『拡張現実の恋人』

角煮カイザー小屋

『拡張現実の恋人』

鏡の中の男は、死んだ魚のような目をしている。  肌は荒れ、ほうれい線がくっきりと影を落とし、唇は乾燥してひび割れていた。  健太けんたは舌打ちをして、洗面台から目を背けた。逃げるようにスマホを手に取り、慣れた手つきで『カメラ360°』を起動する。


 画面の中に映ったのは、つるりとした陶器のような肌に、大きな瞳、すっと通った鼻筋を持つ「ケンタ」だった。  これだ。これが本当の俺だ。  現実の俺なんて、ただのバグだ。


「よし……」


 健太は加工済みの自撮り画像を、マッチングアプリ『ミニョン』にアップロードした。プロフィール文には、「都内IT企業勤務、年収600万」と嘘を混ぜる。嘘じゃない、少し未来の予定を書いただけだ。  指先一つで世界は補正できる。不都合な真実は、クロップして切り捨てればいい。


 その時だった。  画面上部に『マッチング成立!』のポップアップが踊った。


 相手の名前は「アイナ」。  プロフィール写真を見た瞬間、健太の呼吸が止まった。  美人という言葉では安すぎる。AIで作った架空の美女画像のような、完璧な黄金比。だが、背景に映り込んだカフェの雑多な風景が、彼女が実在することを証明していた。


『はじめまして、ケンタさん。素敵な瞳ですね。素材がとてもいい』


 最初のメッセージ。  素材?  普通は「優しそう」とか「カッコいい」じゃないのか。違和感はあったが、健太の承認欲求がそれをねじ伏せた。こんな美女が、俺の(加工された)顔を褒めてくれたのだ。


『ありがとう。アイナさんも綺麗です』 『会えませんか? 今すぐに』


 展開が早すぎる。普段なら警戒する業者サクラのパターンだ。  だが、健太は鏡の中の薄汚い自分を一瞥し、そしてスマホの中の輝く自分を見た。このチャンスを逃せば、一生この薄暗い部屋で腐っていくだけだ。


『行きましょう』


 待ち合わせ場所は、渋谷の奥まった路地にある喫茶店だった。  健太はマスクを深めに被った。加工なしの顔を見られるのが怖かったからだ。  店に入ると、一番奥の席に彼女はいた。


 写真と同じだった。いや、解像度がおかしい。  薄暗い店内なのに、彼女の周りだけライティングされているように肌が発光して見える。長い黒髪は一本の乱れもなく、濡れたような艶を放っていた。


「ケンタさん?」


 声は、脳髄を直接撫でられるような甘さがあった。  健太はおずおずとマスクを外す。 「は、はじめまして……写真と違ってすみません」 「ううん、想像通りよ」


 アイナは微笑んだ。その瞬間、健太は奇妙なものを見た。  彼女の口角が上がるそのコンマ数秒、顔のパーツが――ズレた気がしたのだ。  古いビデオテープの映像が乱れるように、右目が少しだけ左にスライドし、瞬時に元の位置に戻ったような。


(……疲れ目か?)


 健太が瞬きをしていると、アイナが身を乗り出した。その瞳は、健太の目から一ミリも動かない。


「やっぱり素敵。角膜の透明度も、眼輪筋の収縮具合も、最高級の『素材』だわ」 「え、あ、ありがとうございます?」 「でも、少し世界が汚れて見えてない?」


 アイナはテーブルの上の水の入ったグラスを指差した。  安っぽい喫茶店の、指紋がついた曇ったグラス。水垢がこびりついている。   「現実って、ノイズが多いわよね。毛穴、シミ、ゴミ、他人の視線……。私、そういうのが大嫌いなの」 「わ、わかります。俺も、加工アプリがないと生きていけなくて」 「ふふ、気が合うわね。なら、これをあげる」


 彼女は自分のスマホを取り出し、健太に向けた。画面には『IDEAL(イデアル)』という見慣れないアイコンが表示されている。QRコードだ。


「これなぁに? まだベータ版なんだけど、私のパパが開発してるの。世界を『最適化オプティマイズ』するフィルターよ」 「カメラアプリですか?」 「ううん、現実拡張(AR)ライフ・フィルター。カメラを通すんじゃなくて、あなたのスマホがあなたの脳をサポートするの。入れてみて」


