堕ちた 元お嬢様 麗子
みさき
堕ちた薔薇
午後三時、表参道のカフェで、麗子は紅茶のカップを揺らしながら外の歩行者をぼんやりと眺めていた。シフォンのブラウスに、先月購入したカルティエのブレスレットがきらりと光る。結婚して十年、子供も二人いるが、彼女の生活はティータイムと買い物、ママ友とのランチで構成されていた。夫の浩一は一流商社の部長。世間から見れば、何不自由ない裕福な主婦生活だった。
「でも…何かが足りない」
ふと口にした言葉に、自分でも驚いた。すべてが整いすぎていて、退屈だった。そんな時、ママ友のひとりが、ふと口にした。
「ねえ、私、こないだ面白いところに行ってきたの。ホストクラブってやつ。別に悪いことじゃないわよ、体験入店みたいな感じで」
好奇心と退屈が混ざった気持ちが、麗子を動かした。その週末、六本木の一等地にある、絢爛たるネオンに包まれた店の前に立っていた。
店内は、彼女の知っている世界とは全く異なっていた。きらびやかなシャンデリア、甘い香り、そして、完璧な笑顔をたたえた美青年たち。その中でも、ひときわ目を引いたのが遼だった。茶色の柔らかい髪、切れ長の優しい目、そして、彼女の些細な言葉にも耳を傾け、「麗子さんは、本当はもっと自由でいたいんじゃないですか」と、核心を突くような言葉をかけてくる。
一度、二度と通ううちに、麗子は完全にのめり込んでいった。遼との時間は、すべてが輝いて見えた。彼女は自分の存在を、心から肯定されていると感じた。まずは自分の貯金を切り崩し、それでも足りなくなると、高価なバッグや宝石を売り払った。
「ママ、最近なんだか疲れてる?」
小学生の長女の言葉に、ハッと我に返ることもあった。しかし、スマホに届く遼からの甘いメッセージを見ると、そんな罪悪感もかき消された。彼女が必要としている。そう信じたかった。
貯金が底をついたある夜、遼がそっと囁いた。
「麗子さん、僕…独立したいんです。自分の店を持って。でも資金が足りなくて…」
彼女の頭の中は、一つのことでいっぱいになった。子供の学資保険。夫が堅実に積み立ててきた、まとまった金額だ。解約すれば、遼を助けられる。彼の夢を叶えられる。手続きは、思いのほか簡単だった。夫の印鑑は、彼女も自由に使えた。
一週間後、浩一が激昂した声が、静かな自宅に響いた。
「学資保険を解約しただと?!お前、何を考えているんだ!あれは子供たちの将来のためだ!」
「だって…彼の夢を応援したかったの…」
「彼?…まさか、またあのホストクラブの男か!」
浩一の目は、怒りを通り越して、失望に満ちていた。彼はすべてを知っていた。クレジットカードの明細、宝石の行方、そして、遼とのメッセージのプリントアウトまで。
「離婚してくれ。子供たちには、お前のような母親は必要ない」
判決はあっけなかった。不貞行為と浪費が認められ、親権は浩一に。慰謝料もほぼゼロ。実家に電話をかければ、父の冷たい声が返ってきた。
「うちの娘とは認めん。自分の蒔いた種は自分で刈り取れ」
アパートの保証人にもなってくれない。財産分与で得たわずかな金も、遼に「独立資金」としてほとんど渡してしまった。行く場所がない。
必死で探したのは、一般企業の事務職だった。かつては軽蔑していた、時給制のパート。お嬢様育ちの彼女には、コピーを取るのも、電話応対も苦痛の連続だった。同僚の冷たい視線、パソコンの前で、「どんくさい」と同僚に陰口をたたかれながら働く日々。かつての輝きは、すっかり色あせていた。
そんなある雨の夜、帰宅途中のコンビニで、声をかけられた。
「麗子さん?」
振り向くと、そこにはスーツ姿の遼が立っていた。だが、その目はかつての優しさではなく、鋭い計算の光を宿している。
「久し振りだね。大変そうだな…こんな仕事、麗子さんに似合わないよ」
彼の言葉に、涙がこぼれそうになった。やはり彼は、自分を気にかけてくれている…
「いい仕事、紹介してあげようか?水商売だけど、稼げるよ。君なら、もっと上をいける」
かつての甘い言葉とは裏腹に、その提案は明らかに「商売」だった。しかし、追い詰められた麗子には、それが最後の浮き草に見えた。高級クラブのホステスとして働き始めた。最初は酒を酌み交わすだけだったが、次第にラインが曖昧になっていく。客からのより「深い」関係の要求。断れば売上が立たない。
「風俗も、覚悟の上だろ?金づるになるんだからさ」
遼は今、彼女のマネージャーだった。かつて「夢」だと言った独立は、こうした女性たちを管理する、小さな風俗店の経営だった。麗子は、彼の最も高価な商品の一つとなった。
ある朝、安アパートの汚れた鏡に映った自分を見て、彼女は初めて、すべてを失ったことを実感した。家族も、尊厳も、未来も。かつては裕福な主婦だった彼女は、今や男たちの欲望と、かつて愛した男の金銭欲の間に挟まれ、ただ消耗していく存在でしかなかった。
鏡の中の女は、麗子が知っている誰とも似ていなかった。それは、華やかな過去の亡霊でも、希望に満ちた未来の幻影でもない。ただ、深く、深く堕ちていった、ひとりの女の末路の姿だった。
彼女は静かに口紅を手に取った。真っ赤な色を、くすんだ唇に乗せながら、ふと思った。
(あのカフェの紅茶の味は、どんなだったっけ)
思い出せなかった。すべてが、遥か遠くの、別の人生の話のようだった。
堕ちた 元お嬢様 麗子 みさき @MisakiNonagase
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