短編集

柴又又

第1話 野生のサキュバス。

 「なぁ? 絶対アイツ、お前でシコッてるって」

「なにそれ」

「きゃはははっ‼ シコッてるとかマジやばいんですけど‼」

 宝田ノアはクラスでヒエラルキーの高いギャルの一人だ。金色が混じる黒髪。着飾られた顔。灼けた肌。

 宝石のような。そんな表情から流れる顎のラインと。滴るように膨らんで。妬けるように細まって。滑らかなラインを描いて。足音をさせる。


 そしてそんなギャルと男子の一団に笑われているのが――。

「えーそうなん?」

 少しだけ視線を。彼ら彼女らを捉えて。また元に戻す。

 意味を知っているのに理解するほど頭の回らない文字列が流れる。余韻として残る飲みかけのいちごミルク。歩くさま。傍に来る気配。

 机にかかる重みと、柔らかく歪むスカート。机をプリーツが流れる。

「ねぇ? あたしでシコってんの?」

 彼女を見上げて。

 返答に困る。スカートが揺れて。本で隠れた先に――足を広げて。ピンクの――指でちょっとだけ摘まんで。皺と。視線が――その顔を眺められていて。違うのと。

「どう? ……これで今日はいっぱいシコれそう?」

 頬が痛いくらい感電しているのかってぐらいビリビリとして。

 ガタンと音がして――クラスが刹那静寂に包まれる。ぼくを煽った人が勢いよく立ち上がったせいで倒れた椅子の音。

「ふふふっ」

 視線を向けたぼくの頬を撫でる指に視線を矯正される。その瞳はキラキラしていて宝石みたい――。

「ぎゃははっ‼ あんたヤバすぎ‼ さすがB型獅子座の女‼ 宝田ノア‼」

「それ関係ないっしょっ」

「お前からかいすぎだって」

「ぷくくっ。よかったねーオタク君。ノアのパンツ見れて」

「あいつ今から絶対トイレ行くって」

「ねー? ちゃんと夜まで我慢しなー?」

 ――嫌って言えない。

「弱男かわいそー」


 気を使って言えば物静かで真面目なタイプ。きつく言えば根暗のチビ。それがぼくだ。周りより一回り小さい身長がコンプレックス。付き合うとしてもアレだけはないって――あれよりはマシって誰かの声を聴く。


 身長ってさ。ぼくが決めたものじゃないよ。ぼくだって高い身長が良かったよ。でもぼくの身長は低い。それは運命で決められた理不尽で。ぼくにはどうにもできない事だ。それでも親から貰った大切な体で馬鹿にされればムッともなる。でも言い返しても……そこから膨らむ厄介事と面倒事に口を噤んでしまう。

 ぼくの気持ちなんて。誰も考えてはくれない。でも多分そんなに関係なのもわかるのだ。身長が低くても女の子にモテる男はモテるもの。


 イケメングループになんて所属できない。イケメンじゃないから。オタクと言うほどオタクにもなれない。フィギアとか良く分からない。だから休み時間には本を読むしかない。どちらの話にもついていけない。一人で本を読むしかない。運動は得意。声変わりしたのにパートはソプラノ。小学生の時、発表会でソロで歌わされたのは未だにトラウマ。みんな不満だった。クラスで一番可愛い女の子を差し置いて、なぜぼくがソロパートを歌っているのかと責められた。そんなの先生に言ってよ。

 本を読むのはそれほど得意じゃないんだ。本当は……。


 下半身は冷えているのに心臓ばかりが鼓動を強めて困る。息をするのが深くなってしまう。さっき見た映像――顔を洗いたい。これでも男だよ。

「おいおいあいつトイレいくぞ」

「きゃははっ‼ マジ⁉ ごゆっくりー‼」

 トイレには行かないよ。手洗い場で顔を洗いたいだけ。顔は焼けるほど熱くてピリピリするのに下半身は縮こまってしまっている。ていうか学校で処理する人なんていないでしょ。