 断れる雰囲気ではなかった。  健太は震える手でアプリをインストールした。  『カメラへのアクセスを許可しますか?』『マイクへのアクセスを許可しますか?』『連絡先へのアクセスを許可しますか?』  そして――


 『痛覚および中枢神経へのアクセスを許可しますか?』


 一瞬、不穏な文字列が見えた気がしたが、指は慣習的に『許可』をタップしていた。  起動画面。真っ白な光が画面から溢れ出し、健太の網膜を焼く。


「うわっ!」 「さあ、画面越しに私を見て」


 アイナの声が反響する。  健太は涙目をこすりながら、スマホの画面越しにアイナを見た。


 息を呑んだ。  そこにいたのは、女神だった。  さっきまでの彼女も美人だったが、今の彼女は「光」そのものだ。そして、周囲の景色が一変していた。  薄汚れた喫茶店の壁は純白の大理石に変わり、天井からはシャンデリアが下がっている。指紋だらけだったグラスは、最高級のクリスタルガラスになって輝いている。


「すごい……なんだこれ」 「それが『本当の世界』よ、ケンタさん。汚いものはフィルターが消してくれたの」


 アイナが差し出したグラスの水。  現実にはただの水道水のはずだが、一口飲むと、芳醇なフルーツのような甘みと、脳がとろけるような清涼感が口いっぱいに広がった。


「美味しい……!」 「でしょう? 五感もアップデートしたの。ねえケンタさん」


 画面越しのアイナが、とろけるような笑顔で囁く。


「もう、元の世界に戻る必要なんてないと思わない?」


 健太はスマホから目を離そうとした。肉眼で現実を確認しようとした。  だが、スマホを持つ手が強張って動かない。いや、目が離せないのだ。画面の外の薄暗い現実が、あまりにも恐ろしく、汚らわしいものに感じられて。


「……はい」


 健太は答えた。  その時、スマホのインカメラが作動し、自分の顔が映った。  そこには、これまで必死に加工で作っていた「理想のケンタ」が、生きて動いていた。肌は発光し、目は大きく、あごはシャープに。    最高だ。  これが俺だ。やっと手に入れたんだ。


 画面の端で、バッテリー残量が「100%」から一気に「98%」へ減ったことに、健太は気づかなかった。  そして、画面越しのアイナの背後に、天井からぶら下がる「何か」の足が映り込んでいたことにも。


それから一週間、健太の生活は一変した。  いや、生活などという生易しいものではない。「飼育」が始まったのだ。


 健太は片時もスマホを手放せなくなっていた。  スマホのバッテリーが切れると、激しい頭痛と吐き気に襲われるからだ。これは『IDEAL』の離脱症状だったが、健太はそれを「現実世界のアレルギー」だと解釈していた。


 職場でも、食事中も、トイレでも、常にスマホのカメラ越しに世界を見る。  上司の怒鳴り声は心地よいクラシック音楽に変換され、残業だらけのオフィスは近未来のラボに見えた。  そして何より、画面に映る自分は常に「完璧なイケメン」だった。


「ケンタ君、最近顔色悪いけど大丈夫?」  同僚の女性が心配して声をかけてきた。  だが、スマホ越しの彼女の顔には、巨大な『モザイク』がかかっていた。 『フィルタリング対象:重要度・低』というタグが浮いている。


「うるさいな。俺は絶好調だよ」  健太は吐き捨てるように言った。モザイクの向こうで同僚が悲しそうな顔をしたことなど、知る由もなかった。


 金曜日の夜。健太はアイナのマンションに招かれた。  スマホの地図アプリが示す場所は、都心の一等地にあるタワーマンション……のはずだった。


 カメラ越しに見るその建物は、雲を突き抜けるような白亜の巨塔だ。エントランスにはレッドカーペットが敷かれている。 「すごい……こんな所に住んでるのか」  健太は陶酔して足を踏み入れた。


 ――ピチャ。


 足元で水音がした。  ふと画面がブレる。一瞬、レッドカーペットが「湿った新聞紙の束」に見えた気がした。  鼻を突く、カビと生ゴミの腐敗臭。   「うっ……」  健太が鼻を覆おうとした瞬間、スマホから甘いラベンダーの香りが噴霧されたような錯覚を覚えた。臭いが消える。 『環境最適化:完了』  画面に文字が浮かぶ。  気のせいだ。俺は疲れているんだ。健太はそう自分に言い聞かせ、エレベーター(と画面に表示されている鉄格子の箱)に乗り込んだ。


