名無しの英雄譚
楠アキ
第1話 英雄になれなかった男
キャラバンを運行している旅行会社のミスで、半日遅れの
「しまったな。まさかこんなに若い記者がいるとは思わなかった」
僕が先月のベヒモス退治についてのインタビューを終えた後、ロアはやれやれと頬をかいた。
ロアの口調には棘がなかった。柔らかい物腰に反して隙が一切ない。細身の長身に、整った顔立ち。白い肌。魔物との戦闘で傷を負ったことはほとんどないらしいことから、ロアの剣士としての実力の高さがうかがえた。
「貴重なお話、ありがとうございました。あと、僕はこれでも二十歳です」
「すまない、失言だった。てっきり旅行中の学生なのかと」
手帳を後ろポケットにしまった後、僕はこれ見よがしにハンチング帽を指先で弾いた。
「ほら、画家志望の学生ってこともあるだろ? 旅先で絵を描いて売ってるとか」
まぁいい。五歳は年下に見られるのは、子供の頃から慣れっこだ。低い身長を理由にあげないロアはきっと優しい。
「もうひとつ、お聞きしたいことがあるんですけど……」
そこで、横からニュッと伸びた腕が僕の口を遮った。
「そこまでだ」
ロアに師事している剣士だった。名はバジル・フランケ。
歳の頃は僕と同じくらいだろう。若いが、物腰はしっかりしている。貴族の出かもしれない。ただ、切れ長の双眸がやけに高圧的だった。
僕のような自由人とは、ソリが合わないタイプだ。
「ベヒモスの件、書くのはいいが、記事を出すのはロア様がロングムーンの王と謁見してからにしてもらおう」
「そりゃあ、別にかまいませんけど」
「もちろん、ロア様の女性関係についてもだ」
ほぉ、と僕は感心した。
なかなか鋭いじゃないか。
実は記事にすること自体にはそれほど興味がなかったので、僕は神妙な顔で頷いた。頷きながら、さりげなく右手を前に出す。
「ち……」
バジルは眉根を寄せながら僕の手の平にチップを乗せた。口止め料というわけだ。
「これだからゴシップ屋は嫌なんだ」
「まいど」
「ところで、バジル。私の名前に様をつけるのはやめにしてくれないか?」
「レェン・レーンの皇帝から勅命を受ける実力の方が、何を言ってるんですか。謙虚なのはけっこうですが、もう少しご自身の身分も勘案していただきたい。今回の遠征も、私は反対だったんです」
ブツブツと独り言に移行したバジルを尻目に、ロアは小さくため息をもらした。
やがて街道の先に地方都市ロングムーンの街並みが姿を見せ始めた。馬車の隣を並行するように、白い渡り鳥が三羽、飛んでいた。
薄暗い闘技場の地下控え室には殺気が充満していた。
むせ返るような汗の匂いと血の気配。試合前の者はウォーミングアップに余念がなく、試合を終えた者は高揚や疲労感と共に地面にうずくまるか、あるいは力なく横たわっていた。
華やかな喧騒を見せる都市部とは切り離された世界。その底辺の隅にあるベンチに腰掛けながら、サバン・サーバインは僕のインタビューに応じていた。
「帝国の記者が俺みたいな奴の取材だなんて、世の中よっぽど平和なんだな」
無精髭の上の濁った瞳が僕をまっすぐに見据えている。シャツを脱ぎ捨てた上半身はよく引き締まっていたが、それがかえって顔や体中にある無数の痣や切り傷を浮き上がらせていた。
「今日の試合はどうでした?」
「へへ……負けた試合にどうでしたもねぇだろうよ」
自嘲するサバンの顎から汗が滴り落ちた。
「次の試合で五百戦目なんでしょう? 意気込みをお聞かせ願いませんか?」
「それ、俺の戦績知ってて言ってんのかい? 変わった兄ちゃんだな」
こちらを探るような視線が来る。
「いつも通りやって終わるだけさ。生活がかかってるんだからな。カッコつけてぶん回して大怪我しちゃあ割に合わないファイトマネーなんだ」
必死にやって、必死に負けるんだ——。
サバンは言った。
「相手は勇者ロアの一番弟子ですよ。バジル・フランケ。若いですが、剣の腕は確かです」
一瞬、サバンの体がわずかに跳ねた。
「王様お抱えの勇者様が、遠路はるばる遠出してきて、道楽でこんなロートルを痛ぶろうってわけだ。勘弁してもらいたいね」
「ひとつ、お願いがあるんですが」
僕はペンを止めて顔を上げた。
「僕にその試合の介添人をさせていただけないですか?」
「頭がイカれてんのか? それとも、俺が地面に這いつくばるとこを間近で見たいサディストか?」
「当日は二倍の取材料をお払いします」
「……それならかまわねえが、俺はアドバイスなんか受けないぜ?」
僕は闘技や剣技に関しては素人だ。はなからアドバイスなんて大それたことを考えているわけじゃない。
ただ、僕は見たいのだ。
腰抜けサーバイン。
それがサバンの呼び名だった。
ロングムーンで彼がこなした試合の数は四九九試合。この地で剣闘士のキャリアをリスタートさせたのは十年前のことなので、一月に四、五回は試合をこなしている計算になる。
近年は回復魔法の技術が発達しているとはいえ、花形の剣闘士が年に数十回しか試合をしないことを考えると、それがいかに驚異的な数値なのかがわかる。
それ以上にサバン・サーバインが僕の興味を引いたのは、その戦績にあった。
四九九戦全敗。
正確には、零勝百八二敗三0七引き分け。
公式記録によると、ロングムーンでサバンが勝利した試合は一度もない。
サバン・サーバインはロングムーンから遥か西部にある砂漠国家テューダンの奴隷出身だった。王政・議会制の中に民主主義が芽吹き始めている現在でも、国や地域によって奴隷制は存在している。
サバンは生まれながらの剣闘士だった。少年期、彼は奴隷仲間や魔獣と殺し合いを演じるという凄惨な世界を生きてきた。
そして、サバンは二十歳を過ぎる頃に自分の身を自分で買った。あぶく銭にも満たないファイトマネーを積み立て、自由の権利を得たのである。
だが、その後冒険者となったサバンは、この地で両足に大きな傷を追うことになる。特にダメージが大きかった右膝は深刻な後遺症を残した。利き足のバランスを失ったサバンに〝腰抜け〟のあだ名がついたのは、この怪我のせいにもよる。
テューダンでの彼の呼び名は〝雷光のサーバイン〟。特に、深い右の踏み込みから放たれる三段突きを見切れた者はいないらしい。あまりに雄々しく荒い剣技ゆえに、砂漠の国では今でもサバンの勇姿を覚えている者がいるほどだ。
自由の身を得て、肉体の一部を破壊されてなお、サバンは剣闘の世界に身を置いている。
——何を思って、彼は負け続けているのだろう。
「いい食べっぷりだね」
ぶどうジュースのおかわりを持ってきてくれたウェイトレスは、僕の顔を覗き込みながら笑顔を見せた。
ポニーテールに結った赤毛が特徴的な、溌剌とした女性だった。歳は僕よりもひと回り上に見えるが、この店の看板娘といったところだろう。
王宮の広場から南へ伸びる一番通りにある「フェニックス亭」。僕はその店で遅めの夕食をとっていた。
メニューはきのこのオイルパスタ。僕はスパゲッティが大好物なのである。
「このあたりは山菜が名物なんですよね? きのこ料理、楽しみにしてたんですよ」
「学生さん? 旅行なのかしら?」
「働いてますよ。仕事で来ています」
「ありゃ、ごめんね。ほら、勇者ロアが凱旋帰国してるからさ、それ目当ての旅行者が多くって」
