第29話 戦略的投資と、次なる契約

1. 「利益(戦果)」の再投資計画

 1943年4月下旬。泥濘期が終わりを告げようとし、地面が辛うじて固まり始めた頃。

 ハインリヒは、新調された士官用野戦服の襟を正し、大隊本部の「役員室」へと向かっていた。

 手には、過去数週間の「業務報告書(戦果報告)」。そこには、装甲車を駆使して守り抜いた補給路の数々と、パルチザンの拠点を「清算」した正確な数字が並んでいる。

「……シュピース、本気か? あの『オーナー』に、士官学校に行かせろなんて言い出して、機嫌を損ねなきゃいいんだが……」

 廊下で待機するハンスが、珍しく不安げに囁いた。

「……ハンス。……大隊が『軍団』から『連隊』、そして将来的に『師団』へと拡大するなら、本社(ベルリン)は必ず『正規の教育を受けた士官』を送り込んでくる。……その時、俺たちが『ただの野蛮な懲罰兵』のままでいれば、即座にリストラ(最前線での使い捨て)だ。……生き残るためには、俺自身が『正規の箔』を付けるしかないんだよ」

2. ディルレヴァンガーとの「人事交渉」

 部屋に入ると、大隊長オスカール・ディルレヴァンガーは、相変わらずシュナップスの瓶を横に置き、血走った目で地図を睨んでいた。

「……ヴェーバー少尉。……貴様の装甲車が、国防軍の連中から『ディルレヴァンガーの死神』と拝まれているそうだな。……おかげで、連中からの物資の融通(横領)が随分とスムーズになったぞ」

「……光栄です、閣下。……ですが、この『事業』をさらに拡大し、閣下の地位を盤石なものにするためには、一つ、大きな欠陥(リスク)があります」

 ディルレヴァンガーが、獲物を狙う猟犬のような目でハインリヒを見上げた。

「……欠陥だと? 言ってみろ」

「……『格』の問題です。……我が部隊が師団へと昇格する際、親衛隊指導部(ヒムラー)は必ず、貴方の指揮権を脅かすような『頭の硬い正規士官』を送り込んできます。……それを防ぐには、閣下の息がかかり、かつ『正規の教育を受けた右腕』が、組織の要所に座っている必要があります」

 ハインリヒは一歩踏み出し、閻魔帳の代わりに一通の「推薦状の草案」を差し出した。

「……私を**バート・テルツ(SS士官学校)**の短期選抜課程に送り込んでください。……私が『正規の看板』を背負って帰還すれば、閣下を蔑むベルリンの連中を、その理論と実績で黙らせてみせましょう」


ハインリヒはあえて、磨き上げられた長いブーツの踵を打ち鳴らし、完璧な挙手注視を捧げた。 その姿は、泥塗れの特務部隊の中にあって、異様なほど「正規軍」以上に「正規」であった。

ディルレヴァンガーは、その皮肉なほど完璧な軍人儀礼を、シュナップスの混じった息を吐きながら眺めた。

「……小綺麗な格好をしおって。貴様、その袖に巻いた不吉な名前(カフタイトル)を、本部のエリートどもに見せびらかすつもりか?」


3. 「地獄の奨学金」の承諾

 ディルレヴァンガーは、しばらくの間、無言でハインリヒを見つめていた。その沈黙は、処刑宣告の前触れにも、あるいは狂気の賛同にも見えた。

 やがて、彼は喉を鳴らして笑い出した。

『……ハハハハ! 貴様、この泥沼の戦場を捨てて、バイエルンの綺麗な学び舎へ行こうというのか! ……だが、面白い。……学問を知った悪党ほど、使い勝手のいい道具はないからな』

 ディルレヴァンガーは、汚れた手で推薦状に乱暴な署名を書き込んだ。

『……認めてやろう。……ただし、ヴェーバー。……学校にいる間も、貴様の「中隊(チーム)」はここに残す。……もし貴様が卒業して戻る前に、こいつらが全滅していれば、貴様の「少尉」という肩書きも、卒業証書と一緒に焼き捨ててやるからな』

「……承知いたしました。……最高の『利息』を付けて、戻ってまいります」


4. 暫定管理職(ハンス)への権限委譲

 士官学校への出発前夜。ハインリヒは、自らの装甲車(Sd.Kfz.251)のハッチに腰掛け、ハンス・ゲルバー曹長を呼び出した。

 二人の間には、パルチザンから略奪した最高級のウォッカと、ハインリヒが常に持ち歩いていた「閻魔帳」が置かれていた。

「……ハンス。俺がいない間、この中隊(組織)の全権を貴様に託す。……これは、俺のこれまでの全てのノウハウを記した『引継ぎ書』だ」

 ハインリヒは、数々の修羅場を共にした閻魔帳をハンスに差し出した。そこには、弾薬の隠し場所、国防軍への賄賂の送り方、ディルレヴァンガー大隊長を怒らせないための「地雷原」の避け方が、緻密な数字と共に記されている。

「……重てぇな、シュピース。……いや、少尉。……俺は現場の叩き上げだ。あんたみたいな『経営判断』ができるかどうか……」

「……できるさ。貴様は一度、正規SSの曹長を上り詰めた男だ。……いいか、ハンス。俺が戻るまでのノルマは一つだけだ。……『全員、生きていろ』。……一人でも欠ければ、俺が士官学校で手に入れる卒業証書は、ただの紙屑になる」

5. 社員(部下)たちへの激励

 ハインリヒは、焚き火の周りに集まったヨハン、ミュラー、ハインツたちを見渡した。彼らの胸には、二級鉄十字勲章が誇らしく光っている。かつての「泥を啜る敗残兵」の面影はどこにもない。

「……諸君。俺はしばらくの間、ベルリンの連中を黙らせるための『箔(ハク)』を付けに、故郷へ戻る。……その間、指揮はハンス曹長が執るが、判断の基準は常に俺が教えてきた通りだ」

 ハインリヒは焚き火の明かりの中で、鋭い視線を一人ひとりに投げかけた。

「……無意味な勇気で死ぬな。……効率的に殺し、確実に物資を奪い、そして何より『生き残るための計算』を止めるな。……俺が戻った時、この中隊がディルレヴァンガー最強の『稼ぎ頭』であることを期待している」

「……少尉! 戻ってこられる時は、本物の『将校』なんですね!」

 ヨハンが、少し寂しそうに、しかし期待に満ちた目で言った。

「ああ。……その時は、貴様らにもっとマシなメシと、もっと強力な武器を『配当』してやる。……約束だ」

6. 投資の旅立ち

 翌朝。霧の立ち込める中、大隊本部の門前には一台の軍用車両が待機していた。

 ハインリヒは、高く改修した襟を正し、クラッシュキャップを深く被り直した。

 腰に吊るした、ディルレヴァンガーから授与された「将校用拳銃(ルガーP08)」の重み。胸の一級鉄十字勲章。

 彼は一度だけ振り返り、泥濘の中で敬礼を送るハンスたちを見つめた。

「……ハンス、頼んだぞ」

「……へっ、任せな。……戻ってきた時に『倒産』してたら、笑ってくれよな」

 車両が動き出す。

 地獄の戦場を背に、ハインリヒ・ヴェーバーは「エリート」の階段を登るために、バイエルンの山間にあるバート・テルツへと向かった。

 それは、泥まみれの「汚れ仕事」から、いつか歴史を動かす「組織の重鎮」へと至るための、最も重要な先行投資だった。

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