第32話 ベルリンの多重帳簿
1. 招待状の裏書き:バート・テルツの噂
1943年夏。バート・テルツSS士官学校を卒業したハインリヒ・ヴェーバー中尉の手元には、一通の重厚な招待状があった。差出人はフォン・ローゼン男爵。ベルリンの軍需産業を裏で操る実力者だ。
男爵がハインリヒに目をつけたのは、士官学校の教官からの「苦情まがいの報告」がきっかけだった。
『伝統ある騎士道戦術を「放漫経営」と切り捨て、泥沼の迂回を「効率的な資産運用」と称する怪物がいる』
この噂が、戦局の悪化に焦りを感じていた実務家である男爵の興味を引いたのだ。「名誉を語る無能」より「数字を語る冷酷な男」を、男爵は求めていた。
2. 異質の降臨:ハインリヒ・スペシャル
ベルリン、ティアガルテン近くのローゼン邸。シャンデリアが輝き、ワルツが流れるその社交場に、ハインリヒが現れた。
周囲が息を呑んだのは、彼の185cmの長身だけではない。曹長時代から愛用するM40を徹底的に改造した、通称**「ハインリヒ・スペシャル」**の異様な完成度だ。
限界まで絞り込まれたウエストが描く逆三角形(V-Shape)。
喉元を締め上げるように高く聳え立った直立襟。
そして、膝下まで届く特注の、細く長いジャックブーツ。
左袖の**「Dirlewanger」**のカフタイトルが、美しき社交場に「前線の汚物」をぶちまけたような、暴力的なコントラストを生んでいた。
3. 男爵の査定:武器と帳簿
ローゼン男爵が、シャンパングラスを片手にハインリヒへ歩み寄る。
「……ヴェーバー中尉。我が甥(ローゼン大尉)から聞いている。貴公は戦場を『市場(マーケット)』と呼び、勝利を『配当』と呼ぶそうだな」
「……お言葉ですが、男爵。……死人を積み上げて何も得られない戦いは、ただの『破産申請』に過ぎません。私は賢明な経営者として、確実に利益が出る場所でしか引き金を引きません」
ハインリヒの冷淡な回答に、男爵は満足げに目を細めた。
「……面白い。貴公のような『掃除屋』なら、我が実家が支援する光学機器メーカーの試作品(赤外線暗視装置)を預けても、無駄に壊すことはあるまい。……中尉。今夜、ここへ招いたのは、その『貸付』の契約交渉のためだ」
4. 令嬢クララの接近:ヤンデレの萌芽
男爵との密談の間を縫うように、一人の令嬢がハインリヒの背後に現れた。
男爵の姪であり、社交界の華、クララ・フォン・ハルテンベルクだ。彼女は男爵と対等に渡り合うハインリヒの、感情の欠落した横顔に、これまでにない戦慄と魅力を感じていた。
「……ヴェーバー中尉。おじ様との『商談』は終わったのかしら? ……その襟の高さ、まるでお城の壁のようね。私なら、その壁をどう壊すか一晩中考えてしまいそうだわ」
ハインリヒは、彼女の熱を孕んだ視線を一切無視し、高く改修された襟を正した。
「……令嬢。……この壁は壊すためにあるのではなく、貴女のような『不採算な誘惑』を門前払いするためにある。……男爵。契約の詳細は後ほど。……今は、この喧騒の『経費(時間)』がもったいない」
ハインリヒがジャックブーツを鳴らして去る時、クララの瞳には「恋」ではなく、獲物を絶対に逃さない猟犬のような、暗く、執拗な光が宿った。
5. ヴィルヘルム通りの沈黙
ローゼン男爵との夜会から数日後。ハインリヒは、ベルリンの心臓部、ヴィルヘルム通りにある親衛隊本部の巨大な石造りの建物の前に立っていた。
男爵から手渡された一通の「紹介状」――それは、親衛隊本部部長ゴットロープ・ベルガーSS大将への謁見を許可する、地獄への通行証だった。
185cmの長身に、あの「ハインリヒ・スペシャル」を纏った男が廊下を通るたび、事務作業に追われる将校たちが一瞬、手を止めて見上げた。
高く聳え立つ襟と、磨き抜かれたジャックブーツの硬い音。その姿は、ベルリンの官僚的な空気の中に投げ込まれた、一振りの鋭い銃剣のようだった。
6. ベルガー大将の「監査」
大将の執務室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
ベルガー大将は椅子に深く腰掛け、ハインリヒが提出した「バート・テルツの成績表」と、ローゼン男爵からの推薦状を交互に眺め、不敵な笑みを浮かべた。
「……ヴェーバー中尉。オスカール(ディルレヴァンガー)からは『計算高い事務屋』だと聞いていたが……。なるほど、男爵が惚れ込むのも無理はない。貴公の瞳には、狂信的な『忠誠』ではなく、冷徹な『損益計算』しか宿っていないな」