狭い店内はほとんど満席で賑わっていた。客たちはロアの話題でもちきりだ。ロングムーンの王室が用意したパレードは盛大なもので、まだ前夜祭にもかかわらず、街全体がうねるような熱気に包まれていた。夜とは思えないほどの喧騒と、イルミネーションが街を彩っている。
「キュ」と鳴き声を上げて、僕の懐からチャオが顔を出した。
一見すると小型のリスに見えるチャオは魔法生物で、ブライトブルーの体毛に覆われていた。
「あ、こら」
僕の手をするりと逃れて、チャオは味わって食べていた僕のパスタをちゅるりと吸い込んだ。
「かわいらしい相棒だね」
「すいません。大人しくさせますから」
「他のお客さんの迷惑にならないなら、大丈夫だよ。その子、人間の食べ物は食べられるの?」
「はい。悪食なもので」
チャオがジロリと僕を睨んだ。
「なら、ラズベリーのパイでも出してあげるよ。食後のデザートに一緒に食べるといい」
「ありがとうございます」
赤毛のウェイトレスが厨房に戻ったところで、店内が「わっ!」とざわめいた。入口のベルを鳴らして店内に入ってきたのが、ロアとお付きのバジルだったからだ。
「勇者だ!」
「まさか、本物か!?」
ロアは柔和な笑顔で愛想を振りまきながら、カウンター近くの席に腰をおろした。
「いらっしゃいませ」
赤毛のウェイトレスがロアたちのテーブルに水を並べる。
「久しぶり、ベネット」
「まさか普通に顔を出すとは思わなかったわ。あんたねぇ、自分が祭りの主役だってことわかってんの?」
「王宮は窮屈すぎる。明日は一日中王様のパレードにつきあうんだ。今晩くらい抜け出してきたってバチは当たらないだろ?」
二人の間の親密な空気に、別のざわめきが起こる。バジルはロアの隣で大人しくしているが、明らかに店の雰囲気を毛嫌いしている様子がうかがえた。
「俺だって不本意だよ。世界中を旅したいってだけなのに、行く先々でこれじゃあ旅人としての自由がない」
「贅沢な悩みねぇ」
「知り合いなのか、ベネット?」
周りの常連客が前のめりになって訊いた。
「まぁ……昔ね、一緒に冒険してたことがあるの。学生の頃は、ロアもこの店に通ってたのよ?」
「ベネットって、ただのウェイトレスじゃなかったのか……」
「私のジョブ、格闘家なんだけど。みんな知らなかったでしょ?」
うぇ……と数人の酔っ払いが唸る。スカートの中を覗こうとしたことでもあるのかもしれない。
ベネットがロアたちの注文をとった後、店内は一層の盛り上がりを見せた。
「あぁ、懐かしいな……」
テーブルに並んだ大盛りのピラフとサラダ、コンソメスープを、ロアは少年のような表情で眺めていた。
「勇者の食事にしては質素すぎるわね」
「いいんだよ。子供の頃から、マスターのこのメニューが大好きなんだ」
ロアとベネットの視線が絡む。
そこには、幼馴染みとしての友好以上のものがあるように思えた。
「どうかな、ベネット。また一緒に冒険の旅に出るっていうのは?」
「女ったらしの相手ができるほど、もう若くないの。街に着いたらまず女の子をナンパしに行くリーダーを、いちいち蹴り上げるのも体力がいるんだから」
「ナンパ……」
バジルが眉根を寄せて、ロアは苦笑した。
「若気の至りってやつだよ」
「それに、あなたが口説きたいのはあたしじゃないでしょ?」
「……フラれたよ」
「ガンコすぎるのよ、あなたたち」
「いいんだ、少し話ができただけで。それだけで、意味はあった。帰ってきてよかったよ」
「寂しくはない?」
「今は弟子がいるからな」
ロアに肩を叩かれて、バジルは背筋をピンと伸ばした。
