第五章 「過去からの解放」

「良かった。

特に異常な検査結果は見当たりません。

肺に影が映っているように見えたので腫瘍を疑ったんですがね。

咳は吸入のお薬をお出ししますので、しばらく様子を見てください。

お大事に。」


——これで、何人目だろうか。


息の苦しさと止まらない咳で、もう心身ともにボロボロだった。

それでも、どこの病院に行っても

「特に異常は見られない」

と言われ続けている。


(もう、二年以上か……)


このまま永遠にこの状態が続くのだとしたら。

そう思うだけで、生きていくことが恐ろしく感じられた。


慣れないスマートフォンを何度も操作し、

「咳を治せる」と評判の病院を探して、ここまで来たというのに。


結局、今までと何一つ変わらない会話をされただけだった。


絶望に肩を落とし、重い足を引きずるようにして病院を後にする。

肺の奥まで息が届かず、胸の内側が苦しい。


ふと、視界の端に文字が入った。


——「原因不明の体調不良」


思わず足を止める。

(……メンタルクリニック、か)


これまで数え切れないほど病院に通った。

そのたびに、異常のない数値を示され、

「気にしすぎで咳が出ているのかもしれません。

 一度、心療内科を受診されてみては」

と言われたことも一度や二度ではない。


——原因不明の体調不良。

——メンタルクリニック。


その二つの言葉が、今の自分に不気味なほど当てはまっている気がした。


矢印に導かれるように歩き、

気づけば、エメラルドグリーンのドアの前に立っていた。


春の強い風が吹いた。

背中を押されるようにクリニックの中へ足を踏み入れると、明るい室内に一瞬、目が眩んだ。


ゆっくりと目を開け、辺りを見回す。

そこには、見慣れた病院の待合室があった。

ただ一つ違うのは、他に患者の姿がないという点だけだ。


受付に目を向けると、

『問診票を書き終わりましたら、ベルでお知らせください』

と書かれている。

その横には、バインダーに挟まれた紙とボールペンが置かれていた。


それを手に取り、長椅子に腰を下ろして書き始める。


この歳になると、「心療」や「メンタル」という言葉には、どうしても抵抗がある。

昔は、気合いと根性で何とかできるものだと思っていた。

心の病院なんて、甘えでしかないとさえ考えていた。


(まさか、こんな病院に来る日が来るなんてな……。

それにしても、メンタルクリニックだけあって、質問が変わっている)


咳のこと。

何年も治らないこと。

他の病院で検査を受けても、異常は何一つ見つからなかったこと。


それらを、淡々と記入していった。


(よし、書けた)


ベルを鳴らそうと立ち上がった、その時。


「ただいまー」


後ろから、場違いなほど明るい声が聞こえた。


振り返ると、


「あっ、ごめんなさい。患者さんがいらっしゃるとは思わなくて……。

こんにちは。すみません、お待たせしてしまいましたか?

問診票をお預かりしますね」


若い女性が、少し慌てた様子で声をかけてきた。

ここの受付の人なのだろう。


「いえ。ちょうど書き終わって、ベルを押そうとしたところです。

お願いします。」


そう言って、問診票を差し出す。


「相原様ですね。

ただいま先生に声をかけてきますので、もうしばらくおかけになってお待ちください」


「先生、患者さんがいらっしゃいましたよ」


目の前のパソコンでパズルゲームをしている御門先生に声をかける。


「うわっ、花村さん、おかえり。

今、白衣着るから待って」


そう言って、モニターの画面を慌てて診察用に切り替え、白衣を手に取った。


「じゃあ、お呼びしますね」


そう告げて、私は待合室に戻る。


「相原さん、どうぞお入りください」


咳がひどいようだ。

ここに来てからずっと、乾いた咳の音が途切れずに聞こえていた。


「ゴホ、ゴホ……」


咳をしながら、六十を過ぎたように見える男性が入ってきた。


その顔を見た瞬間、御門先生の動きが止まった。


「……っ」


小さく息を呑む。


その音を合図にしたかのように、御門先生と患者の視線が重なった。


「あれ……?

えっと、どこかで……」


彼は、そう言った。

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