飛行機雲が溶けるまで、僕は嘘をつき続ける

猫之丞

飛行機雲が溶けるまで、僕は嘘をつき続ける

あと五分。


 その短い時間が、僕たちに残された全財産だった。


​ 冬の名残を孕(はら)んだ風がプラットホームを吹き抜けるたび、彼女の長い髪がふわりと踊る。 いつもと同じ、少し甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐった。この香りを、僕の脳が記憶として保存できる期限は、もうすぐ切れる。


​「……快晴、だね」


「そうだね。 絶好の旅立ち日和」


​ 僕の独り言に、隣に立つ彼女が短く応える。


 空はどこまでも高く、残酷なまでに青かった。 この街から旅立つには、これ以上ないほどの日和と言えるだろう。 けれど、僕の心は重く湿った泥の中に沈んでいるようだった。



「ねえ、どうしたの?  顔が少し険しいよ。らしくないじゃん。 ほら、いつもみたいに笑ってよ」


​ 彼女が僕の顔を覗き込んできた。


 幼い頃、僕が転んで膝を擦りむいた時に「痛くないよ」と笑いかけてくれた時と同じ、優しくて、少しだけお節介な瞳。 その瞳に映る自分が、あまりに情けない顔をしていたから、僕は慌てて顔の筋肉を動かした。


​「そ、そうかな? そんなに険しい顔をしてたかな? ……うん。そうだね。険しい顔なんて僕らしくないね。……ほら、いつものスマイル。ピースまで付けちゃうよ」


​ 僕はそう言って、笑顔を作り、彼女に笑い掛けた。 引き攣った頬が痛い。 それが自分のついている嘘の大きさを物語っているようで、胸の奥が焼けるように熱かった。



「そう。その笑顔だよ。 私は、君のその笑顔が一番大好きなんだから」


​ 彼女は満足げに目を細めた。その「大好き」という言葉が、今の僕にはどんな刃物よりも鋭く突き刺さる。


 自然な笑顔なんて、作れるはずがない。 本当は、彼女に東京なんて行ってほしくないんだから。


ずっと、この街で、僕の隣で笑っていてほしかった。


​ 僕と彼女は、家が隣同士の、いわゆる幼馴染という奴だ。


 物心つく前から、僕たちは四六時中一緒に過ごしていた。ベランダ越しに声を掛け合い、夕食の匂いが漂ってくれば「今日はカレーでしょ?」なんて当てっこをする。そんな、空気のように当たり前な存在だった。


​ 彼女は、街の誰もが振り返るような存在だった。


とても可愛く、とても美人で、それでいて誰にでも分け隔てなく接する。そして何より、彼女には「歌」があった。


 彼女といつも一緒に過ごしていた僕は、周りの男子から常に嫉妬されていた。 けれど、僕はそれが誇らしかった。 彼女の特別席は、いつだって僕のものだと信じて疑わなかったからだ。


​ 僕と彼女は、これからもずっと一緒にいる。


 そんな根拠のない自信が打ち砕かれたのは、高校二年生のある日のことだった。


 放課後、夕焼けがオレンジ色に染め上げる音楽室。彼女はピアノの椅子に腰掛け、鍵盤を指でなぞりながらポツリと漏らした。


​「……ねぇ。私ね、高校を卒業したら、東京に行こうと思ってるの。……将来はアーティストになりたいって、昔から言ってたじゃん」


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


 確かに彼女はそんなことを言っていた。彼女の歌声は、今デビューしているどんなアーティストよりも、僕の心を震わせた。 彼女には才能がある。 それを誰よりも知っているのは、僕だった。


​「初めはね、ただの夢だって諦めてた。でも、私が歌を歌うたびに、君がいつも私の歌声を褒めてくれたじゃん。……だから私、自分の夢を、アーティストになる夢を追いかけてみようと思うんだ。……ねぇ。私の夢……応援してくれる?」


​「……えっ?」


​ 僕は彼女の言葉を聞いて、しばらくの間、呆然としてしまった。


彼女が、僕の傍からいなくなってしまう。


 ずっと一緒だと思っていた日々が、砂の城のように崩れていく音がした。 僕は彼女が昔から好きだった。 誰にも渡したくない、独占したい。そんな醜い感情が、喉元までせり上がってくる。


​(嫌だ! 東京なんて行かずに、ずっと僕の傍にいてくれ!)


