寂静掌話

のそり

第1話 僧侶と寺女中



明治二十年。

仲春でさえ、奥飛騨には雪が厚く残っていた。

急峻な稜線が続く山肌に、円峯山浄播寺えんぶざんじょうばんじは縋るように建っている。


かつて修験僧で栄えた霊場も、今は昔。

明治も半ばとなると、近隣の村からの寄進に頼るのみの小寺となっていた。


乏しいひえ蕎麦そばを持ち寄り、仏への供物を惜しまぬ檀家たち。

彼らに支えられ、寺は命脈を保ってきた。


だが、老骨に鞭打ち寺を守ってきた住職は、ついに高山たかやまの町から後継を招くことを決める。

明治の廃仏毀釈の嵐が去って十余年——。

虫の息だった山寺の灯火は、ようやく息を吹き返そうとしていた。


寂玄じゃくげんが、浄播寺に足を踏み入れたのはわずか十六の歳であった。

若い僧侶は、山門までの長い坂道を悠々と歩く。


高山から浄播寺まで、二日がかり。

だがその足取りに、旅の疲れは微塵も感じられない。

身のたけ六尺ろくしゃくを超す長身だが、骨身にはまだ幼さが残る。


門の前で合掌礼拝し、編笠を外した。


笠の影から現れた顔には、まだあどけなさが残っている。


「おや、ここではまだ梅が咲いている」


瑞々しい、少し掠れた声があがる。


寂玄は、抜きん出た長身ゆえに梅を見上げるのではなく、目を合わせるように眺めた。

白梅は彼の顔と同じ高さで咲き誇り、温もった昼光で雪のように輝いていた。


目を細めて見入っていた寂玄は、ふと小さな人影に気づく。


二間にけんほど先に、小柄な影が立っていた。


背丈は四尺半よんしゃくはんほどだろうか。

春の柔らかな光と梅花の白が、小柄な輪郭を清らかに照らす。

木綿の白手拭いを目深に被り、首の後ろで結んでいる。


近くの村の童女だろう。

華奢な身体つきに、自分が育った寺の小坊主たちを思い出す。

子供好きな寂玄は、思わず微笑みかけた。


和尚様はどちらかな?と尋ねようとしたその時、ある違和感に気づいた。


彼女がまとう藍染あいぞめ野良着のらぎには、子供特有の肩上げがない。

体つきに丸みこそあるが、幼い者のそれとは違う。


寂玄は寺育ちなので、これが童女ではなく、年頃の寺女中てらじょちゅうであるとすぐに悟った。


若僧じゃくそうは、慌てて頭を下げた。


「この度、こちらに入寺にゅうじすることとなりました、寂玄と申します。どうぞよろしくお願いいたします」


顔を上げると、寺女中は雪払いの箒を携えたまま彼を見上げていた。

表情は読めない。

ただ、黒々と丸い目を見開くばかりだった。

寂玄は、自分の体躯がどれだけ人に驚かれているかわかっていた。

なるべく威圧感を与えぬよう、読経の折より半ばに抑えた声で尋ねる。


「もしよろしければ、和尚おしょう様にお取次をお願いしても、よろしいでしょうか…?」


その言葉に、金縛りから解けたように彼女の唇が震えた。

なんとか聞き取れるほどの小さな声で、女中は答える。


「し、失礼しました。すぐにお呼びします…」


彼女は怯えた兎のように身を翻すと、本堂の陰へパタパタと駆けていった。


寂玄は、失礼がなかったかと自分の身なりを確かめる。

雪解け水で増水した川により脚半きゃはんは濡れ、法衣ほうえの裾は春泥しゅんでいまだらに汚れ、背中には乾いた汗が塩になって白く張り付いている。

しかも、ただでさえ威圧感の漂う背丈。

こんな薄汚れた大男に、初対面の彼女は笑いかけられたのである。


きっと怯えさせてしまった——胸の内でひそかに猛省した。


維新いしんの騒乱で、寺々の財は削がれたまま。

仏法の教えを人々に伝える事が急務だというのに、己の上背だけがむなしく際立っていた。


まずは、和尚様と寺女中殿に己を認めてもらおう、と決心しつつ庫裡くりへ向かう。

山の方から、冬の名残のような風が吹いてきた。

そのひやりとした清澄せいちょうさに、自分を見上げていた黒い瞳を、ふと寂玄は思い起こした。

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