 アイナの部屋は、美術館のように美しかった。  壁一面の窓からは宝石箱のような夜景が見える。


「いらっしゃい、ケンタさん。お腹空いたでしょう?」  アイナがダイニングテーブルに皿を置く。  最高級のステーキだ。分厚い肉から黄金色の肉汁が溢れ、トリュフのソースがかかっている。   「手料理なんて嬉しいよ」 「特別な『お肉』が手に入ったの。柔らかくて、若くて、愚かなお肉よ」 「え?」 「うふふ、冗談。さあ、冷めないうちに」


 健太はナイフを入れた。驚くほど柔らかい。  口に運ぶ。    ――美味い。  舌の上で脂が溶け、脳髄が痺れるような旨味が広がる。ドーパミンがドバドバと溢れ出るのがわかる。  今まで食べたどんな肉よりも濃厚で、どこか懐かしい味がした。


「美味しい! これ、何の肉?」 「秘密。でも、あなたと『似た』味がするかもね」


 健太が二切れ目を口に運ぼうとした時だった。  スマホの通知が鳴り、LINEのポップアップが表示された。  処理落ち。  『IDEAL』のフィルターが一瞬、フリーズした。


 ガリッ。


 奥歯で硬いものを噛んだ。  画面の向こうのステーキがノイズと共に消える。  健太のフォークに刺さっていたのは、焼かれてすらいない、赤黒い「生の肉塊」だった。  血管がまだドクドクと脈打っているように見える。  そして、口の中で噛み砕いた硬いもの。  吐き出すと、それは「人間の爪」のように見えた。マニキュアが塗られた、小指の爪。


「あ……が……ッ!?」


 現実の強烈な血生臭さが鼻腔を直撃する。  嘔吐感がこみ上げる。   「あら、バグかしら」


 アイナが冷徹な声で言い、健太のスマホ画面を指で弾いた。  再起動。  瞬時に世界は黄金色に戻った。  手元の肉塊は、再び極上のステーキへと姿を変える。爪だと思ったものは、ただの岩塩の結晶に見えた。  口の中に残る血の味も、芳醇な赤ワインのソースの味へと上書きされる。


「ほら、美味しいでしょう?」  アイナが覗き込んでくる。その顔は女神のように慈愛に満ちている。    健太は震えた。  直前の映像(生肉と爪)が脳裏に焼き付いている。あれが現実だ。俺は今、何かとんでもないものを食べている。  逃げなければ。警察に行かなければ。


 だが。  目の前のステーキから漂う「電子的な香り」があまりにも魅力的すぎた。  現実の吐き気よりも、アプリが与えてくれる快楽の方が勝っていた。    これを否定すれば、俺はまた「死んだ魚のような目の男」に戻ってしまう。  薄汚い現実で、吐瀉物にまみれることになる。


「……うん、美味しい」


 健太は涙を流しながら、肉を飲み込んだ。  見ないふりをした。  彼は、自らの意思で「現実」を捨てたのだ。


 食後、二人はソファで重なり合った。  アイナの肌は冷たかった。まるで爬虫類のようだ。だが画面越しには、バラ色の肌として映る。


「ケンタさんの体、やっぱりいいわ」  アイナの細い指が、健太の頬をなぞる。  それは愛撫というより、品定めだった。


「ここの肉付きは不要ね……ここは、剥がした方が綺麗……」  彼女の爪が、健太のまぶたの上をギリギリとなぞる。  鋭利な痛みが走った。血が出ているかもしれない。  だがアプリは、その傷口すらも『クールなタトゥー』として変換して表示した。


「痛い……?」 「ううん、気持ちいいよ、アイナ」  健太は虚ろな目で笑った。痛みすらも快楽に変換されるなら、それは快楽なのだ。


「ねえ、ケンタさん」  アイナが耳元で囁く。


「アプリ越しじゃなくて、本当のあなたも『理想』にしてあげる」 「……え?」 「アップデートよ。物理的な、ね。私が手伝ってあげる」


 彼女の手には、いつの間にか銀色に光るメスが握られていた。  いや、画面上ではそれは「魔法の杖」のようにキラキラと輝いている。


「さあ、要らないパーツを捨てましょう」


銀色のメスが、健太の頬に触れた。  ひやりとした感触。  だが、スマホの画面越しに見るその光景は、まるでファンタジー映画のワンシーンのようだった。アイナの手にあるのは血濡れの刃物ではなく、キラキラと粒子を纏った「魔法の杖」に見える。