「まだ青臭いところがあるけど、剣の腕はいい」
「からかわないでください。私の剣技など、ロア様の足元にもおよびません」
「な、謙虚だろ? 真面目すぎるから、時々こういうところに連れ出して世の中ってやつを教えてやってるってわけさ」
「ですが、今回はやりすぎです。だから私が剣闘の試合になど出ることになる」
ロアがバジルの口に樽のジョッキを押し当てたところで隣の席から酔っ払いが乱入し、ロアとベネットの同窓会はお開きになった。
店の小さなステージで有志の客たちによる演奏が始まった。
「奴隷ごときと剣を交えるなど……」
ロアが望郷の念で聴き入る横で、バジルがそうもらしたのを、僕は聞き逃さなかった。
勇者ロアが一度目の冒険譚を紡いだのは十数年前のことだ。
ベネットを含む若き冒険者たちのパーティーは、砂漠国家テューダンへ立ち寄り、数ヶ月を過ごした記録が確かにある。
その後、帰国したパーティーはこのロングムーンを襲撃したダークドラゴンを撃退。その功績が讃えられ、ロアは勇者の称号を得た。
「かつて、勇者ロアはダークドラゴンからこの地を救った。見よ! その英雄が十年の時を経て、帝国レェン・レーンで幻獣ベヒモスを退治し、今再びこの地へ帰還したのだ! 私は彼に惜しみない賛辞を送りたい!」
王宮のバルコニー。
王の賛辞を受けたロアが恭しく頭を下げると、王宮広場の民衆から一斉に喝采が沸き起こった。
千年前、大賢者アッタレスが光のカーテンの向こうに魔族を分断して以来、人類の文明は目覚ましい発展を遂げた。
誰もが富と名声を求め、栄華の頂点を目指す。
だが光が強ければ強いほど、その影もまた濃く深くなるものだ。魔族戦争の頃には人間と共闘していたというエルフやホビットたち異種族は身を潜め、今では生活圏すら人類の文明の隅へと追いやられている。
そして、人間同士もまた、身分や階級の呪縛から抜け出すことができずにいた。
勇者ロアのパーティーには、本当はもう一人、奴隷出身の剣士がいたのではないか。
公式の記録には残っていない。国を救った英雄に、国家間の軋轢があるテューダンの奴隷が混ざっていることを、この国は許さなかった。
ロアがベヒモスを単身で仕留めたのは事実だ。ロアの剣の実力は疑いようがない。だが、その鬼神のような強さを、果たして彼は若い頃から持ち合わせていただろうか。
王宮広場から離れた僕は、街の外れへと向かっていた。
王都から外れるにつれ、人々の喧騒は遠のき、街並みもまた質素なものになっていく。都市を西へ抜けると、そこには湖畔が広がっていた。
ロングムーンは、この巨大な湖を包むように三日月型に建設された国家だ。名前もその形に由来している。
サバンは、湖が見渡せる寂れたベンチに腰掛けていた。
「海だと思ってたんだよ、この湖のこと」
隣に腰をおろす。
僕が顔を覗き込んでも、サバンは湖を見つめたままだった。
「テューダンでは、飢えと乾きが酷くてな。暑さはなけなしの食いもんすら腐らせたし、ドブ水さえ蒸発させた。斬られるのは平気だったが、空腹と喉の乾きは耐えられなかった。
外の世界には、水で溢れてる場所があると聞いた。自由の身になった時、俺はその場所に行ってみたいと思ったんだ」
「その時、ロアさんやベネットさんのパーティーと出会ったんですね?」
「気のいい連中でな。誰も俺のことを罵らなかったし、唾を吐きかけたりもしなかった。そういう人間もいるってことを初めて知った」
サバンの眼差しは遥か遠くを見ていた。
その先にあるのは、きっと、在りし日の冒険の、忘れえぬ日々。
「ロアの野郎がな、この湖が海だって言うから、俺はずっとそう信じてたんだぜ」