​ 叫びたかった。 けれど、僕の視線の先にいる彼女の瞳は、真っ直ぐに未来を見据えていた。僕との思い出という名の「過去」ではなく、まだ見ぬステージという「光」を。


​「……? ねぇ、どうしたの?」


​ 彼女に呼び掛けられて、僕はハッと我に返った。


僕の愛が、彼女の翼をもぎ取るための鎖であってはならない。 僕がここで彼女を止めたら、彼女は一生、夢の残骸を抱えて生きることになる。そんなのは、僕の望む彼女の姿じゃない。


​「な、何でも無いよ!」


「そう? それなら良いんだけど。 だから、私の夢を叶えるのを応援してくれる?」


​ 僕は、自分の心に冷たい蓋をした。


「う、うん。分かったよ。僕は君の夢を、全力で応援する! だから頑張って!」


 僕はぐっと言葉を飲み込んで、彼女に最高の笑顔を向けた。


​「あ、ありがとう。君ならそう言ってくれると思ってた。……でね、あの、出来れば……」


「…………ん? 何?」


「……ううん。何でも無いよ。……私、頑張るから……」


そう言った彼女の表情が、一瞬だけ悲しそうに見えたのは気のせいだったのだろうか。


「この事は、まだ君にしか言ってないからね」


 彼女のその言葉だけが、壊れそうな僕の心を辛うじて繋ぎ止めていた。


​ それから、僕たちの「戦い」が始まった。


 彼女は東京へ行くための資金を稼ぐためにアルバイトを始めた。僕も当然のように、同じ店で働き出した。


「一人じゃ危ないからさ」なんて、ありきたりな理由をつけて。けれど本当は、彼女が東京に行くまでの一分一秒を、無理やりにでも共有したかっただけなんだ。


彼女は学校の放課後、音楽室を借りてボイストレーニングを続けた。


 僕はその練習に毎日付き合った。ピアノの横で、彼女の歌声を聴きながら、飲みかけのレモンティーがぬるくなるまで。 彼女の歌が磨かれていくたび、彼女が遠くへ行ってしまう実感が強くなり、僕の心は削られていった。


​ そして月日は無情に流れ、高校の卒業式を迎えた。


 僕は地元の大学に合格し、四月から大学生になる。彼女は三月末、いよいよ東京へと旅立つ。


​ そして、今。


 駅のホームに、東京行きの列車が滑り込んできた。


​ ……もうすぐ彼女とはお別れだ。


……言ってしまいたい。僕は君のことが好きなんだ! 東京になんか行かずに僕の傍にいてくれ!……と。


 けれど、これから夢という重い荷物を背負って旅立つ彼女に、僕の自分勝手な想いまで背負わせるわけにはいかなかった。


​ だから言わない。言えるはずがないんだ。


 到着した列車の扉が、「プシュー」と音を立てて開く。


​「……ほら、もう時間だよ」


​ 僕は彼女にそう言って、列車に乗ることを促した。背中を押す僕の手は、微かに震えていた。


​「……うん」


​ 彼女はキャリーバッグを引っ張りながら、列車の入り口に乗り込んだ。


 車内から、彼女が僕の方を振り返る。


​「……。私、必ず私の夢を叶えるから……必ず」


​「……うん。君なら絶対に大丈夫! 僕は君を信じてる! ずっとずっと君のことを応援してるから! だから……頑張れ!!」


​ 僕が精一杯の叫びを告げた後、彼女は僕に向かって何かを言おうとして、唇を小さく動かした。


 ……けれど。


 無情にも列車の扉は閉まり、彼女の最後の言葉を、僕の耳が拾うことはできなかった。


​ そして、彼女を乗せた列車は、駅をゆっくりと出ていった。


 僕は彼女を乗せた列車が見えなくなるまで、腕がちぎれるほど手を振り続けた。

 

 完全に列車が見えなくなった後、ホームには刺すような静寂が戻ってきた。


僕は、ふと空を見上げた。


​「……あ、……」


​ 真っ青な空だった。一点の曇りもない、吸い込まれそうな青。


 そこには、一筋の白い飛行機雲が長く伸びていた。


 ……あの飛行機雲がこの青空に溶けたら、僕も前を向けるのだろうか。


​ 彼女は、必ず成功し夢を叶えるだろう。それだけの実力が彼女にはある。 僕はそう信じているし、そんな予感がした。 こういう時の僕の予感は、不思議と当たるんだ。


 そして、もう彼女と僕は疎遠になる。 彼女と僕の時間は、二度と交わることはないだろう。


​ 僕はそっと瞼(まぶた)を閉じた。


 堪えていたものが溢れ、熱い雫が頬を伝った。


……彼女に、僕の涙を見られないで本当に良かった。


 「頑張れ」なんて言って送り出した僕が、こんなに惨めに泣いている姿なんて、絶対に見せたくなかったから。


​「……頑張れ。……頑張れ、……」


​ 独り言は、風にさらわれて消えていく。


 僕は……君のことを……ずっとずっと、応援しているから。


 

 頑張れ。


 僕は……君のことを……世界で一番……愛していました……。


​ 僕は自分の涙が枯れるまで、上を向いたまま、駅のプラットホームで立ち尽くしていた。


 空に溶けていく飛行機雲が、僕たちの最後の境界線のように見えた。



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