ウインナーコーヒー

奥山いろは

ウインナーコーヒー

 その日はいつもより寝覚めが悪かった。

 目を開けると、ゆらりと天井がゆがむ。床に敷いた布団にそのまま寝転がっているからか、下の階にいるのであろう人の声がうっすら聞こえる。悲鳴とも怒号ともとれる声が、目覚まし音代わりになって、僕を目覚めさせたのだろう。目覚まし音にしては不快と言えるそれは、だんだんと輪郭がはっきりわかるようになっていき、朝露のついた窓を覆い隠していき、冬空の高く、暗い雲がその暗さを増していく。そしてその声とも取れないいびつな影は、僕をも包み込んでしまうと、まるで冬の北風のように僕の首元を冷やしていき……

 ゆっくりと目を開ける。布団にうずめた顔をさらにうずめて朝冷えの寒さから逃れると、それを許さないとばかりに携帯のアラームが、布団の少し端で鳴る。代わりにさっきの声はもう聞こえなくなっていた。夢を見ていたのだろう。その証拠に、この家は平屋だ。下の階などない。

 汗をびっしょりかいてパジャマが冷えてしまった。今日は家から出るつもりがなかったので、一日パジャマでいようと思ったのだが、仕方なく着替えるとしよう。それにしても、どうにも嫌な夢だった。古い記憶をこねくりまわして真っ黒に塗りつぶしたような、無理矢理で、でもどこか覚えのある不快感。

 そんな尾を引く気怠さをずるずると引きずったまま、洗面台に行き顔を洗う。寝起きにしても、ひどい顔をしていると思う。

「そんな暗い顔して、どうしたの?」

 居間に行くと、同じく今日は休みの妻がコーヒーを二人分淹れて待っていた。自分でも思っていたことをそのまま聞かれて、一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてしまった。おそらく彼女もついさっき起きたのだろう。パジャマの上着の裾がズボンに入ったり入ってなかったりする。その少し間の抜けた格好のおかげで、悪夢の余韻が少し和らいだ。

「ちょっとね」

「ふうん、まあ、なんでもいいけど。」

 椅子に座ると、そのまま向かいの椅子に彼女は座り、コーヒーを差し出す。僕はありがとうと言ってマグを受け取ると、一口すすり、視線を落とした。

「……なにかまずかった?」

「いや、そうじゃないんだ。ごめん」

「よかった、自慢のバリスタの腕が鈍ったのかと」

 そう言うと、彼女も一口コーヒーをすする。居心地のいい沈黙が居間に流れてすぐ、妻が口を開いた。

「もしかして……嫌な夢でも見た?」

「なんでわかるのさ」

「わかるよ、長いもん」

「バリスタ歴が?」

「ちがう。君といて、だよ。」

 ふふっ、と少し微笑んだ妻は席を立ち、台所で何かを準備し始めた。

「まあ、君がどんな悪夢見たかなんて大抵見当がつくけどね。またトラウマ関連でしょ」

「……君は超能力者か何かなの?」

「違うよ、長いだけ。もちろん君といてね」

 僕はここ数年、夢見が悪い。昔の家庭環境にトラウマがあって、たまにそのことが夢の中でフラッシュバックしてしまうのだ。処方された睡眠薬を飲めば多少ラクになるのだが、昨日は飲み忘れてしまった。

「どうせ、また薬を飲み忘れたんでしょ」

 こちらに背を向けたまま言う妻に、内心ぎくりとした。このことも、妻にはお見通しらしい。本当に、この人にはかなわないなと思う。

「トラウマねぇ、私にはそんなたいそうなものないけどさ、君が今までどんな人生を送ってきたかは、私にはさほど興味はないよ。今に生きてるからね」

「最近それ言うけど、何かの受け売り?」

「あ、バレた?最近見たアニメでね」

 興味がないと言われて傷つきはしないが、本当にカラッとした性格の人だなとは思う。だからこそ、こんなじめっとした性格の僕にも付き合ってくれるんだろうな、とは思う。それにトラウマという人生の枷に囚われがちな人にとって、そういう面を見ないようにもしてくれることは、幾分か救いになるのだ。

「トラウマって、雲みたいなもんでさ。形は見えるのに、つかめなくて、そこにあるのを忘れてしまうほどなのに、ふとした時に雨を降らせるんだ」

「ふうん……わたしは雲なんて気にしたことなかったけど、そういう人もいるんだね」

「うん。少なくとも、ぼくはね」

 少しの沈黙の後、ひときわ明るい声で妻は言った。

「なら……傘でもさす?」

「どういうこと?」

 戸惑う僕に振り返った妻は、大きめのボウルを抱えて、笑顔で席に着いた。

「まあ、その、なんだ」

 妻はまごつきながら、ボウルから僕のマグのコーヒーに、たっぷりの生クリームを乗せた。準備してたのはこれらしい。

「もう少し、肩の力を抜いて生きても、いいんじゃない?」

 にこにこしながらこちらを見つめる妻は、机の上にあった僕の手を握ってそう言った。

「まずは今日、なにしよっか?」

 雲のような生クリームが、コーヒーに溶け出していた。

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