 「ごめんねー?」

 声をかけられて驚く。

「あっいえっ」

「どーん」

 体をぶつけられて驚く。宝田さん。こんなぼくにも声をかけてくれる。素敵な人。

「だいじょぶそ?」

「はい……大丈夫っです」

 声が上ずってしまって困る。

「嫌だった?」

 そう問われて答えられない。からかわれるのは嫌だけれど、ノアさんと関われるのは……。

「それは……別に」

「そう? 喉。乾いてる? じゃあ。はい。これあげる」

「えっ……いや」

「飲みかけだけど全部飲んでいいよ。お詫び」

 いちごミルク――。彼女の後姿。蹲ってしまいたくなる。

「どうだった? あいつ。しこってた?」

「もーやめなー」

「さすがはB型獅子座一人ッ子の女、宝田ノア」

「だからそれ関係ないっしょ。O型うお座8人兄持ちのマナちゃん」

「やーん」

「そして処女」

「ちょっと‼ 処女のわけないっしょ‼ A型蟹座弟持ちの女アンリ‼」

「A型蟹座のいい女アンリでーす」

「お前って処女なん?」

「マジやめろし‼ んなわけねーだろ‼ 殺すぞ童貞高橋‼」

「童貞じゃねーし」

 深く息が漏れてしまう。困る。


 「おっ。みっけ」

 朝。彼女の声をすぐに判別出来てしまう自分が嫌。声をかけられたわけでもないのに視線を向けようとするのが嫌。

「おーい。無視すんなよー」

 衝撃と手の形。爪のアート。瞳孔が開くのを感じる。誰かと間違えている。

「朝ってほんとだるいよねー。なんでこんなにだるいんだろ。うーん?」

 止まってしまう自分が困る。嬉しいと弾んでいるのが困る。勘違いだって。誰かと間違えている。

「おーい……聞こえてるかー? ン⁉ ちょっと‼ 君‼ ちょっとこっち来なさい‼」

 日陰の段差。座らされる。目の前にいるのは確かに宝田さんで。間違えている。誰かと。

「あの……」

「君さー。耳の裏ちゃんと洗ってないっしょ? 無精ひげも生えてるし。ちょっち動くなし」

 鞄の中から取り出されたのはウェットティッシュとカミソリ。ふんわり漂う香り。彼女の香り。転がるリップ。捕まえ。差し出す。

「あらっ。ありがとっ。ほらっ」

 ひんやりとして。何か、何も、成すがまま。何もできない。気持ちいい。耳の裏を拭われている。彼女の視線がぼくを流れている。たわむ髪。微笑む口元。何か楽しいもの見つけたって顔をしている。右から左。

「……ごめん」

「いいよ」

 耳の傍に寄せられた鼻先にクラクラと意識を失いそうになる。左から右。

「んー。いいにおい。そのまま動かないでね」

 ショリショリ音がするけれど、正確には微動だにすらできなかった。押さえられた顎。沈む指の圧。なすがまま。横断歩道。空。音が聞こえなくなるぐらい。聞こえているのに。流れる彼女の残滓。周りの人達。みんな気にしない。まるで日常の一コマみたいに。通り過ぎてゆく。時間が。

「おっけー。……ん? だいじょぶ?」

 返事。を。

「……あっ……そのっ。だいじょぶ。です」

「唇乾燥してるねー? リップ塗ってあげる」

「えっ。いやっ。あの……」

「はーい。ぬりぬりね。んっいい感じ。ついでにあたしもぬっとこ。ん? どう? このリップ。結構いいっしょー。ミント味。ふふふっ。ほらっ学校行こうよ」

「……あのっ。ありがとう」

「このリップしてキスしたら、ファーストキスはミント味になっちゃうね? ふふふっ」

 差し向けられた手に顔を背けてしまう。この手を取ったら、後戻りできない気がして。それは良くなくて。それは良くないよ。取り返しがつかない。その手をとったら、……。嫌だ。そう思うのに。彼女は平然と。ぼくの腕を掴んで立ち上がらせる。ぼく。やめて。向けてはいけない感情が生まれて湧き上がって。ぐにゅぐにゅと。必死に抑え込んで。そんなぼくなどお構いなしに。彼女には関係ない感情。ダメ。絶対にダメ。苦しくて深い息が漏れるのに。彼女はぼくをひっぱって歩いてくれた。