「まずは、この無駄な皮膚からね。たるんでて美しくないわ」


 アイナが手首を返した。  ザクリ。  濡れた雑巾を裂くような、鈍く湿った音が部屋に響く。


「あ……」


 健太の口から漏れたのは、悲鳴ではなかった。  熱い吐息だ。  頬の肉が削ぎ落とされたはずなのに、脳を突き抜けたのは強烈なエクスタシーだった。  『IDEAL』が脳内麻薬をドバドバと分泌させているのだ。痛覚信号が遮断され、代わりに快楽信号がシナプスを駆け巡る。


「あっ、あはっ、すご……いい……ッ!」


 健太は背中を反らせて痙攣した。  視界には、自分の頬から噴き出す鮮血が映っている。だが、それは真っ赤な血ではなく、舞い散る「真紅のバラの花弁」として描画されていた。  肉が削れるたびに、花びらが舞う。なんて美しいんだ。


「そう、いい子。バグが減っていくわ」


 アイナは慈愛に満ちた瞳で作業を続ける。  ジョリ、グチュ、ブチッ。  耳元で鳴る音だけが、忌まわしい現実を伝えていた。皮下脂肪が剥がれる音。神経が千切れる音。


 その時だった。  プツン。  一瞬、部屋の電気が消えたように、スマホの画面がブラックアウトした。  処理落ちだ。あまりに膨大な「現実改変」のデータ処理に、端末が追いつかなくなったのだ。


 ――激痛。


「ぎゃああああああああああああッ!!」


 魔法が解けた。  健太はのたうち回った。頬の肉がごっそりと失われ、歯茎と顎の骨が剥き出しになっている。血は花弁ではなく、生温かい鉄の臭いのする液体として床を汚していた。


「痛い! 痛い痛い痛い!! やめてくれ!!」


 健太はアイナを突き飛ばし、リビングのドアへと這いずった。  逃げなければ。殺される。この女は狂っている。  血まみれの手でドアノブを掴もうとした。


 ない。


 あるはずのドアノブが、ない。  それどころか、ドアの境目すらなかった。  そこにあったのは、壁に描かれた「ドアの絵」だった。安っぽいテクスチャ画像が貼り付けられているだけ。


「え……?」


 健太は振り返り、窓を見た。  夜景が見えるはずの大きな窓。  だが、フィルターが切れた今、そこに見えたのは「黒」だった。ガラスの向こうは何もない。コンクリートの壁ですらない。ただの漆黒の空間。無限の虚無。


 ここはマンションですらなかったのか?  いや、そもそも「ここ」は地球上なのか?


「あーあ、回線が不安定ね」


 背後で声がした。  健太は戦慄しながら振り返った。  そこに立っていたのは、アイナ……のようなもの。


 彼女の美しい顔が、テレビのノイズのように激しく乱れている。  左半分は美女のままだが、右半分が崩れていた。皮膚の下にあるのは筋肉や骨ではない。  蠢く無数の「画素ピクセル」の集合体。あるいは、腐った肉に湧いた蛆虫のようにも見える。


