修羅の巣

@fishscales

第1話 応接室

応接室は甘ったるい香水の匂いで満ちていた。


壁際には、三人の部下が静かに並んで立っている。

その前のソファに座る久我は、愛想笑いを浮かべたまま脚を組んでいた。


そして。


「コッチは金返しに来てやってんのにその態度なんなんだよ!チビのくせに偉そうにしやがって!」


金切り声が、室内の空気を裂くように響く。

露出の多いドレスを着た女が、唾を飛ばして怒鳴り散らしている。

その様子に、普段表情をあまり変えることのない橘も不快感を隠せず、眉間を僅かに寄せた。


久我は貼り付けたような笑顔で、女の暴言を黙って聞いている。


「女を所有物みたいに控えさせてさ、気色悪!アンタもアンタよ!」


突然、鷺坂に矛先が向いた。


「色気とか見てくれ使って出世してきたんでしょ!?」


女はさらに続けた。

その言葉に、鷺坂は眉一つ動かさない。

ただ置物のように背筋を伸ばし、静止しているだけである。


すると突然。


「なにそれ」


犬飼が、ニヤリと笑って口を開いた。


「つまりお前より、コッチの方が魅力的って言いたいワケ?」


親指で鷺坂を指し、下まぶたを引き上げる。


久我は表情を変えない。

ただ、視線だけを犬飼に向けた。


「はぁ!?あんたケンカ売ってんの!?」


声を荒らげる女の方に、犬飼は肩を竦める。


「買える金ないだろ。借金してるクセに」


犬飼はコツンと靴音を響かせて、女との距離を詰める。


「そっちこそ人の時間奪ってる自覚ある?照明でその”粗悪なプラスチック顔”が溶ける前に帰れよ」


甘い笑顔を作って、首を傾けた。


「”偽乳女”」


バシャッ。


頭からお茶を浴びせられ、ゆっくりと目を閉じる。長いまつ毛に茶色い雫が引っかかって、震えて落ちた。


「最低!」


女は犬飼を睨みながら怒鳴ると、湯のみをテーブルに叩きつけ、荒々しい足音を残して出ていった。


「………」


空間が静寂に包まれる。


「おい」


久我の冷たくて低い声が、無音の応接室の空気を氷点下まで下げた。


「……分かるな?」

「………はい、ボス」


犬飼は大真面目な顔で返事をしたが、


(うわ。この後怒られるわ)


と腹の中で思っていた。

橘が眼鏡を押し上げる。


「あなたのその下品で俗悪的な語彙、聞いているだけで耳が腐りそうになります」

「お前も同じ穴のムジナだろ」


犬飼が即返す。くっきりとした甘やかな垂れ目が、橘の目とかち合った。


「俺とお前の違いなんて、”声が落ち着いてるかどうか”くらいだろ」

「僕はあそこまで露骨な言い方はしません」

「でもお前も思ったろ。“うるせー女だな”って」

「…………」


橘は何も言わなかった。

無言の肯定、というやつであった。



────────────────────


「……でェ?」


聞いていると逃げたくなるような低い声だった。

コツ、コツ、と指が机を叩いている。


犬飼は背筋を伸ばし、顎を引いたまま動かない。

動いてはいけない。

今は”動くことを許されていない”からだ。


「お前、客に向かってようあんな口が聞けたもんやな」


コツ、コツ、


「“粗悪なプラスチック顔”」

「……」

「“偽乳”」


目を合わせられなくなり、視線が床に落ちる。


「口が回るんは結構や。……せやけどな」


コツ……。

指の音が止まった。


「”誰の看板”で喋ってるん?」


その一言だけで、犬飼の瞼が数回、痙攣のような瞬きをひとりでに繰り返した。


「ウチで金貸しとる以上、向こうが何言うたかは関係あらへん。怒らせた事実だけが残る」


久我は刺すような目で犬飼を見据えている。


「俺に恥かかせる犬は要らんのや」

「……ッ、」


喉が締まるようだった。

耐えきれずに唾をコクンと飲み込む。


「次は無い」

「……はい」

「はい、やない。”理解しました”や」


久我はそう言うと立ち上がり、犬飼の前に立った。


「……理解しました」

「戻れ」

「はい」


平坦な、温度の無い一声。

それが、説教の終わりの合図であった。


────────────────


「……っはぁぁ〜〜〜!!」


犬飼は盛大に息を吐き出し、淡々とデスクで書類を整えている橘に早歩きで近付いた。


「すげぇ怖かったマジで!!化け物級の殺気で寿命縮んだんだけど!!」


どう考えても、久我に聞こえる声量。

橘は一瞬だけ犬飼に視線を向けた後、再び作業に取り掛かる。


「自業自得です」

「冷たくない?いつもの”身内に甘いAI”はどこ行ったの?」

「今日は外出中です」


久我は背もたれに体を預け、しらっとした顔でコーヒーを飲んでいる。


「お前は少し寿命削るくらいがちょうどええわ」

「ほら出た」

「ホンマに次は無いからな」

「はいはい、理解しました理解しました」


数秒、沈黙が流れる。


「軽すぎや」

「俺の反省は短期集中型なの」

「短すぎや」

「効率重視なんで」


久我は鼻で笑った。

そのタイミングで、鷺坂がパソコンを閉じた。


「あんなのにムキになってんじゃないわよ」

「ねえさん?」

「あんな安っぽい悪口に私が傷つく訳ないでしょうが」

「いや庇ったんだけど俺!」

「頼んでない」

「えぇ〜……」


犬飼は不貞腐れた子供みたいに口を尖らせる。


「俺、今日二回死んでない?」

「自覚あるだけマシや」

「ボスまで!?」

「調子戻っとる証拠やろ」


久我はカップを置いて、ちらりと犬飼を見る。


「分かってるならそれでええ」

「へーい」


その返事が、もう叱責の場のものではない。

トンッ。

橘の手の中で、書類の角が揃う。


「反省は短期、信用は長期で積み上げてください」

「それ言う?」

「はい」


迷いのない即答。

犬飼は肩をすくめ、ソファに倒れ込んだ。


「……やっぱこの組怖〜い」

「今さら言うな」

「でもやめらんない」

「そういう奴しかおらん」


久我はそう言って、コーヒーをまた一口飲んだ。

さっきまでの緊張感はもうどこにもない。


微かに、味噌汁の匂いが事務室に流れ込んできた。久我はカップを置き、鼻で小さく息を吸う。


「……今日は生姜かな」


誰に向けたでもない独り言だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

修羅の巣 @fishscales

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