第31話 監査役、教科書を解体す
1. 完璧な「聴講生」の違和感
バート・テルツの重厚な講堂。
教壇に立つシュミット少佐は、東部戦線の地図を指し示し、勇壮な包囲殲滅戦の理論を説いていた。
教室の最後列、185cmの長身を折り曲げるように座るハインリヒ・ヴェーバー少尉は、誰よりも深く、そして静かにその講義を聴いていた。
**「ハインリヒ・スペシャル」**の高く聳え立つ直立襟が、彼の顎を支え、表情を読み取らせない。
彼は一度も私語をせず、一見すれば模範的な学生だが、その瞳だけが「戦術」を「帳簿の数字」に変換する冷徹な光を放っていた。
「……ヴェーバー少尉。……先ほどから私の図解に、何か疑問点でもあるのかね? 貴官の視線は、少々……批判的だ」
少佐が不快感を押し殺しながら問いかけた。
2. 慇懃無礼な「監査」の開始
ハインリヒは、特注のジャックブーツの音を立てぬよう、極めて優雅に立ち上がった。
「……滅相もございません、シュミット少佐。……貴官の説かれる『側面突破による包囲網の形成』。……それは実に美しく、芸術的ですらあります。……ベルリンの地図の上であれば、まさに完璧な正解(利益確定)と言えるでしょう」
ハインリヒは軽く頭を下げたが、その言葉には隠しきれない毒が含まれていた。
「……ただ、一兵卒から這い上がった実務家として、一点だけ確認させてください。……この突撃計画において、第3大隊に割り当てられた『減価償却費』――つまり、戦力維持が不可能になるまでの損耗許容率は、何パーセントに設定されているのでしょうか?」
3. 「血のコスト」の算出
「……損耗許容率だと? ヴェーバー少尉、我々は勝利のために全力を尽くすのだ。最初から損害を計算に入れて戦う士官がどこにいる!」
少佐の語気が強まる。ハインリヒは表情を変えず、むしろより一層丁寧な口調で続けた。
「……お言葉ですが、少佐。……経営において、コストを無視した投資は『放漫経営』と呼ばれます。……この作戦が、たった一つの村落を奪還するために、一個連隊の基幹兵力を失うものであれば、それは『勝利』ではなく『破産』です」
ハインリヒは、自分の胸にある一級鉄十字や歩兵突撃章を、まるで他人の所持品のように冷静な目で一瞥した。
「……私のいたベラルーシの泥沼では、名誉という名の無形資産を重視した指揮官ほど、部下という名の貴重な資本を無駄に溶かし、結果として戦線を不渡りにさせました。……少佐、この教室には、パルチザンが地雷を埋めるための『計上外コスト』が反映されていないように見受けられますが……私の勘違いでしょうか?」
4. 凍りつく講堂
講堂は、水を打ったような静寂に包まれた。
少佐は言葉を失い、ハインリヒの高く改修された襟と、そこに刻まれた「Dirlewanger」のカフタイトルを凝視した。
ハインリヒの態度は、どこまでも慇懃であり、軍規上の不備は何一つない。しかし、その中身は少佐の軍人としてのプライドを完膚なきまでに「監査」し、否定するものだった。
「……貴重な講義を中断させ、失礼いたしました。……どうぞ、素晴らしい『理想の戦術』を続けてください。……私はただ、この学校が、将来のドイツ軍に多額の『焦げ付き(無駄な死)』を負わせないことを願っているだけですので」
ハインリヒは再び深く椅子に座り、閻魔帳にペンを走らせた。
隣の席の候補生たちは、生きた心地がしないまま、ハインリヒの横顔を盗み見るのが精一杯だった。
5. 昼食会の「格差」
講義の後の大食堂。銀の食器が触れ合う音が響く中、候補生たちの話題は最後列に座っていた「あの男」で持ちきりだった。
ハインリヒは、喧騒から離れた窓際の席に一人で座り、配給された食事を淡々と口に運んでいた。
**「ハインリヒ・スペシャル」**の絞り込まれたウエストと、高く聳える襟。
彼がそこに座っているだけで、周囲のテーブルからは話し声が消え、候補生たちは遠巻きに彼を「査定」していた。
「……見たか、さっきの少佐への物言い。……少尉の分際で、まるで師団参謀のような口ぶりだったぞ」
「……カフタイトルを見たか? 『ディルレヴァンガー』だ。あそこは人間を殺す前に、まず良心を殺す場所だという噂だぞ」
ハインリヒは、彼らの視線を「低収益な雑音」として処理し、閻魔帳にバイエルンの物資供給状況をメモしていた。
6. 若きエリートの接触
そこへ、一人の若者がトレイを持って近づいてきた。
将来を嘱望される名門出身の候補生、ルックナーだ。彼は恐怖に顔を強張らせながらも、ハインリヒの前の席に座った。
「……ヴェーバー少尉。……失礼ですが、先ほどの講義での『損耗許容率』の話……。あれは、実体験に基づいた数字なのですか?」
