第二記録【小豆色とか言うな】
オフィスに戻った私は、逃げるようにワープロの画面に向かった。
休憩スペースでの出来事は、すべて白昼夢だったのかもしれない。
そう自分に言い聞かせようとしたけれど、無理だった。
『ちょっと洋子。姿勢、姿勢!』
私のデスクの横に、明菜が浮いているからだ。
彼女は私の肩に肘を置くようなポーズで、私の顔を覗き込んでくる。
『あんたのその猫背、見ててイライラするわ。女としての偏差値、マイナス15よ』
うるさいな。仕事中なんだから静かにしててよ。
私は明菜に毒づきながら、キーボードを叩く。
『あと、そのリップの色。昭和30年代の小豆色かしら? 血色が悪すぎて、顔色が「来世」に行ってるわよ』
ほっといてよ。
流行りの色なんて、私がつけたらオバケみたいになるだけだもの。
もう29歳なんだから
私が言い訳を並べると、明菜は「チッチッ」と舌打ちをした。
『年齢を言い訳にする女はね、細胞から老けるのよ。ほら、あの子を見習いなさい』
明菜がジュリ扇で指したのは、向かいの席の庶務課の女の子だった。
大学を出たばかりの二十四歳。ピチピチの肌に、聖子ちゃんカットがよく似合っている。
今、ハゲ頭の部長が彼女のデスクに寄りかかり、必要以上に顔を近づけて話していた。
いわゆるセクハラまがいの光景だけど、彼女は「やだぁ部長~」と愛想笑いをしている。
『肌の水分量、推定80%。部長の不快指数にも負けない若さのバリアね。それに引き換え……』
明菜は冷ややかな目で私を見た。
『あんたの肌、砂漠よ。ラクダが住めるわ』
……悪かったわね、砂漠で。
どうせ私は枯れてますよ。
明菜と口喧嘩をしているうちに、あっという間に時間は過ぎていく。
定時のチャイムが鳴ると、社員たちが三々五々と帰り支度を始めた。
窓の外はもう薄暗い。
私も帰らなきゃ。スーパーに寄って、夕飯の支度をして……。
ワープロの電源を落とし、ロッカーへ向かおうとした時だ。
「あれ、ないな……」
困ったような声が聞こえた。
振り返ると、高橋係長がキャビネットの前でしゃがみ込んでいる。
周りの人はもう帰ってしまって、この島には私と彼しかいない。
……どうしよう。
声をかけるべき?
それとも気づかないふりをして帰る?
『はい、ストップ』
明菜が私の目の前に立ちはだかった。
彼女の目が、獲物を狙う猫のように細められる。
『洋子、これは神様がくれた残業手当よ。行きなさい』
でも……。
『「でも」禁止。いい?ただ手伝うんじゃないわよ』
明菜は私の体をすり抜けて、高橋係長の背後に回った。
『接近して、覗き込む。そして……これを使うの』
空中に、新しいウィンドウが表示される。
【スキル習得:上目遣い Lv.1】
【効果:男の保護欲求を刺激する(成功率40%)】
上目遣いって……そんなアイドルみたいなこと、できるわけない!
『やるのよ。やらなきゃ一生、砂漠のままよ!』
明菜の罵倒に背中を押されるように、私は一歩、足を踏み出した。
「あ、あの……何かお探しですか?」
高橋係長が驚いたように振り返る。
「あ、佐々木さん。ごめんなさい、まだ残ってたんですね。実は、4月の会議資料が見当たらなくて」
「4月のでしたら、一番下の青いファイルの裏です」
「えっ」
私は彼の横に膝をつき、迷わずそのファイルを取り出した。
長年、雑用係として整理整頓をしてきた私の記憶違いじゃなければ、絶対にある。
「これですよね?」
差し出したファイルを見て、高橋係長が目を丸くした。
「すごい……!僕、30分も探してたのに。佐々木さんって魔法使いみたいですね」
魔法使い。
そんなキラキラした言葉、言われたことがない。
『今よ洋子!』
明菜の声が脳内に響く。
『顎を引いて!視線だけ上げて、彼の瞳を3秒見つめる!』
ええい、ままよ!
