第2話 ブラック職場にも、「5S」は必要です
1. 豚小屋ごとき兵舎
無事に(トラックは穴だらけだが)基地に到着し、割り当てられた兵舎に入った瞬間、俺は回れ右をして帰りたくなった。
「……臭い」
腐った藁、酒、そして排泄物の臭いが混ざり合った、強烈な異臭。
木造のバラックには、薄汚れた布団が雑然と投げ出され、床には空き瓶や食べかすが散乱している。
ここを拠点にする部隊――ディルレヴァンガー部隊の正体がよく分かる光景だ。
ここにいるのは兵士じゃない。武装した浮浪者の集団だ。
「へへっ、どうですウンターシャールフューラー(SS伍長)。住めば都ってね」
部下のクルトが、腐った歯を見せて笑いながら、泥だらけのブーツでベッドに上がろうとする。
俺の中の「日本人としての衛生観念」と「管理職としての職場管理能力」が、警報を鳴らした。
こんな不衛生な環境じゃ、パルチザンに殺される前に発疹チフスで全滅する。
「……止まれ」
俺は低い声で言った。
クルトが足を止める。
「全員、荷物を置け。そして箒と雑巾を持ってこい」
「は? 掃除……ですか?」
「そうだ。徹底的にだ。床の板の隙間のゴミまで掻き出せ」
犯罪者たちが「何言ってんだこいつ」という顔をする。
彼らは殺しや略奪は喜んでやるが、掃除なんて母親に言われて以来やったことがない連中だ。
反発の空気が漂う。ここでナメられたら、俺の指揮権は終わる。
俺はゆっくりと、腰のホルスターに手を置いた――フリをして、ポケットから「ある物」を取り出した。
転生前のハインリヒが、着服して隠し持っていた**「缶詰」**だ。
フランス製の高級なレバーペースト。
「……この豚小屋を、人間が住めるレベルまで磨き上げた班には、これをやる」
ゴクリ、と誰かが喉を鳴らした。
補給が滞りがちなこの部隊で、まともな肉などここ数ヶ月見ていないはずだ。
「それに俺は、元・補給部隊だ。コネがある。俺の言うことを聞いて『清潔な環境』を維持するなら、来週の配給でタバコと**シュナップス(火酒)**を多めに引っ張ってきてやってもいい」
アメとムチ。
いや、この状況ではアメ(物資)こそが最強の武器だ。
荒くれ者たちの目の色が変わった。
「そ、掃除させていただきます! ウンターシャールフューラー!」
「おい雑巾だ! 水を汲んでこい!」
現金なものだ。
俺は腕を組み、埃が舞う兵舎の中で、愛用の軍靴のつま先をトントンと鳴らした。
心の中で、その正式名称を愛でるように呟く。
マァシュシュティーフェル。俺の権威の象徴。
まずは環境整備(5S活動)。これが俺の生存戦略の第一歩だ。
2. 狂人との謁見、そしてこだわりの儀式
掃除が一段落し、兵舎が見違えるほど綺麗になった頃(俺は「ここが汚い、やり直し」と指図していただけだが)、伝令が駆け込んできた。
「ハインリヒ・ヴェーバー伍長! 大隊長がお呼びだ! 指揮所へ出頭せよ!」
心臓がキュッと縮み上がった。
師団長。
オスカー・ディルレヴァンガー。
歴史オタクなら名前を聞くだけで震え上がる、正真正銘のサディスト。アルコール依存症で、小児性愛者で、暴力的。人類の汚点そのもの。
そんな「社長」との個人面談だ。
(……逃げたい。今すぐ脱走したい)
だが、逃げれば即・銃殺。
俺は身だしなみを整えるため、割れた鏡の前に立った。
ここからはオタクとしての「儀式(ルーティン)」だ。これで自己暗示をかけ、震えを止める。
まず、軍服の襟元。
俺は規則通りにホックを閉めるような真似はしない。
第1ボタンを開け、黒いネクタイの結び目をキュッと正す。
「文明人」としての証明だ。現場巡回ならラフなスカーフ(トーク)も悪くないが、上司との面談にはネクタイが一番だ。
そして、襟を縁取る**銀色のライン(トレッセ)に指を這わせる。
支給される安っぽい「ネズミ色のレーヨン製(後期型)」ではない。
わざわざ古着屋からひっぺがして縫い付けた、開戦当初の「アルミ銀糸(初期型)」**だ。
鋭い銀色の輝きが、深いダークグリーンの襟と見事なコントラストを描いている。