「本物の海は見れましたか?」
サバンは首を小さく横に振った。
「黒竜を倒したのは、本当はあなたなんでしょう?」
サバンは初めて僕の顔を見た。
「さすがは記者さんだ。若ぇのによく調べてやがる」
先に言っとくが——とサバンは続けた。
「つまんねぇゴシップ記事でロアの名前を出すつもりなら、この場で斬り刻む」
ビリ……! と、サバンが放った圧力に空気が波打った。
「記事にするつもりはありません。僕はただ、知りたいだけです」
湖のほとりで、三羽の鳥が戯れていた。そのうちの一羽が、水面に波紋を残して飛び立っていく。
まっすぐ目を逸らさない僕に、サバンは「ふん」と鼻を鳴らした。
「あの黒竜はバケモンだった。仲間も一人殺された。俺はただ、とどめを刺しただけだ。未熟者の剣だ、ロアだったら、足に致命傷を負うことはなかった」
「右膝を壊したのは、ロアさんとベネットさんの二人を庇ったからでは?」
「テューダンで俺の何を聞いたのか知らねぇが、買い被りすぎだ。まぁ、ちょうどよかったんだよ。俺には学もねぇし、字も読めなけりゃ書くこともできねぇ。ガキの頃より遥かにマシなんだぜ。ここじゃあ試合に出れば最低限の金はもらえるんだ。ピンハネされることもねぇ。当たりどころさえ気をつけりゃ、死にゃあしねぇしな」
サバンは大きく伸びをして立ち上がった。
「近くで見てくれんだろ? 記事にするならよ、俺の負けっぷりを派手に書いてくれよ。ロアの凱旋の話と並べりゃいい。その方が面白いぜ」
違う。
僕が書きたいのはそんなことじゃない。
僕が書きたいのは、あんたの瞳の奥に確かに宿る、不屈の信念についてなんだ。
「あとよ」
と、サバンは付け加えた。
「俺は一回だけ、ちゃんとこっちでも勝ったことがあるんだぜ」
地下控室から地上へ出た瞬間、観客の熱狂がサバンの体を叩いた。
「なんだい、こりゃあ?」
大して広くもない円形闘技場は、物見遊山な観客で埋め尽くされていた。昨日見学した時の試合では、客席は半分も埋まっていなかった。
「相手は勇者ロアの一番弟子ですからね」
階段脇の席に移動しながら、僕は言った。
対面の階段からバジルが入場してくると、歓声は一際大きくなった。
バジルの傍にロアはいない。当然だ、彼は王に付き添ってパレードの真っ最中だ。
「勝ってよ、サバンさん」
「さぁ、どうかな……」
空は群青色に晴れ渡っていた。
サバンとバジルが同時に中央へ歩み出る。サバンの歩き方には、右足を庇うような動きが見られた。
二人の装備はロングソードと銅の胸当て、それに左手の小手に備えつけられた手の平大のスモールシールドだけという簡素なものだった。
剣闘の試合には、ヘルメット付きの重装備で斬り合うなど様々なスタイルがある。今回のような軽装備での斬り合いでは、剣のエッジを刃こぼれさせて殺傷能力を抑えてある代わりに、肉体へのダメージがわかりやすいという特徴があった。
どのみち甲冑に叩きつけることを前提に作られている武器だ。急所へのダメージが深ければ、当然のように死人が出る。
「よう、おぼっちゃん。こんな掃き溜めになんの用だい? 田舎に女でも買いに来たのか?」
「おぼっちゃん……」
サバンがヘラヘラと笑って、バジルの額に青筋が走った。
「なぜ貴様のような奴とロア様が知り合いなのか理解できん。あまつさえ試合などと……。貴様の相手など私で充分だ」
「ロア様ぁ〜、だってよ。へへ」
簡素なバイタルチェックをするだけの審判が離れた直後——バジルが放った憤怒の一撃が開始の合図になった。
「……!」
バジルが両目を見開いた。左手で剣を構えたサバンが、バジルの打ち下ろしを防いだからだ。
