悪役令嬢死すべし
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悪役令嬢死すべし
王城の奥、静謐な装飾を特徴とする白鷺の間には、硝子細工のように張りつめた沈黙が満ちている。
数百もの蝋燭がシャンデリアの上で困惑に揺らめき、磨いた大理石の床に貴族たちの影を長く落としていた。
品の良い仮面で着飾った社交の会場が、王太子アルベール様の一言によって断罪の舞踏会へと変貌を遂げる。
「――ドロテア・ド・アプレージュ公爵令嬢。私はここに、貴女との婚約を破棄することを宣言する」
眼前に立つ我が婚約者、アルベール・ド・アヴァンゲル様の声は内側に激情を押し隠し、必死に冷静さを保とうとしていた。彼の蒼穹の瞳が正面からわたくしを射抜く。
「まあ、突然のことで驚きましたわ、殿下」
豪奢な濃紺のドレスを纏い、流行りの型に結い上げた濡羽色の髪をサファイアで飾り立てた。王家よりも高貴な筆頭公爵家の令嬢たるわたくしへの宣戦布告、謹んで受けさせていただきましょう。
さざ波のように広がる動揺はどこか見知らぬ土地で響く遠雷のよう。観客など気にかける必要はない。
これはわたくしとアルベール様の、崇高なる決闘ですもの。
「王太子としての公式のお言葉でしょうか。それとも殿下個人の感情による戯言でしょうか」
「それは乖離するものではない。私の、王太子としての感情だ」
アルベール様が階段を一段降りた。彼が動くと観客たちが恐怖に似た敬意を持って道をあける。
「ドロテア、君はあまりに冷酷だ。民を虐げ、国を殺す君を、王太子としてもはや愛せない」
「驚きました。王太子ともあろうお方が『愛』などという邪教を信奉しているだなんて」
どうかその程度で終わらないでくださいませ、アルベール様。くだらない敵とは戦う価値もございませんわ。
「人への愛なくして国を治めることなどできないよ、ドロテア」
「国を支配するのに愛など不要ですわ、殿下。長年の懸案だった西方国境の紛争を沈静化させたのはわたくしの功績でしてよ」
「そのために臣民を隣国に売り払ったのも君だ」
「いけませんか? ゴルドはろくな税収のない不毛の土地でしたもの。所有していても無価値ですわ」
隣国がかの地を切り拓いて道を敷いてくれたおかげで、王都に上質な布地が入ってくるようになった。むしろ感謝していただきたいほどです。
「一体どれほどの民が血の涙を流したと思っているのだ!」
「必要な瀉血です。貴方のような聡明な方が、いつから衆愚の涙に惑わされるようになりましたの」
優雅に仰ぐ扇の裏で、わたくしの微笑みはまだ絶えない。アルベール様はこの笑みをどうやって凍りつかせてくださるのかしら。
乱れた呼吸を整えて、アルベール様がさらに続ける。
「三ヵ月前の『ワーズの飢饉』」
「何かございました? あの時は国庫の収入が潤いましたわね」
「君は救援物資の輸送を意図的に遅らせたな」
あらあら、確たる証拠は掴んでいらっしゃるのかしら。強者に対する不用意な断罪は致命の反撃を受けることにもなり得ますわよ、アルベール様。
「輸送路の安全確保が不充分でしたもの。山賊による略奪のリスクを考慮すれば、国軍の到着を待つのが正しい判断でした」
「だが、その二週間の遅れで二千人の村人が餓死した」
「その二週間で援軍を得たおかげで、貴重な糧食は一粒たりとも失われませんでした。それに、ワーズは痩せた土地。飢饉が起きたのは人口過剰が原因です。よい口減らしになりました」
「貴様ッ……悪女が!」
ワーズに関わりのある者なのか、アルベール様の側近の一人が憤激して剣に手をかける。それをアルベール様が片手で制した。
怒りはとうに通過して、アルベール様の瞳には悲しみにも似た何かが浮かんでいる。
くだらないですこと。彼はまさか、婚約者としてわたくしを愛してでもいたのかしら。気持ちの悪い。
「君の報告書を読んだよ。君は輸送路のリスクを捏造した。山賊などいなかった」
「『いなかった』ことの証明はできまして?」
「君は意図的に飢餓を長引かせ、ワーズ領主の男爵を失脚させたかったのだ。現に荒廃した土地を公爵家名義で安く買い叩き、新たな綿花プランテーションを作る計画を立てているだろう」
「ええ。とても良いお買い物でした」
餓死した農民の代わりに隣国からの難民を安価な労働力として雇う。生産性は三倍になる見込み。国益、税収、治安。すべてにおいてプラスになる予定ですわ。
アルベール様は低い声で告げる。未だ罪を裁けるほどの重さがない。
「君のやり方には、微塵も愛がない」
「貴方の大好きな『愛』を購うにも金貨が必要ですのよ、殿下」
「君の知性は自己のためだけに使われている。君は表向き国のため、民のためと言うが、君が本当に求めているのは己の権威と財産だ」
「まあ、殿下。でしたら貴方がただの『市井のアルベール』だとしたら、どれほどの人間を救えますの? お笑い種の綺麗事ですわ」
お笑い種だなんて少々お下品な言葉を使ってしまった。だってあまりにも馬鹿げているのですもの。
優しい笑顔を浮かべて見せるだけの王家ではなく、我が国を支えてきたのは事実公爵家の政治だったというのに。
「綺麗事か。そうなのかもしれないな」
アルベール様は薄く笑った。彼には似合わぬ、わたくしのような冷ややかな笑顔。ここから少しは楽しませてくれるとよいのだけれど。
そしてアルベール様は傍らの大臣を呼び、一束の書類をわたくしに突きつける。