私は指示通り、少しだけ顎を引き、下から彼を見上げた。
「……お役に立てて、よかったです」
不自然じゃなかっただろうか。
首がつりそうだったけれど。
高橋係長は、ファイルを受け取る手を止めて、私を見た。
一瞬、時が止まったような静寂。
「佐々木さん」
「は、はい」
怒られる?
変な顔だと思われた?
「さっき言いそびれたんですけど。佐々木さんが淹れてくれるお茶……僕、すごく好きなんです」
彼は少し照れたように、視線をそらした。
「この会社、みんな忙しそうでピリピリしてるけど……あのお茶を飲むと、なんだかホッとするんですよね」
ドクン、とまた心臓が跳ねた。
私の淹れたお茶が、彼の役に立っている。
ただのルーチンワークだと思っていたことが、この人に届いている。
『ほらね。ヒット確認』
明菜が私の横で、ニヤリと笑いながら解説を始める。
『今のセリフ、社交辞令じゃないわよ。彼は「癒やし」を求めてる。貴女のその「所帯じみた雰囲気」が、逆に安心感を与えてるの。これを「母性アタック」と呼ぶわ』
母性アタック……。
嬉しさ半分、複雑さ半分だ。
でも、もう少しこの場所にいたい。
この甘い香水の匂いに包まれていたい。
そう思った瞬間、壁の時計が目に入った。
――17時45分。
あ。
スーパーの特売、終わっちゃう。
頭の中に、冷蔵庫の中身と、仏頂面で帰ってくる夫の顔が浮かんだ。
魔法が解ける時間だ。
「……失礼します。私、帰らないと」
私は慌てて立ち上がった。
ここで「もう少しお話でも」なんて言える身分じゃない。
私は人妻で、家政婦みたいな毎日が待っているんだから。
「あ、すみません引き止めて。お疲れ様でした」
高橋係長の声を背中で聞きながら、私は逃げるようにオフィスを出た。
胸のドキドキを、スーパーの買い物袋と一緒に押し殺して。
会社を出て、駅前のスーパーに立ち寄る。
店内は夕飯の買い出しに来た主婦たちでごった返し、ラジカセからは安っぽいBGMと「本日の特売!」というアナウンスが響いている。
「ママー! お菓子買ってー!」
「ダメよ、昨日買ったでしょ!」
子供の甲高い声。
カートがぶつかる音。
その喧騒の中を、私はカゴを下げて泳ぐように歩く。
今日の特売はアジの開きと、キャベツ。
「……あら? 洋子ちゃんじゃない?」
精肉コーナーで声をかけられた。
振り返ると、少しふくよかになった同級生の由美がいた。
背中には赤ん坊をおんぶし、カートには幼児を二人乗せている。
まるで戦車だ。
「あ、由美ちゃん。久しぶり」
「久しぶり~!相変わらず細いねえ、羨ましい。私なんてさ産後太りが戻らなくって」
由美は私の平らなお腹に視線を落とし、悪気のない笑顔で聞いてきた。
「洋子ちゃんちは、まだ?」
「うん……まあね。うちはのんびりしてるから」
「そっかあ。でも早いほうがいいよぉ?年取ると体力キツイし。旦那さん、子供欲しくないの?」
グサリ、と胸に刺さる。
昭和の価値観において「子供がいない主婦」は、それだけで半人前扱いだ。
「どうだろう……じ、じゃあ、夕飯あるから」
私は逃げるようにその場を離れた。
背中で「またねー」という声と、子供たちの鳴き声が遠ざかる。
いいわよね、幸せそうで。
カゴの中のキャベツが、急に重く感じた。
もし私に子供がいたら、今日みたいに若い男の子にときめいたりしなかったのかな。
育児に追われて、女でいる暇なんてなくて……。
そうすれば、この胸の穴も埋まっていたのかな。
『そう思う?』
不意に、野菜コーナーの棚の上に明菜が現れた。
彼女は積み上げられたトマトの一つを手に取り、弄ぶように放り投げた。
『アンタが感じてるのは「空白の恐怖」よ』
空白?