「どしたい、おぼっちゃん?」
「はあァァッ!」
鈍く重たい炸裂音が響く。
二人は激しく斬り結んだが、右足の踏ん張りが効かないサバンの方が明らかに分が悪い。かち上げでがら空きになったサバンの胴に、バジルは高速の突きを刺し込んだ。
「おぅ……!」
後方へ弾け飛んだサバンは、観客席との境にある壁に激突した。土煙にあわせて、観客の熱気が一気に上昇する。
サバンはバックステップで突きの威力を殺していた。そのことに気づいた観客はどれくらいいるだろう。
「終わりだ!」
よろよろと体勢を整えるサバンに向かって、バジルがダッシュする。激しい斬撃のラッシュを、しかしサバンはのらりくらりと受け流した。
「おぉ……怖い怖い」
「く……!」
横殴りの一閃で、今度は真横にサバンの体が吹き飛んだ。
「いい腕だ。効くぜ……まったく」
言いながら、サバンは追撃するバジルの攻撃をさばき、あるいはいなした。時折間隙をついたサバンの一撃が入るが、充分な手傷を負わせるには全く威力が足りなかった。そして、それがさらにバジルを苛立たせた。
「貴様ぁッ!」
弾け飛ぶサバンを、またバジルが迫撃する。
場内はバジルコールで溢れた。
あらゆる負の感情がサバンに向かっていた。誰もサバンの勝利を期待していなかった。賭けも二人の勝敗ではなく、「サバンが何分もつか」が対象となっていた。
自分よりも弱い者が痛めつけられるのは、気分がいい。そう感じる人間は多い。
「ふッ!」
「がは……! ふ、はは……まぁそう焦んなよ」
いくらかのダメージを受けながらも、サバンは致命傷を回避し続けた。
やがて、決闘は気怠い攻防に陥った。
サバンの剣がまれにクリーンヒットするが、やはり深刻な傷を刻み込めない。明らかに攻勢はバジルの方でありながら、彼もまたふらふらと揺れるサバンに有効打を打ち込めないのだった。
激しい斬り合いを演じながら、サバンの右膝は小刻みに笑い始めていた。
「はぁ……はぁ……!」
「お前、ひょっとして童貞か? 人を殺したことがねぇだろう? もっと急所を狙えよ」
「ッ!」
激昂したバジルの表情が憤怒に染まる。力任せの薙ぎ払いにあわせて、サバンが動いた。
サバンの上半身が美しい弧を描く。バジルの斬撃の威力を利用して半時計回りに鋭く回転したサバンは、捻転をたっぷり効かせたカウンターをバジルの首筋に打ち込んだ。
咄嗟に左腕のシールドで直撃を防いだバジルは一流の剣士と言えた。それでも、剣の威力は殺しきれない。
「がは……ッ!」
初めてバジルの長身が砂埃を上げて無様に転がった。
「こ、の……!」
「はぁ……はぁ……へへ、効いたろ?」
互いに息が上がっている。
飛び起きたバジルが再びソードラッシュを仕掛けた。
サバンの右脚がガクガクと震え始める。
「……!」
体勢を崩したサバン目掛けて、バジルが剣を引き絞る。
その時。
サバンはロングソードの持ち手を左から右へスイッチした。サバンの体が沈み込み、バジルの喉元からゾワリと恐怖が迫り上がったのが見えた。
刹那——。
稲妻のような三段突きが、雷光となってバジルの胸部を貫いた。叩き込まれた剣閃はバジルの体をくの字に屈服させ、バジルの悲鳴を置き去りにして彼の肉体を闘技場の端まで吹き飛ばした。
——右膝さえ健在だったなら、そうなっていたはずだった。
実際には、吹き飛んだのはサバンの方だった。受け身も取れずに壁に衝突すると、なす術もなく前方に倒れ込む。
「げは……」
右膝を抱えたまま、サバンは起き上がることができなかった。
「はぁ……はぁ……」
「……まいった。俺の負けだ」