「君の私室から発見された裏帳簿だ」
「覚えがございませんわ」
書類が床に放り投げられ、紙片が散らばる。確かにわたくしの署名がしてあった。
「ドロテア。君が切り捨てた下級官吏、君が追放した地方貴族、君が使い潰した諜報員の遺族。彼らは喜んで私の手足となってくれた。君への憎悪を果たすために」
「憎悪で人を陥れるだなんて、恐ろしい方々ですこと。殿下はそのような悪事に加担しておられますの?」
烏合の衆のルサンチマンなどただ一人の権威の前にも散らされる無力な塵だ。
「君には知性がある。だが君の知性は敵を作る。私は人を愛し、味方を増やした。……君は、孤立しているぞ」
アルベール様が指を鳴らす。その合図と共に白鷺の間の扉が開かれ、武装した近衛騎士団が雪崩れ込んできた。彼らが剣を向けたのはわたくしではない。
我がアプレージュ家の派閥に属していた有力貴族たち――財務大臣、軍務卿、司法長官たちだった。
拘束された財務大臣が冷や汗を流しながらわたくしに向かって叫ぶ。
「す、すまないアプレージュ嬢! だが、これ以上は……王宮に敵が増えすぎたのだ」
握りつぶしきれないほどにアルベール様の張り巡らせた血脈が太くなってきた。そういうことですのね。
及第点かしら。扇を揺らし、下品にならない程度に目を見開いて差し上げることにいたしましょう。
「恐怖による支配は、より大きな恐怖の前には脆いのだよ、ドロテア」
「まあ、殿下。では貴方のこのなさりようは『恐怖による支配』ということですの? わたくし、とっても恐ろしいわ」
アルベール様は清廉潔白な理想主義者として振る舞いながら、水面下で泥臭い根回しを行っていたのだ。それも我が家が得意とする利益誘導や分断工作を使って。
捏造された裏帳簿という確証にわたくしの署名が入っている。わたくしの重鎮を掌握できるほどに成長されたのね。嬉しいこと。
「私は君から学んだよ、ドロテア。目的のためには手段を選ばない冷徹さを」
その冷徹さを指摘したところで彼の味方がアルベール様の『誠実なる断罪』を証明することだろう。王家はようやく真実を作るだけの力を手に入れた。
彼の瞳に深い悲哀と、そして訣別を告げる強い意志が宿されていた。
「……ふふ」
思わず真実の笑みが零れた。排除するにも値しない殿方かと思っていたけれど、わたくしのお相手に匹敵なさって頼もしいわ。
「素敵です、殿下。昨日までおままごとをしていた子猫が狂暴な虎になってわたくしの喉笛を噛み切るなんて」
散らばった告発状を踏みつけながらアルベール様に歩み寄る。無粋な近衛騎士が剣を抜こうとするけれど、わたくしに気圧されたのか動けずにいる。
わたくしはアルベール様の胸元に手を伸ばし、彼の心臓を守るかのごとき王太子の徽章を指先でなぞった。
「貴方、わたくしを愛していましたか?」
「愛していた。……君の知性を、その高潔な魂を。だが、君は王太子妃に相応しくない」
そして観客には聞こえぬよう小さな声で、彼はわたくしにだけ告げた。
「ドロテア、君は王に匹敵する。王は二人も必要ない」
わたくしもまた、ただ一人、彼だけに向かって応じる。
「断罪なさい、アルベール。貴方の正義で」
アルベール様は一瞬、痛ましげに顔を歪めた。けれどすぐに王太子としての仮面を被り直し、高らかに宣う。
「ドロテア・ド・アプレージュ。国家反逆、横領、及び民衆に対する背信行為により、貴様の身柄を拘束する。審理は後日行うが、情状酌量の余地はないと思え」
「望むところですわ」
扇を投げ捨てたわたくしの手に枷がかけられる。この冷たい金属の感触こそが、支配の真髄。
***
半年後。王都の中央広場には黒山の人だかりができていた。
かつて王太子の婚約者として国を牛耳り、氷血の宰相令嬢と恐れられたドロテア・ド・アプレージュの処刑が今日執り行われる。
民衆は彼女に石を投げ、呪詛の言葉を吐きかけた。彼女が捨てた村々の生存者、彼女の政策によって職を追われた者たちの怒りは今も燃え盛っている。
しかし断頭台への階段をのぼってゆくドロテアの姿は、王城の夜会にでも向かう淑女の優美さを湛えていた。
彼女は飛び交う罵声を涼しい顔で受け流している。その耳に響くのが凱旋パレードの歓声であるかのように。
処刑台の上で、ドロテアは最前列に立つ人物を見つけた。フードを目深に被っているが、その立ち姿を見間違えるはずがない。
王太子アルベール・ド・アヴァンゲル。彼は元婚約者の最期を見届けにきたのだった。
アルベールの蒼穹の瞳が語った。
『君が流した血の礎に、私は慈悲の国を作ろう、ドロテア』
『地獄の底から楽しく見物させていただきますわ、アルベール』
ドロテアもまた一瞥で彼に応えた。声もなく、しかし二人の間には確かな信頼に満ちた言葉が交わされた。
最後にドロテアは観客に向かって一礼し、そして笑みを浮かべる。不敵で傲慢な、砕けた氷のように美しい微笑だった。
執行人が合図をすると、重く濁った音が響き、すぐにも真紅の血が広場を染めあげてゆく。
民衆の歓声が爆発した。悪が滅び、正義は勝った。彼らはその物語に熱狂した。
アルベールは歓喜の渦の中に一人きりで立ち尽くす。彼の拳は血が滲むほどに強く握りしめられていた。
やがて彼は誰にも知られることのないまま広場から姿を消した。
氷血の令嬢は死に、孤独な王太子の治世が始まるのだった。
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