「……お言葉ですが、大将。……崩壊しつつある市場(戦場)で、忠誠は何の担保にもなりません。……私に必要なのは、決済を完遂するための『資本』と、不渡りを出さないための『権限』だけです」
ハインリヒは高く改修された襟を正し、微塵も臆することなく大将を見据えた。
7. 人命のロンダリング(洗浄)ミッション
ベルガー大将は、一枚の極秘リストを机の上に滑らせた。そこには、特定のユダヤ人技術者や、有力な中立国にコネを持つ家族の名が記されていた。
「……密命だ。戦局は転換点を迎えている。我々の中には、万が一の『不渡り(敗戦)』に備えて、将来の連合国に対する債権を積み立てておきたい者がいる。……このリストの連中を、貴公の旅団に『使役兵(ヒヴィ)』として紛れ込ませろ」
「……つまり、公式な帳簿から彼らを消去し、私の管理下で『予備資産』として凍結しろ、と?」
「そうだ。貴公の部隊は最も目が届かず、最も生存率が低い。だが、貴公が管理すれば、彼らは『必要不可欠な労働力』として、軍の監査を逃れられる。……これは国家のロンダリングだ、中尉」
8. 執行官の要求:独占配給権
ハインリヒはリストを指先でなぞり、即座に「代価」を提示した。
「……承知いたしました。……ただし、この『不良在庫』の維持費は安くありません。……見返りに、ローゼン男爵の工場から出荷される最新鋭のMG42機関銃30挺、およびSd.Kfz.250(装甲無線車)2台を、我が第1突撃中隊に優先配備する許可を願います」
ベルガーは、若き中尉の不遜な要求に一瞬目を見開いたが、すぐに声を立てて笑った。
「……ハッハッハ! ユダヤ人の命を最新兵器と交換するか。……よかろう、ヴェーバー中尉。貴公に『独立採算権』を与えよう。……このミッションを完遂すれば、貴公は旅団内でオスカールに次ぐ、最強の『資本家』になるだろう」
ハインリヒは完璧な敬礼を捧げ、リストを内ポケットに収めた。
彼にとってこれは「善行」ではない。
親衛隊の黒幕に貸しを作り、最新兵器を手に入れ、かつ将来の「免罪符」を確保するという、人生最大のヘッジファンドの契約に過ぎなかった。
9. ベルリンの「キク」:異質の接待
ベルリン市内にひっそりと佇む高級料亭「キク」。そこは、戦時下の喧騒から切り離された、静謐な畳と障子の世界だった。
ローゼン男爵の仲介で、ハインリヒは視察のために来独していた日本陸軍の武官、大島大佐ら数名の将校を接待する場にいた。
185cmの長身のハインリヒは、正座を促されると、特注のジャックブーツを脱ぎ、迷うことなく畳に腰を下ろした。**「ハインリヒ・スペシャル」**の極限まで絞られたウエストと、喉元を締め上げるような高い襟が、日本の伝統的な空間の中で異常なまでのストイックさを際立たせていた。
10. 言葉の奇襲:独学の日本語
「……ヴェーバー中尉。貴殿のような最前線の将校が、なぜこのような場に?」
大島大佐が、通訳を介してドイツ語で問いかけた。
ハインリヒは、差し出された日本酒を冷徹な瞳で見つめ、一瞬の沈黙の後、驚くほど流暢な、そして静かな日本語で答えた。
「……大島大佐。通訳は不要です。……私は東洋の思想、そして『武士道』という名の精神的資産に興味があり、独学で学ばせていただきました」
一同に衝撃が走った。単に喋れるのではない。その日本語には、現代の日本人ですら失いかけているような、古風で硬質な響きがあった。
「……私の住むベラルーシの地獄では、欧州の論理は通用しません。……しかし、貴国の『葉隠』に記された『死に狂い』の精神は、私が現場で兵を運用する際の、最も効率的な行動指針の一つとなっております」
11. 壊れゆく帝国の「株価」
ハインリヒは、懐から「閻魔帳」ならぬ自作の戦況比較図を取り出し、武官たちの前に広げた。
「……武官殿。率直に申し上げましょう。今の独ソ戦の損益分岐点は、すでに致命的な赤字(デッドライン)を越えています。……ドイツの工業力という『資本』は、広大なロシアの泥沼という『放漫投資』によって、急速に減価償却されています」
通訳を介さぬ、剥き出しの言葉が武官たちの心に突き刺さる。ハインリヒは、酒を煽ることなく続けた。
「……勝利という配当を期待するのは、もはや不合理です。……今、我々に必要なのは、いかにして『敗戦』という倒産劇を、最小限のコストで乗り切るかというリスクヘッジです。……大佐。貴国の潜水艦ルート、および中立国スイスを経由した情報のやり取り……。私という『個人』を、その帳簿に載せていただけませんか?」
12. 侍と執行官の「握手」
大島大佐は、この若きSS中尉が放つ、侍のようなストイックさと商人のような冷徹な計算高さに、深い畏怖と共感を覚えた。