ハインリヒは食事を止め、ゆっくりと顔を上げた。
185cmの長身から放たれる威圧感に、ルックナーは思わず息を呑む。至近距離で見るハインリヒの頬の傷は、美しきバート・テルツには存在しない「死の刻印」そのものだった。
「……ルックナー候補生。……数字は嘘をつかない。……だが、戦場という市場(マーケット)では、君たちがベルリンで教わった『簿価』と、現場での『時価』には、天と地ほどの開きがある。……それを知らない士官は、部下という名の資本を無駄に溶かす、無能な経営者だ」
ハインリヒの声は懍としており、ルックナーを「将来の負債」として冷徹に見つめていた。
7. 聖域の「毒」
そこへ、別のエリート候補生たちが割って入った。
「……ヴェーバー少尉、貴公の合理主義は、親衛隊の精神を冒涜している! 我々は勝利という栄光のために戦うのであって、計算のために戦うのではない!」
ハインリヒは、特注のジャックブーツを鳴らして静かに立ち上がった。
彼が立ち上がると、食堂の空気そのものが重く沈み込んだ。
「……栄光、か。……それは素晴らしい『無形資産』だ。……だが、栄光では冬の寒さを凌げず、栄光では弾薬を補充できない。……君たちがその『誇り』とやらでパルチザンを説得できるなら、私は喜んでこの席を譲ろう」
ハインリヒは、絞り込まれた逆三角形の背中を見せつけながら、食堂を後にした。
彼が去った後、食堂には奇妙な沈黙と、拭い難い「死のリアリズム」が毒のように残された。
8. 監査役の独白
校舎の裏手、アルプスの山々が見渡せるテラスで、ハインリヒは一人で煙草を燻らせた。
高く改修された襟が、バイエルンの冷たい風を遮る。
「……ハンス、見ていろ。……この温室育ちの苗木たちが、最初の吹雪(演習)でどれほど無様に折れるか。……その折れた枝を、俺がどう『リサイクル』してやるか……」
ハインリヒの瞳には、かつて自分が焼き払ったベラルーシの村々の光景が重なっていた。
彼はすでに、次の「演習」という名の取引において、誰を「損切り」し、誰を「資産」として残すかの選別を始めていた。
9. 演習開始:理想の布陣
バイエルンの深い針葉樹林。演習の課題は「伏撃を仕掛けてくるパルチザン部隊(教官チーム)の排除と拠点の確保」である。
指揮を執るのは、食堂でハインリヒに反発した保守派の筆頭、フォン・ベルク候補生だ。
「……各小隊、規定通りの散開隊形を維持せよ! 騎士の誇りを持って、正面から敵の卑劣な罠を粉砕するのだ!」
ベルクの号令の下、候補生たちは泥に汚れるのを嫌うかのように、美しく整列して森へ進む。
最後尾。ハインリヒは、**「ハインリヒ・スペシャル」**の襟を立て、特注のジャックブーツで無造作にシダを踏み越えながら、その様子を眺めていた。
「……ルックナー、メモをしておけ。……あれが『不渡り確定の投資計画』だ」
隣を歩くルックナー候補生は、ハインリヒの放つ冷徹な殺気に当てられ、顔を青白くさせていた。
10. 「見えないコスト」の取立て
パァァァン!!
森に空砲の音が響く。教官チームの狙撃だ。
正面から進んでいたベルクの小隊は、教科書通りの「散開と反撃」を試みるが、事前に仕掛けられていた模擬地雷と側面からの集中射撃により、次々と「戦死」判定を受けていく。
「……くそっ、卑怯な! 正面から戦え!」
ベルクの怒号が響くが、実戦経験のない彼らにとって、姿の見えない敵は「計算外の負債」でしかなかった。
「……ヴェーバー少尉! 貴公も予備兵力だろう、何をしている、早く加勢しろ!」
呼びかけられたハインリヒは、ゆっくりと煙草を揉み消し、高く改修された襟を正した。
「……断る。……全損が確定している部門に追加融資(加勢)をするほど、私はお人好しではない。……ルックナー、我々は『別ルート』でこの物件を処理する」
11. ヴェーバー流「強引な買収」
ハインリヒは、ベルクたちを見捨て、自らの分隊を率いて演習区域の外縁部――本来は「進軍ルートではない」とされる急斜面の湿地帯へと突き進んだ。
「……少尉! ここは泥沼です、制服が台無しになります!」
「……制服のクリーニング代と、命の価格。……どちらが安いか計算しろ、ルックナー」
ハインリヒは泥に膝まで浸かりながら、一切の躊躇なく突き進む。
そして、敵拠点の「背後」にある、教官たちが休憩所として使っていたテントの裏に音もなく現れた。
ハインリヒは、空砲を装填したMP40を構えることさえせず、近くにあった「演習用の燃料缶(空)」を蹴り飛ばし、大きな音を立てた。
「……チェックメイトだ、教官殿。……拠点の背後の『在庫』は、今すべて私が買い叩いた」
12. 演習終了:汚れた「ハインリヒ・スペシャル」