 「やっぱさ。こういうのってお金かかるよねー」

 どうして彼女がぼくに話しかけているのか理解できない。

「そうだ。君もバイトしようよ。バイト。にひひっ。ね? 私がバイトしているとこ、紹介してあげるから。ほらっあっ。スマホっ。連絡先教えてよ」

 なんでこうなったのか。ぼくにもわからない。

 気が付いたら彼女とバイトしていた。

「ねぇ? 今度さ。どっか行こうよ」

「……え? でも……」

「いいお店教えてあげる」

「あのっ」

「じゃあ、次の休みね。夜連絡するから。先に寝ちゃダメだよ。あっオカズいる?」

「……大丈夫」

「遠慮すんなし。胸元でいい?」

「大丈夫です‼」

「パンツがいいの?」

「そうじゃなくて‼ その……自分を……大切にして欲しいっていうか」

 かっこつけているけれど本当は物凄く欲しい。彼女の写真が欲しい。彼女のエッチな写真はもっと欲しい。

 好き。そういうのじゃなくて。ダメだってば。好きって。ダメ。思われたい。ダメだってば。その感情を彼女に向けてはダメだ。彼女に。やめて。その感情を。嫌だ。向けられたい。背けたい。嫌だ。

「にひひっ」

 彼女の手に頬を包まれて。もう。何も。言えない。心臓の鼓動だけが聞こえて。何も言えない。指の形。彼女の手って。どうしてこんなにも。

「すべすべ柔らかだね。ふふふっ。じゃあ、夜また連絡するね。ちゃんと返事してよー? それとも……通話しながらシコシコしちゃうのかなー?」

「うー……」

「顔真っ赤だね。ふふふっ」

 温もりの跡。何時も深い息が漏れる。通話が始まるまで心臓が痛くて。焦って。嫌われたくなくて。好かれたくて言葉を考えている。苦しくて苦しくて何も手に付かないのに。都合のいい妄想ばかり。着信音を待ち望んで。何度もスマホを眺めて。

 音に飛び上がりタップする前に気を失いそう。

 一つ一つの言葉に深く呼吸をしてしまう。焦っているのに緊張しているのに。もっと話をしたいのに。ぼくからは全然話がふれない。

 そのままおやすみだって――見える天井と耳元に置いたスマホ。彼女の息遣い。眠れない……。それなのにこのままがいいだなんて。心臓の音が痛いぐらい聞こえる。


 「これとこれとこれ。あとこれも必要だよねー。うーん。ね? こっちとこっち。どっちがいい?」

「どっちでも……」

「じゃあこっちね。見て‼ 五年間使えるカミソリだって⁉ すごくない⁉」

 彼女の選んでくれた美容グッズを眺める。それでも彼女の荷物よりはだいぶ少ない。レジで二倍驚く。彼女が彼女を維持するのに必要な金額はぼくがぼくを維持するための値段よりも桁が一つ異なる。

