同じ立場の人間にしか、できないことだ。


 俺は、頷いた。


 少し離れた場所で、待つ。


 遠くからでも、声は聞こえた。


「終わったら、怖さはなくなります」


 慰めなのか、希望なのか、分からない言葉。


 男は、何度も頷いていた。


 やがて、光が強まる。


 風が、止まる。


 次の瞬間――


 何も、起きなかった。


 爆発も、叫びも、ない。


 ただ、

 男が、いなくなった。


 そこに立っていたはずの場所が、

 空白になる。


「……成功だ」


 誰かが言った。


 拍手が起こる。


 村人は、安心した顔で散っていく。


 リィナは、動かなかった。


 俺は、隣に立つ。


「……見えました?」


「はい」


 声が、少し震えている。


「一瞬だけ」


 何を見たのか、聞かなかった。


 聞かなくても、分かる。


 これが、正しい日常だ。


 これが、この世界だ。


 そして――


「明日は、私の番ですね」


 リィナは、そう言って、笑った。


 その笑顔が、

 どうしても、頭から離れなかった。

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