それは奇妙な光景だった。
地鳴りのような歓声を浴びながら、バジルは呆然と力なく佇んでいた。青白い表情から、バジルが戦意を喪失していることは明らかだった。
その時、バジルの銅の胸当てに三箇所亀裂が走り、砕け散った。
彼は一度、確かに死んだのだ。
審判に促され、バジルがおぼつかない足取りで退場していく。サバンは右脚を引き摺りながら僕の方へ歩いてきたが、顔には諦めの悪い笑みが張りついていた。あれだけ打ち込まれながら、肉体への大きいダメージは見受けられない。
「期待に応えられなくてすまねぇ」
「そんなことはありません。充分です」
「へへ……やっぱ気張るもんじゃねぇな。カッコわりぃや……」
何者でもない。
何者にもなれない僕らにも、小さな冒険譚がある。
勝者が敗者を見下ろしながら、追い詰められている。
僕が調べた限り、サバン・サーバインに圧倒的勝利を収めた者は存在しない。
サバンの奇妙なキャリアは、鼻っ柱が強い冒険者を惹きつけ、あるいは中央国家の軍隊長が有望な新人をしばしば彼の元へよこして挑戦させた。
サバンに勝利した誰もが疲弊し、向こう数週間は戦うことを拒否する。だが彼と試合をした者は、その後の冒険や公務で命を落とす確率が低いというデータがある。
そして腰抜けと蔑まれた敗者は、何食わぬ顔でまた闘技場に立ち、敗れ続けるのである。
◯
湖畔のベンチでフェニックス亭の特製サンドウィッチを頬張りながら、サバンは子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。
「うめぇ」
「うめぇ……じゃないわよ、バカ!」
隣に腰掛けていたベネットがサバンの頭をはたく。「パカン」という小気味良い音が昼食時の湖に響いた。
「いいじゃねぇかよ。これだけを楽しみにがんばってんだぜ、俺ぁ」
「いい加減店で食べていきなさいよね。いちいちテイクアウト用のランチボックス作るこっちの身にもなれってぇーのよ」
「俺のせいで店の評判落としたくねぇ」
「うちの店であんたのこと『腰抜け』って言った奴は全員ぶっ飛ばしてるから、安心しなさい」
「それでよくクビにならねぇな……」
サバンは続けて何かを言おうとしたが、ごにょごにょと口籠った。
妙な間が空く。
「……オーべルージュって国、知ってっか?」
「南の方の自由都市だね。行ったことはないけど」
「貿易が盛んなんだってな。いろんな人種や種族がいるから、奴隷出身者にも寛大らしい」
「うん」
「そこの騎士団が剣術指南役を探してるらしくてよ、ロアの野郎が推薦状を書いてよこしやがった。歳とって体がイカれちまう前に行けってよ。あの野郎、わざわざそれを言うために帰ってきやがったんだ」
「それで?」
「う……」とサバンが言葉に詰まる。
「で、まぁ、なんだ……海が、な……。見えるらしいんだよ」
「だから?」
「だから、だな……。俺と、一緒に、そのぉ……来てくれねぇかっ、て……」
湖岸で寄り添っていた二匹の渡り鳥が飛び去っていく。
ベネットは小さく頷いてから、サバンの腕に頭を預けた。
そのベネットの肩を、サバンは恐る恐る抱き寄せた。
——俺は一回だけ、ちゃんとこっちでも勝ったことがあるんだぜ。
僕はサバンの言葉を思い出していた。
声をかけるタイミングを失って、僕は踵を返した。
生きる意味の先に女が絡むのは、興醒めするだろうか?
僕はそうは思わない。
だって、彼は英雄ではないのだから。
名無しの英雄譚 楠アキ @aki_himawari
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