透明な重力、その中心で
淡綴(あわつづり)
透明な重力、その中心で
完璧な調律が行き届いた空間には、独特の静寂が宿る。
朝、目覚めとともに意識に滑り込んできたのは、微かなパンの焼ける匂いだった。
キッチンへ向かうと、妹の瑞希(みずき)が、無駄のない動きで朝食を整えている。彼女の動作には、淀みというものがない。
「おはよう、兄さん。昨日は少し寝付くのが遅かったようですね」
「……おはよう。ああ、少し読書に熱中してしまってね」
席に着くと、皿が置かれる。 パンの表面は、いつもより濃い狐色に色づいていた。
「今日のは、少しよく焼けているね」
「ええ。昨日の兄さんは、そちらの方が進んでいるように見えましたから。香ばしい方が、今の兄さんの気分に合うかと思いまして」
瑞希は僕の向かいに座り、おだやかに微笑んだ。
彼女の観察眼は、時として僕自身の自覚を追い越していく。それは親切というよりも、一種の精密な計算に基づいた最適化のように思えた。
身支度を整えるために部屋に戻ると、机の上のペン立てが目に入った。
並んでいるペンのクリップの向きが、すべて一定の角度で揃えられている。昨夜の僕が、これほど几帳面に片付けた記憶はない。
クローゼットから出したシャツもそうだ。
袖を通すと、微かにいつもと違う、けれど僕の好みに完璧に合致した香りがした。
瑞希は僕のその日の体調や天候に合わせて、クローゼットに忍ばせる香りを変えている。彼女に尋ねれば、きっと「今日の兄さんには、この香りが一番馴染むと思いましたから」と、穏やかに微笑むに違いない。
学校へ向かう道すがら、瑞希は僕の半歩後ろを歩く。 付かず離れず、一定の距離を保つその歩調は、まるで僕という天体を中心に回る衛星のようだった。
「兄さん。今日の放課後は、少し早めに帰ってきてくださいね」
「何かあったっけ」
「いいえ。ただ、今日の兄さんは少しお疲れのようですから。家でゆっくり、私が淹れたお茶を飲んでいただきたいんです」
その言葉に、わずかな強制力も含まれていない。 けれど、僕は彼女の言う通りにするだろうという予感があった。
放課後、僕を呼び止めたクラスメイトの女子がいた。
彼女は何かを言いかけ、僕の背後に視線を走らせると、急に顔を強張らせて「……なんでもない」と立ち去ってしまった。
振り返ると、そこにはいつものように、穏やかな笑みを浮かべた瑞希が立っていた。
帰宅し、自分の部屋で着替えようとしたときだった。
脱いだ制服の襟裏に、見慣れない刺繍のような跡を見つける。 それは、ごく小さな、透明な糸で施された結び目だった。注意深く見なければ、指先に触れる違和感としてしか認識できない。
……いつからだろう。
瑞希が部屋に入ってきた。ノックの音は、僕の思考を遮らない完璧なタイミングだった。
「兄さん、お茶が入りましたよ」
「……瑞希。この襟の糸は、何だい?」
瑞希は僕の問いに驚く風もなく、むしろ愛おしげにその結び目を見つめた。
「気づいていただけて嬉しいです。それは、おまじないのようなものです。兄さんの世界が、余計なものに乱されないように」
「余計なもの?」
「ええ。兄さんに近づこうとする、不快なノイズ。……今日の放課後の方も、そう。あの方はもう、兄さんの視界に入ることはありません。私が適切に処置しておきましたから」
彼女は一歩、距離を詰めた。瑞希の瞳は、どこまでも澄み渡り、純粋な光を宿している。そこには悪意も、歪んだ加害欲求も存在しない。
あるのは、ただ一つの完成された「愛」だけだった。
「兄さんは、ただ健やかでいてくださればいいんです。選択も、決断も、煩わしい人間関係も。すべて私が引き受けます。兄さんの人生を、私が完璧に整えてあげますから」
彼女の手が、僕の頬を包み込む。 その温もりはあまりに心地よく、抗い難い。 僕が自覚していなかった「不快」さえも先回りして取り除いてくれる、至高の献身。
「兄さんの呼吸も、鼓動も、私だけが知っていればいい。……そうでしょう、兄さん?」
彼女の微笑みは、聖母のようであり、同時に、獲物を決して逃さない捕食者のようでもあった。
僕は、彼女によって美しく剪定された箱庭の中で、安らかな窒息を感じていた。
この透明な重力から逃れる術を、僕はもう、欲してはいなかった。
透明な重力、その中心で 淡綴(あわつづり) @muniyu
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