「はー買った買った。お買い物。楽しかったね。見て見て新しいパンツ」

「……ありがとう」

「え? まだ履いて無いけどオカズになるの?」

「……違うよ。買い物の方……。選らんでくれて……」

 こんなやり取りすらも。

「あははははっ。いいよー。あっ剃り残し発見。早速使い方レクチャーしてあげるからベンチ行こ」

 手を引かれて困る。

 彼女のなすがまま。だって嫌じゃないんだもの。また無精ひげを処理されている。

「おっけー。んっ。綺麗になったね。偉い偉い。いーい? 清潔感っていうのは作るものなのよ? 私も大変なのよー。朝は早起きだしねー」

「そうなの?」

「ほら。見て。ちゃんと綺麗にしているでしょう? ニオイはどう? いいニオイでしょ? でもこれ体臭じゃないからね」

「そうなんだ」

「やっぱ好きな人には綺麗って思われたいからねー」

 頭を撫でられて困る。犬みたい。そしてそれが嫌じゃないのがとても嫌。

「あれれ? 綺麗って言ってくれないの?」

「……宝田さんは何時も綺麗だよ」

「ノアでいいよっ。ふふふっ。まだ時間あるね。何処行きたい?」

 頭は真っ白になる。そんなの何処でもいい。このまま一緒にいられれば……。

「……映画。とか?」

「映画かー。映画ねー」

 指でクルクルと髪を巻く仕草。少しの憂いと。

「水族館行こうよ。水族館。ね? いいでしょ? 水族館。ふふふっ」


 「ねぇ? ほらっ見て。カサゴだって。綺麗」

 綺麗だけどカサゴには毒がある。

「タカアシガニ君。よちよちしてるー可愛い。ねー見て? 説明のとこ。クモガニ科なんだって。クモなんだってー」

「クモ平気なの?」

「全然ダメっ。でもカニは美味しそうだよね。ふふふっ。食べられるのかなー。あっ見て‼ アシカショーだって。もう少しで始まるね。見て行こうよー」

「うん」

「始まるまでもう少し時間あるね。待つのって得意?」

 本があれば。でも今は……。

「あんまり」

「ふふふっじゃあ……」

 腕。彼女の体温を。背中に感じていた。何よりも――。

「あのっ……」

「こうすれば、退屈じゃないよね?」

「当たって……」

「柔らかいの。好きでしょ?」

 目の前の水槽を泳ぐ魚よりも。

「ドキドキしてる。待ち時間も楽しいね?」

 揺らめく水のたわめきよりも。

「水族館てさ。何度か来た事あるんだよね」

「……そうなの?」

「うん。デートで」

 目を背けてしまう。それはそうだ。彼女は暗闇の中でも輪郭を保ち、僅かな光に照らされても。

「そう……なんだ」

「初めてのデートも水族館だったなー。中学生の時だけど。大学生に誘われてね」

 なんて言葉を発したらいいのかよくわからなかった。

「あの時とは全然違うなー」

「……そう?」

「うん。なに? その顔。あっ気にしちゃった? ふふふっ」

「……そんなんじゃないよ」

「でも私、彼氏って出来たことないんだよねー」

 意地悪するみたいに。流れる視線。気にしないようにって思うのに。きっとぼくはとても喜んだ表情をしていた。それを見られたと思い。口元を手で隠して視線を逸らしている。

「ふふふっ」

 頬が触れそうになるほどに近くて。それを許容してしまう自分がいる。

「……まだ。処女だよ」

 その声に悶えそうになってしまう。

「ふふふっ。嬉しい?」

 おかしくなってしまいそう。

「何か、言う事あるんじゃない?」

「それは……」

「ほらっ。どうなんよ? ほらっ。聞いたげるからさー」

 ダメ。言っちゃダメ。ダメ。ダメ。言ったら終わってしまう。終わってしまうのに。今すぐにでも吐露したくて。

「すっ……」

「す? なぁに? すー?」

「すっ……すき」

「好きなんだ。ふふふっ。ほらっ。何が好きなの? 言ってみ? おっぱい? パンツ? それとも?」

「ノアさんが……好ぎ。れす。です」

「ふふふっ。よく言えました」

「ごめん……好きッ」

「どうして謝るの?」

「だって……」

「好きなんでしょ?」

「好き……」

「うんうん」

「ごめんなさい」

「好きなんだ。私の事好きなんだ」

「ごめんなさい」

「いいよ。おいで。ほらっ」

 広げられた手の平の中。抗えない。例え騙されていたとしても許してしまうだろう。それでも構わないと。服の皺。もう。無理。もう無理。彼女のニオイ。ここから離れたくない。

「いい子だね」

「好きッ。好きッ。好きッ」

 その両手に指を重ねて頬に当ててしまう。

「君が好き」

 近づいてくる彼女の表情と、ペロリと唇を。舐められて。痺れて動けない。そのひとなめで。嫌なのにどうしようもなく。ペタリと腰が抜けて――。脇を抱えられて。

「あっ」

 腕の中。

「当たってる。ふふふっ。大きくなっちゃったね」

「ごっごめんなさい」

「いいよー」

 朧気で朦朧とした意識。掴んだ彼女の手。

「……好き」

 それだけを。脳が焼けるような感覚に支配されている。

「ふふふっ。顔。すっごい熱いね」

 彼女の手が。ひんやりとしていて熱が奪われていく。

 ぼくの人生には特別な物がない。きっとそう。メダルも。賞も。一番て証も。多分何もない。普通に生きて。特別なんて何もない。

 ……欲しい。

 他には何もいらないから。

 もしこの世界で一つだけ手に入るものがあるとしたら――。

「あのっ。そんなに。したら……」

 他は何もいらないから。

「えー? なぁに? 擦れて気持ちいいね?」

「あのっあのっ。ダメッ」

「あー……すごいビクビクしてるー。ふふふっ。オカズになっちゃったー」

 彼女が欲しい。

「……ううううここすいぞくかんん」

「男の子って。こんな感じなんだね。ふふふっ。可愛い顔」

 情けなくても男らしくなくても弱男でもいい。でも彼女からだけは離れたくなかった。


 結局お掃除でアシカショーは見られなかった。でも大水槽の前で横には彼女がいて。手を繋いで。ずっと揺らめく魚を見ていた。

 そっと触れられて。

 首を傾けた表情と波模様。ピンクのリップ――ミントの味がした。

「チューしちゃったね」

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短編集 柴又又 @Neco8924Tyjhg

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