第2話 湖の風に焼き餅の香り ― 近江・草津宿にて
京を抜け、東海道を東へ。
近江路に入ると、琵琶湖から吹く風が、旅の汗をそっと冷ましていった。
草津宿の手前に、小さな茶屋があった。
軒先の行灯が、湖面の光を受けて揺れている。
甚八は暖簾をくぐり、軽く頭を下げた。
「ご免くださりやす」
奥から、年配の女将が顔を出した。
「旅の方かい。焼き餅と番茶くらいしかないよ」
「それで十分でござんす」
甚八は腰を下ろし、湯呑を両手で受け取った。
香ばしい番茶の匂いが、焼き餅の醤油と混じってふわりと立つ。
餅をひと口かじり、追っかけて番茶をすすぐ。
旅の腹には、それで十分だった。
女将は、甚八の食べ方をじっと見ていた。
「……あんた、無宿の渡世にしちゃ、ずいぶんと品があるねぇ
名はなんてんだい?」
甚八は年の割に幼く見える顔に柔らかな笑みを浮かべた。
「甚八と申しやす 行儀だけは、昔お世話になった親分衆に叩き込まれやしてね」
女将はふっと笑い、焼き餅を返しながら言った。
「この辺りは草津の弥兵衛親分が見てくれてるんだけどねぇ。
あの人は筋の通ったいい親分なんだけどさ、
下の若いのが、どうにも行儀が悪くてね。
あんたも気をつけな」
甚八は番茶をすすりながら、
その名にわずかに目を細めた。
だが何も言わず、静かに耳を傾けていた。
そのとき、茶屋の外から怒鳴り声がした。
「払えねぇなら荷を置いてけって言ってんだ!」
女将が眉をひそめた。
「……ほら、あれだよ。
こんな街道外れじゃ、弥兵衛親分の目が届かないのをいいことに、
また勝手なことしてるんだ」
甚八は湯呑を置き、静かに立ち上がった。
「ちょいと見てきやす」
街道の脇で、商人が三人の若い衆に囲まれていた。
甚八は静かに歩み寄った。
「お侍さんでもねぇのに、通行料とは妙な話でござんすな。
……あんたら、弥兵衛親分のところの若い衆で?」
商人を囲んでいた連中が、甚八の腰の物に目をやり一瞬たじろぐ。
「な、なんだてめぇ……」
甚八は長脇差に手をかけていない。
ただ、目だけが鋭く光った。
「親分さんは、こんな下種な真似をするお方じゃござんせんよ。
もし“親分の指示”ってぇなら、俺が直接伺いやすが……
どうなんで?」
途端に男たちの顔色が変わった。
「ち、違ぇよ! 親分は関係ねぇ!
お、俺らが勝手に……」
「なら、話は早ぇ」
甚八が一歩踏み出すと、若い衆は膝を震わせた。
「ひ、引き上げるぞ……!」
三人は逃げるように去っていった。
商人は深く頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございます……!」
甚八は軽く手を振った。
「礼は無用でござんす。
旅の道は、お互いさまで」
茶屋へ戻ると、女将が湯を差し出した。
「……あんた、親分の顔を立ててくれたねぇ。
ありがとさん」
甚八は湯呑を受け取り、軽く頭を下げた。
「焼き餅、美味しゅうござんした」
代金を置き、草鞋を履き直す。
湖の風が、旅の汗をまたひとつ冷ましていった。
暖簾が揺れ、甚八の背が見えなくなった頃。
女将は湯呑を片づけながら、ふと呟いた。
「甚八……あぁ、鬼狩りの噂の……
与太話だと思ってたけど、ありゃ、本物かもねぇ」
女将はひとつ笑い、暖簾を直した。
湖の風が、茶屋の中までそっと吹き込んだ。
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