「……ヴェーバー中尉。……貴殿のような男が我が陸軍にいたなら、これほどまでの泥沼にはならなかっただろう。……承知した。貴殿を、我が方の『特別な情報源(アセット)』として登録しよう」
ハインリヒは無言で一礼し、高く改修された襟を正した。
ベルガー大将、ローゼン男爵、そして日本の武官。ハインリヒはわずか数日のベルリン滞在で、敗戦後をも見据えた「世界規模の多重帳簿」を完成させたのだ。
料亭を出る際、ハインリヒは磨き抜かれたジャックブーツに足を戻し、夜空を見上げた。
背後には、彼を熱烈に追いかけ、料亭の門の外で震える手で扇子を握りしめている、あのヤンデレ令嬢クララの気配があった。
13. 精算の後の「冷却」
日本武官との会談を終えた深夜。ハインリヒ・ヴェーバーは、高級料亭「キク」を後にし、ベルリンの喧騒に紛れた。
彼はそのまま真っ直ぐホテルへは戻らず、煤けた路地裏のバーで、一夜限りの「逃出口(アバンチュール)」を探した。
「……そこの貴方、素敵な制服ね。……でも、目がちっとも笑ってない」
声をかけてきたのは、場慣れした年増の娼婦だった。ハインリヒは185cmの長身で彼女を見下ろし、無造作に高価な紙幣を数枚差し出した。
「……私の目を見る必要はない。……私はただ、この数日間で使いすぎた脳を、数時間の『無知』で冷却したいだけだ」
彼は彼女を連れ、名もなき安ホテルの一室へ入った。
そこでの行為は、愛でも情事でもなかった。
**「ハインリヒ・スペシャル」**の野戦服を丁寧に脱ぎ、椅子に掛け、高い襟を保護するように置く。それは戦場の整備兵が、過熱した機関銃の銃身を交換するような、事務的で、それゆえに酷く空虚な「作業」だった。
14. 影に潜む「狂気の株主」
同じ頃。ホテルの向かいの街灯の影に、一台の黒い乗用車が止まっていた。
後部座席で、震える手で扇子を握りしめているのは、クララ・フォン・ハルテンベルクだった。彼女は夜会の夜から、私立探偵を雇ってハインリヒの動向を秒単位で追わせていたのだ。
「……あんな安い女で。……私という『特上の資産』を拒絶しておきながら、あんな路地裏の屑をその腕に抱くというの?」
彼女の脳裏には、ハインリヒの冷徹な言葉がリフレインしていた。
『貴女の家柄は、私のマーケットでは価値を持ちません』
拒絶されればされるほど、彼女の中の「所有欲」は黒い炎となって燃え上がった。ハインリヒが自分を無視し、死の世界(ベラルーシ)へ帰ろうとすればするほど、彼女は彼を自分の手で「破産」させ、自分だけの「専属債務者」にしたいと願うようになった。
「……いいわ、中尉。……貴方がそうやって自分をメンテナンスして、再び地獄へ戻るつもりなら。……私もその帳簿の中に、無理矢理にでも『名前』を書き込んであげる」
15. 境界線の向こう側
翌朝。ハインリヒは、一分の隙もなく**「ハインリヒ・スペシャル」**を着込み、ホテルのロビーに現れた。
ジャックブーツの音を響かせ、正面玄関を出た瞬間、冷たい風が彼の頬の傷を撫でる。
彼は不意に足を止め、背後の気配――自分を焼き尽くすような視線の主――に、静かに語りかけた。振り返ることもしない。
「……令嬢。……ストーカー(不良在庫)を抱えるのは、私の美学に反する。……地獄の入り口まで追いかけてくるというなら、覚悟しておけ。……私の帳簿に載ったものは、例外なく『死』か『再生』の二つに一つしか選択肢はない」
ハインリヒはそのまま、待機させていた軍用車両に乗り込んだ。
車内には、ベルガー大将から預かった「ユダヤ人家族のリスト」と、ローゼン男爵からの「最新暗視装置」の目録。そして、日本武官からの「隠し暗号表」。
「……ハンスが待ちくたびれているだろう。……ベルリンの精算は、これですべて終わった」
16. 出発:東部戦線への片道切符
ベルリン駅。蒸気機関車が真っ黒な煙を上げ、鉄路を揺らす。
ハインリヒは、高く改修された襟を正し、二度と戻らないかもしれない文明の都を、一瞥もせずに列車に飛び乗った。
プラットホームの端。
群衆の中に、クララ・フォン・ハルテンベルクの姿があった。
彼女の手には、**「看護婦志願」**と書かれた封筒が握りしめられていた。
「……さようなら、私の死神。……次に会う時は、貴方の流す血で、私の帳簿を埋めてあげるわ」
列車は咆哮を上げ、ハインリヒ・ヴェーバーを乗せて、再び泥と死の支配するベラルーシへと加速していった。
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