渡世人 甚八

@KTR0801

第1話 草鞋を脱ぐ夜 ― 摂津の貸元にて

摂津の外れ。

川沿いに建つ貸元の家は、夜風に揺れる暖簾だけが灯りを受けていた。


暖簾の前に立つ男は、柔らかな顔立ちのわりに、目の奥だけが旅の風で鋭く研がれている。年の頃は二十代の終わりか。


男は、肩・袖・裾と順に旅の埃を払い、草鞋の泥を土間に落とさぬよう爪先で軽くこすり落とした。


それから静かに暖簾をくぐり、土間に片膝をついて穏やかだがよく通る声で名乗る。


「旅の渡世、甚八と申します

 一夜、草鞋を脱がせていただきとう存じます」


その名が落ちた瞬間、背の高い若い衆が、値踏みするように見ていた目を見開き、思わず呟いた。


「……鬼狩り……? 本物……か……?」


そばに控えていた気の弱そうな若い衆は、おびえたように肩を震わせている。


奥で火鉢の灰を突いていた親分が、その手を止め、ほんのわずかに目を開いた。


「……ほう」


驚きはしない。だが、その名の重さを知らぬわけでもない。その一言に、長年この界隈を仕切ってきた者の重みが滲んだ。


「上がれ」


許しを得て、甚八は腰の物にそっと手を添えた。

長脇差を静かに抜き、鞘ごと両手で差し出す。


「お預かり願いやす」


気の弱そうな若い衆が慌てて受け取り、

玄関脇の棚へそっと置いてから、再び甚八の前へ控えた。


甚八は草鞋の紐をほどき、丁寧に揃えて土間の端へ置いた。


若い衆はまだこわばった表情のまま、両手で手拭いを差し出す。

甚八は深く礼をし、足の泥をしっかりと拭った。


拭き終えると、手拭いを四つ折りに整え、両手で若い衆の前へそっと差し出す。


「お借りしやした お心遣い、痛み入りやす」


軽く頭を下げてから、静かに畳へ上がった。


親分は火鉢の灰を突く手を止め、背の高い若い衆に声をかけた。


「膳を出してやれ」


運ばれてきた膳は、麦飯、味噌汁、焼き魚、煮染め。

どれも質素ながら、丁寧に作られた温かい膳だった。


甚八は膳の前に正座し、両手を膳に添えて頭を下げる。


「いただきやす」


まず飯を二口、静かに噛む。次に味噌汁を一口すすり、焼き魚の端を少しだけ口に運ぶ。


腹を満たすより先に、作り手への礼を示す――渡世に染みついた型だった。


背の高い若い衆はその所作を見て、飯櫃の脇に控え、いつでも継ぎ足せるよう身構える。


甚八はしばらく静かに膳を進め、頃合いを見て、山盛りの中央を二口だけ噛んだ。


そして黙って茶碗を若い衆へ差し出す。


若い衆は背筋を伸ばし、恭しく受け取った。


「……作法にかなったお替り、痛み入ります」


二膳目の飯を、同じ茶碗の中央へ静かに継ぎ足す。


両手で茶碗を返すと、甚八は軽く会釈し、再び膳へ向き直った。


親分は火鉢の灰を突く手を止め、目を細める。


「……噂通りだな 若ぇのに、筋が通ってやがる」


甚八は箸を置き、静かに頭を下げた。


「行く先々で世話になる身でござんす せめて礼だけは欠かさぬようにと」


「礼を欠かねぇ若ぇのなんざ、今どきそうはいねぇよ」


親分は湯呑を手に取り、ひと口すすってから続けた。


「明日の朝、裏の荷の見張りを頼む それで一宿一飯の礼は十分だ」


甚八は深く礼をした。


「ありがてぇことで」


障子の向こうで、夜風が川面を渡る音がした。


旅の疲れが、ようやくほどけていく。

それは、しばらく味わうことのなかった“人の温もり”に触れたような感覚だった。


――明日になれば、またどこかの道を歩くことになる。

だが今夜は、筋の通った家で眠れる。

それだけで十分だった。

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