演習終了の笛が鳴る。
正面突破で全滅判定を受けたベルクたちは、傷一つない制服で項垂れていた。
対して、最短距離で拠点を制圧したハインリヒは、膝下が泥で真っ黒に汚れ、高く聳える襟にも跳ねた泥が付着していたが、その瞳には勝利の「利益」だけが宿っていた。
「……ヴェーバー少尉! 貴公、演習ルートを無視して湿地を通るとは何事だ! そんなのは戦術ではない、ただの卑怯な横着だ!」
詰め寄るベルクに対し、ハインリヒは泥のついたジャックブーツを鳴らし、冷淡に言い放った。
「……ベルク候補生。……戦場という帳簿に『卑怯』という項目はない。……あるのは『生存(黒字)』と『死(赤字)』の二つだけだ。……君は綺麗な制服のまま墓に入りたかったようだが、私は泥を被ってでも、次の取引(作戦)に進む方を選ぶ」
ハインリヒは、泥のついたカフタイトル**「Dirlewanger」**を誇らしげに一瞥すると、驚愕する教官たちを置き去りにして、悠然と引き揚げていった。
13. 教官室の紛糾
演習後の夜。教官室には、重苦しい沈黙と、煙草の煙が充満していた。
机の上には、ハインリヒが提出した「演習報告書」が置かれている。それは軍の公式フォーマットではなく、まるで企業の収支報告書のような構成だった。
「……信じられん。ベルクたちの小隊を『回収の見込みのない負債』と断じ、自らは演習区域外の湿地帯を通ってショートカットしただと?」
シュミット少佐が、忌々しげに書類を叩いた。
「しかし、少佐。結果だけを見れば、ヴェーバー少尉の分隊は教官チームを完全に無力化しました。損害判定はゼロです。これは本校の歴史でも例のない、圧倒的な『効率』ですぞ」
別の若手教官が、ハインリヒの戦術に隠れた合理性に、恐怖混じりの感銘を漏らした。
14. 執行官の「最終弁論」
ノックの音とともに、ハインリヒが部屋に入ってきた。
泥を完璧に落とし、再び鋭利なシルエットを取り戻した**「ハインリヒ・スペシャル」**。
彼は高く聳える襟を正し、185cmの長身で、座っている教官たちを見下ろすように立った。
「……ヴェーバー少尉。貴官の行為は、騎士道精神、および戦友との連帯責任を著しく欠くものだ。……何か弁明はあるか?」
「……弁明、ですか? 私はただ、与えられた『軍事資本』を毀損させず、目標という『配当』を得ただけです」
ハインリヒの声は、どこまでも平坦で冷たかった。
「……もし私がベルク候補生を救うために湿地を避けていたら、私の分隊も泥沼の消耗戦に巻き込まれ、今頃は全員が『戦死(破産)』していたでしょう。……教官、死んだ騎士に、どんな市場価値があるとお考えですか?」
15. 「ハク」と「毒」の等価交換
シュミット少佐は言葉に詰まった。ハインリヒの論理には、感情が介在する隙間が1ミリもなかった。
「……貴様は、バート・テルツに何をしに来た? 技術を学ぶ気がないのなら、今すぐミンスクの泥沼へ帰れ!」
「……誤解しないでいただきたい。私は、この学校の『信用(ブランド)』を買いに来たのです。……私がここを卒業し、襟に正式な『士官の証』を刻めば、私の行う『冷徹な経営』は、旅団内でより強固な権限を持ちます」
ハインリヒは、カフタイトルの**「Dirlewanger」**に指を這わせた。
「……私は、この聖域を汚しに来たのではありません。……戦場という地獄で生き残るために、バート・テルツの美名を『利用』しに来ただけです。……卒業証書をいただけますか? さもなくば、私は別のルートで『実績』を証明するまでです」
16. 聖域の敗北
数日後。ハインリヒの評価は「戦術理解において異端、しかし結果において卓越」とされ、異例の速さで短期課程の修了が認められた。
校門を出るハインリヒ。
彼の背中を、ルックナーをはじめとする多くの候補生たちが、畏怖と、どこか羨望の混じった眼差しで見送っていた。
「……少尉! ……私もいつか、貴方のような『帳簿』をつけられるようになりますか!」
ルックナーの叫びに、ハインリヒは足を止めず、わずかに手を挙げた。
「……ルックナー。……私のようになりたければ、まず『自分』という資産を、誰よりも安く買い叩くことだ」
ハインリヒ・ヴェーバーは、バート・テルツに「実戦の毒」という消えない汚れを残したまま、再び列車へと乗り込んだ。
彼の手元には、望んでいた「正統な士官」としての証明書――。
これを持って、彼はいよいよ**「中尉」**として、拡大するディルレヴァンガー旅団という巨大な欲望の渦へ、真の執行官として帰還する。
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