「逃げようなんて思わないで、ケンタさん」


 崩れた口が動く。


「あなたはもう、利用規約に同意サインしたでしょう? 『私のモノになる』って」


 アイナがスマホを拾い上げ、健太にかざした。  強制再起動。  ブウン、という駆動音と共に、再び『IDEAL』の光が健太を包み込む。


 激痛が消えた。  剥き出しの顎骨の涼しさが、心地よい風のように感じられる。  恐怖で引きつっていたアイナの顔が、また天使の笑顔に上書きされる。


「あ……あぁ……」


 健太はドアの絵に背中を預け、力なく笑った。  もう、逃げられない。  現実いたみに戻るくらいなら、このゆめの中で切り刻まれていた方がマシだ。


「ごめんね、アイナ。僕が……バグってたよ」


 健太は涙を流しながら謝罪した。  アイナは優しく微笑み、メスを――いや、今度は「もっと大きなハサミ」を取り出した。


「分かってくれたらいいの。さあ、次は『目』をきれいにしましょう。その濁った眼球、ずっと交換したかったの」


「さあ、ケンタさん。その古臭いレンズ(眼球)を外して。私が最高の『瞳』を入れてあげる」


 アイナが差し出したのは、銀色のハサミではない。  健太の目には、それが「二つの巨大なエメラルド」に見えていた。   「これを……入れるのかい?」 「ええ。そうすれば、あなたは永遠に美しい世界だけを見ていられるわ」


 健太は恍惚とした表情で頷いた。  今の彼には、痛みへの恐怖など微塵もなかった。『IDEAL』が脳に流し込む快楽物質のエフェクトで、思考は白く濁り、ただ「美しくなりたい」という渇望だけが残っていた。


 彼は自らの手で、眼窩に冷たい硬質なものを突き立てた。


 ブツリ。


 視神経が千切れる、湿った音。  現実なら、発狂するほどの激痛と、噴き出す鮮血で視界が赤く染まるはずだ。  だが、健太に見えたのは「光」だった。  眼球を抉り出した瞬間、視界が真っ白な光に包まれ、ファンファーレのような天使の歌声が脳内に響き渡ったのだ。


「ああ……! すごい、眩しいよ、アイナ!」 「素敵よ、ケンタさん。すごく綺麗」


 ゴロン、と床に落ちた「それ」を、健太はもう見ることはできない。  物理的な視力を失ったからだ。  しかし、脳に直結したアプリは、彼に「偽りの視覚」を送り続けていた。    暗闇の中で、健太は見た。  鏡に映る自分。  削ぎ落とされた頬は滑らかなピンク色の肌に再生し、抉られた両目には宝石のような瞳が輝いている。  身長は伸び、筋肉は隆起し、まさにギリシャ彫刻のような完全無欠の肉体がそこにあった。


「完成した……これが、俺だ……」


 健太は涙を流した。その涙は血だったが、彼にはダイヤモンドの雫に見えた。   「おめでとう。これであなたは『素材』から『作品』になったの」


 アイナの声が遠くなる。  健太の体から力が抜けていく。出血多量によるショック状態。死へのカウントダウン。  だが、意識が薄れるその瞬間まで、彼は幸せだった。  薄汚い現実も、コンプレックスまみれの自分も、もうどこにもいないのだから。


 彼は血の海の中で、壊れた玩具のように微笑み続けていた。


 ――それから、三日後。


 ある女子大生が、退屈しのぎにマッチングアプリ『ミニョン』をスクロールしていた。 「あーあ、どいつもこいつもパッとしないなあ」


 指を止めずに次々と「NO」へスワイプしていく。  その時、手が止まった。


「え、めっちゃイケメン」


 画面に表示されたのは「KENTA(26)」という男性。  驚くほど整った顔立ち。肌は陶器のように美しく、瞳は宝石のように輝いている。  プロフィールには一言だけ。  『僕のすべてを捧げます』


「やば、運命かも」  彼女は迷わず「いいね!」を押した。  即座に『マッチング成立!』の文字が踊る。


 彼女は浮かれて、そのプロフィール画像を拡大表示した。  隅々までチェックする。やっぱりイケメンだ。背景もオシャレなタワマンだし……ん?


 彼女の指が止まる。  自撮りをするKENTAの背後。  部屋の奥にある「鏡」に、撮影者が映り込んでいた。


 そこに映っていたのは、スマホを持つ美しいKENTAではない。    台車の上に載せられた、手足のない、皮を剥がれた「肉の塊」だった。  その肉塊の顔面には、スマホがガムテープで乱雑に固定されている。  そして、唇のない口元は、幸せそうにニタリと歪んで笑っていた。


「……え?」


 背筋が凍りついた。  その時、彼女のスマホの画面が、ジジジ……とノイズを上げて乱れ始めた。    ピンポーン。


 タイミングよく、玄関のチャイムが鳴った。  画面には、KENTAからのメッセージが届いている。


『迎えに来たよ。君の素材も、すごく良さそうだ』


 彼女は震える手でスマホを落とした。  画面の中で、肉塊が笑った気がした。


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