『そう。洋子のDNAはね、自分の器が空っぽなことに焦ってるの。子供という「未来」が入っていないから、代わりに「恋」という詰め物を探してる』
明菜は真っ赤に熟れたトマトを、私の顔の前に突き出した。
『このトマトみたいに、洋子は今、熟れすぎて腐りかけてる。誰かに食べてほしくて仕方がないのよ。それが子供だろうと若い男だろうと、脳にとってはどっちでもいい。とにかく埋めたいのよ、その空洞を』
……言い方。あんた本当にデリカシーない。
『事実はいつだって残酷でしょ?さ、キャベツ買ったなら行くわよ。
午後7時。
団地のドアを開けると、湿った空気が出迎えた。
まずはベランダに取り込んでおいた洗濯物を畳む。
夫の大きなトランクス、ヨレヨレの靴下、私の色気のない綿のパンツ。
畳の上に正座して、一枚一枚丁寧に畳んでいく。
『信じられない』
明菜が、夫のステテコをつまみ上げ顔をしかめた。
『なんでアンタが全部やってんの?未来の世界じゃ、男も洗濯するし、オムツも替えるわよ』
「はあ?何言ってんの。そんなのSF映画の話でしょ」
『マジよ。「イクメン」って言葉が流行語になるくらい、未来の男は家庭的よ。共働きで家事分担は当たり前。こんな風に妻に全部押し付けて、自分はテレビ見てるだけの男なんて……未来じゃ「産業廃棄物」扱いね』
明菜は呆れたように肩をすくめる。
「……ふん。未来はいいわね」
私は小さく呟いて、畳んだ洗濯物をタンスにしまった。
そんな優しい男、私の周りにはいない。
男は外で働き、女は家を守る。
それが私の知っている世界の全てだ。
台所に立ち、夕飯の支度をする。
アジの開きを焼き、豆腐とわかめの味噌汁を作る。
あとは昨日の残りのポテトサラダ。
包丁がまな板を叩くトントンという音が、やけに虚しく響く。
――午後9時30分。
夫はまだ帰ってこない。連絡もない。
まあ、いつものことだ。
私は食卓の椅子に座り、お気に入りのファッション雑誌を広げた。
ページの中では、バブル景気に浮かれたボディコン姿のモデルたちが笑っている。
私はほうじ茶を一口すすり、ふぅ、と息を吐いた。
……私、何待ってるんだろ
テーブルの上には、ラップをかけた冷めたアジの開き。
味噌汁もすっかり冷たくなって、膜が張っている。
高橋係長にお茶を出した時、彼はありがとうと言ってくれた。
私の淹れたお茶でホッとすると言ってくれた。
夫にそんなこと、もう何年も言われていない。
私が作った料理は、ただの燃料。
私が洗ったシャツは、ただの布。
そこに感謝もなければ、愛もない。
『……冷えるわね』
向かいの席に座った明菜が、ぽつりと呟いた。
彼女は茶化すこともなく、ただ頬杖をついて、冷めた味噌汁を見つめている。
『この部屋、クーラーもついてないのに、なんでこんなに寒いのかな』
私は何も答えず、冷めた味噌汁を一口飲んだ。
しょっぱい。
少しだけ、涙の味がしたような気がした。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(29)
職業:事務職兼、主婦もどき
現在のステータス
・メンタル:氷河期(夫への期待値ゼロ)
・性欲、ときめき:活火山レベル(マグマ溜まり確認)
・自己肯定感:著しく欠如。「私なんて」が口癖。
明菜の分析ログ
『子供がいない』という欠落感を、無意識に『若い男』で埋めようとしているわね。
夫(粗大ゴミ)との生活が冷えれば冷えるほど、
高橋くん(暖炉)への渇望が増していく。
罪悪感?
そんなもの、冷めた味噌汁と一緒に飲み干させればいいの
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
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