シナ・ダ
團子きくえ
プロローグ
「レジで会っても笑わないで」
と翻訳家のケイコが言ったとき、私は違う意味でドキッとした。
ついさっき「実は、スーパーでアルバイトをしようと思っている」とケイコに打ち明けられたときから動悸が激しい。その胸の高鳴りを感じさせないようにそっと厚手のコーヒーカップを置いた。
ここは住宅地の中にある個人経営のカフェ。ちょっと良い音楽はかかるし、若い店長が一生懸命焼き菓子を勧めてくるけれど、コーヒーは一杯500円台。だから、私やケイコのような暇を持て余せたフリーランスの中年のたまり場のようになっている。
いつも1杯のコーヒーで1時間は粘る。MacBookをカタカタすることもあるし資料の本を読むこともある。土日は混み合うものの、平日の昼間は子育てママか私たちのような中年フリーランスしか来ない。だから、店長も長居する私たちを大目に見てくれている。
とくに約束せずにここで会うケイコはご近所さんで年は私に近いはず。なんとなく同じフリーランス独身女臭を察知して仲良くなり、隣合うと会話を交わすようになった。仕事はたしか、海外の有名ファッション雑誌を翻訳していたと思う。
そのケイコが、だ。スーパーでアルバイトをするという。
ギャラの下落が止まらないのだそうだ。
「AI翻訳もあるからねえ」
「でも、文字数とかあるわけでしょ?」
「あるよ。でも、もうほとんどWEB掲載だもん。文字数なんていくらでも入るから」
おかげで全然儲からない。生活できない。
このギャラなら、親から受け継いだ一軒家の目と鼻の先にあるスーパーでアルバイトした方がマシだと。
「だから、レジで会っても笑わないで」
「もちろん。スルーするよ」
「ありがとう。そっちはどうなの?」
私の仕事はコピーライターだ。
「ひどいもんだよ。広告予算なんてどんどん削られちゃって」
「WEBの広告は?」
「あれはお金にならないよ」
制作はね、と心の中で付け加える。
独立してフリーランスになって15年。私が「クリエイターでござい」と20代の頃に培ったスキルにあぐらをかいている間に、仲間は会社で管理職になったり、営業に変わったり、マーケにいったり、どんどん大人の階段を登ってしまった。
気がついたら、新しい技術が分からない、AIに簡単に代替されてしまう、使えないアラフィフの私が残されていた。
もう手詰まりだ。
「私もなにかしようかな」
「スーパー良いよ、社割で10%引きで買えるらしい」
「なにそれ、いいね」
「朝にちょっと働くだけなら、本業に差し障らないしさ」
ケイコが言う。「いやなら、やめちゃえばいいんだし」
「そうだねわたしもやっちゃおうかなバイト」
と一息に言って、コーヒーを口に流し込んだ。
実はもうやっているのだ。品出しのバイトを、週5で。
シナ・ダ 團子きくえ @yomikiku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。シナ・ダの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます