天狗の華
大和真矢
序章 第一話
夜の闇に紛れて、彼女は復讐の種を蒔いた──。
冷たく仄暗い独房の中に女はいた。名は多恵。
“多くの幸せに恵まれるように”と、付けられたのであろう。しかし、彼女の人生は、その願いとは真逆の運命を辿っていた。
「私はただ、人並みの幸せが欲しかっただけなのに……」
天窓を見上げると、雪が降っていた。多恵の心に蘇るのは、幼い頃の記憶である。
あれは、凍えるような寒い日だった。空は、これからの人生を暗示するかのように灰色の雲が覆っていた。母親は言葉をかけることなく、少女の手をそっと離した。
「お母さん……?」
少女は小さな声でつぶやく。母親は一瞬立ち止まり、肩を震わせていた。少女は母親の背中がだんだん遠くなるのを、じっと見つめていた……。
少女が立っていたのは、養護施設の前だった。彼女は幼い弟の手を握りしめ、戻ってくるはずのない母を待った。少女は、なぜ自分たちがここにいるのか理解ができなかった。
その時、ふと、頭に冷たいものが触れる。それは、彼女が初めて目にする雪であった。寒さに震える少女と弟は、お互いの温もりを求めて身を寄せ合ったが、次第に意識が遠のいていく……。
ゆっくり瞼を開けると、温かな部屋のベッドの上だった。
「目が覚めた?」
優しい声が届く。そこには穏やかに微笑む女性の姿があった。多恵は、この日から、児童養護施設で生活を始めることになった──。
神は幼い少女を救ったのか──それとも、新たな試練を与えたのか。
学校では、親のいない子というだけで、冷たい視線を向けられた。
多恵は人目を避け、いつしか目立たぬよう息を潜めて生きることを覚えた。
十六のとき、彼女の心に淡い想いが芽生える。それは、一輪の花のように静かに咲く。しかし、多恵を見つめる彼の瞳は、氷のように冷たく蔑み拒絶していた。
それから多恵は、生きるためだけに生き、愛は、遠い記憶へと沈んでいった。
そんな彼女の人生に、突如として、春が訪れる。
穏やかな風と共に現れたその人は、多恵を一人の人間として見つめ、愛してくれた。閉ざされた心は雪解けを迎え、季節は夏へと移ろい、やがて愛の結晶が宿る。
しかし、澄み切った青空は長くは続かず、再び木枯らしが吹き、彼女の心は凍てつく冬へと戻された──。
「あの女たちが、全てを壊し、私の人生を奪い去ってしまった……」
生まれながらにして、権力と財力に恵まれ、欲望のままに生きてきた傲慢な女たち──。
「──呪ってやる。復讐してやる。どんな手を使ってでも……必ず」
彼女は、心に誓った。燃え上がる復讐の炎は、誰にも消すことはできない──。
満月の夜。
妖しく満潮に導かれるよう、怨念に駆られた多恵は、天窓を見上げ一心不乱に祈りを捧げる。独房の中は冷気と静寂、そして、かすかな狂気が漂っていた。彼女の額には薄っすらと汗が滲むと、その横顔が白い月明かりに照らされる。
突如、鋭い風が吹き荒れ、窓が激しく砕け散ると──香ばしい風に乗って、大きな黒い影が現れた。
「──誰っ!?」
多恵は息を呑んだ──それは、漆黒の羽を持つ巨大な天狗だった。その眼は深く冷たく、彼女を見下ろすように闇の中で光っていた。
「あぁ……鋭く黝い眼光、雄々しい鼻……誇り高き、蒼い血を持つ天上人……」
震える身体から、多恵は絞り出すよう声にする。
「天狗様は、私の嘆きがわかるのですか……。あなた様がここに現れたということは、虐げられた者の心が叫んだからなのですね……。もし、そうならば、私に情けを……私に力を……、私に、復讐の力を……!」
多恵は天狗と視線を交わすと、執念に燃えた心の叫びをこめて復讐を誓い──魂を売った。
天狗は不気味な深い笑みを浮かべると、ゆっくりと手を差し伸べた──。
それから、どれだけの刻が経ったか、多恵は覚えていない。気が付くと、床には黝い羽根がひとつ落ち、彼女の身体には、疼くような痛みと、背中には赤黒い傷跡が刻まれていた──。
厳しい規律の下、砂を噛むような日々を過ごす女子刑務所。今そこで、ある問題が生じていた。それは、受刑者である多恵が妊娠していることが発覚したからだ。刑務官の監視を盗んで男性との接触はあり得ない。彼女が身籠の状態で服役したとは、時期からして不可能である。
しかし、彼女が妊娠していることは紛れもない事実であり、そんな不可思議なことが起こり得るのかと、刑務官たちは戸惑い、所長も頭を抱えていた。
「こんな事が世間に知れたら、警察の面子が丸つぶれだ!」
所長が怒りの声を上げた。
「いったい、どうやって……」
一人の刑務官が困惑した様子で呟く。
多恵は、上目づかいに刑務官を見ると、鼻で笑った。
「罪のない女を陥れた報いですよ……」
「──黙りなさい! お前はれっきとした犯罪者なのよ!」
刑務官の女が、多恵を威圧するが、彼女は動じることなく不敵な笑みを浮かべる。
「──何がおかしい!」
「彼方たちが何と言おうと、私のお腹の中で赤ん坊は育っているんです。その時が来たら、よろしくお願いしますね──」
女囚の出産は、外部の病院で処置をすることが常だった。生まれてくる子供の出生地が刑務所でないようにとの配慮からである。ただ、外部といっても殆どが警察病院へ送られるが、多恵に関しては、その事実を認めたくない警察の怠慢と面目から、郊外の古びた産婦人科へ送られることになった。
臨月を迎えたある日、多恵が病院に移送される。そのとき、彼女の口元が一瞬緩んだのを、刑務官は見逃さなかった。
彼女の謎めいた笑みは、まさに、復讐の第一歩が踏み出されたことを告げていた──。
つづく
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