肩章もそうだ。
SS支給品の、先端が丸くてフニャフニャしたダサい物ではない。
仕立て屋に特注させた、陸軍様式の**「剣先型(シュピッツ)」**。黒い羅紗の中に硬い芯が入っており、ピシッと尖ったシルエットを保っている。
この「角」こそが、俺の(というか中身の小心者おじさんの)威厳を底上げしてくれるのだ。
極めつけは胸元だ。
第2ボタンのホールには、2つのリボンを重ねて通してある。
下側には、黒白赤の二級鉄十字章のリボン。
そしてその上に重ねた、鮮やかな赤に白のストライプが入ったリボン。
東部戦線従軍章(Winterschlacht im Osten 1941/42)。
通称、「冷凍肉メダル(Gefrierfleischorden)」。
1941年のあの地獄の冬将軍を生き延びた者だけに与えられる証。
一級鉄十字章ほどの派手さはないが、前線の兵士たちの間では「あの寒さを知っている」というだけで、無条件の連帯感と敬意が生まれる重要なアイテムだ。
(俺は補給倉庫の中でストーブにかじりついていただけだが、黙っていれば分からない)
そして左胸ポケット。
そこには、鋭く輝く**歩兵突撃章(銀章)と、その横で鈍い鉄色を放つ戦傷章(黒章)**が鎮座している。
「銀の栄光」と、「黒の痛み」。
この二つが揃ってこそ、一人前の兵士の証明だ。
(まあ、痛みの方は「泥酔して転んだ時の怪我」だが)
腰には自費購入した将校用革ベルト。
そして――俺は自分の顔に指を這わせた。
左頬に走る、鋭い一文字の古傷。
(これも泥酔して転び、割れたワインボトルで切っただけの傷だが)
仕上げに帽子。
給食当番みたいな略帽(シフヘン)には目もくれず、俺が手に取ったのは旧式野戦帽(フェルミッツェ・エルテラ・アート)。通称、「クラッシュキャップ」。
中の芯を抜き取り、くしゃっと潰して被るのが俺の流儀だ。
俺は帽子を被り、少し左に傾けて角度を調整した。
鏡に映るのは、完璧に計算され尽くした「SSの古参下士官」の虚像。
その重厚な装備が、俺の怯えきった表情を隠してくれる。
胸ポケットに入れた**回転式ペンシル(ドレーブライシュティフト)**の感触を確かめ、俺は覚悟を決めた。
「……よし、完璧だ」
大丈夫だ。俺は日本のサラリーマンだ。
理不尽な社長の相手なら、30年間やってきた。
この完璧なコーディネートを鎧にして、俺は狂人の待つ指揮所へと向かった。
3. 魔王との面接
指揮所といっても、接収した村の大きな農家だ。
中に入ると、鼻をつくアルコールの臭いが充満していた。
「入れ」
しわがれた声。
奥の机に、その男は座っていた。
痩せこけた体に、サイズの合わない軍服。顔には無数の古傷。そして、生気のない、爬虫類のような目。
机の上にはシュナップスの瓶と、鞭が置かれている。
俺は直立不動の姿勢を取り、右手を挙げて敬礼した。
「ハインリヒ・ヴェーバーSS伍長、ただいま着任いたしました!」
ディルレヴァンガーは、じろりと俺を見た。
その視線が、俺の襟元の**「アルミ銀糸のトレッセ」、「開襟とネクタイ」、そして「頬の傷」**で止まる。
「……フン。国防軍から流れてきたインテリかと思えば、随分と生意気な格好をしているな」
褒めているのか、馬鹿にしているのか分からない口調だ。
「聞いたぞ。来る途中で、パルチザンの指揮官を仕留めたそうだな。しかも、揺れるトラックの上から」
ギクリとした。
やはり噂は届いていたか。
「……偶然です。運が良かっただけであります」
俺は正直に答えた。謙遜ではない、事実だ。
だが、この狂人の前で「ビビって暴発させました」と言えば、その場で処刑されかねない。
だから「運」という言葉を選んだのだが――。
「ククク……『運』か。良い言葉だ」
ディルレヴァンガーは不気味に笑い、シュナップスを煽った。
「俺の部隊に必要なのは、行儀の良い兵隊じゃない。悪運の強い殺し屋だ。謙遜するな、気に入った」
どうやら、俺の「能面のような引きつった表情」が、「冷徹なキラーの顔」に見えたらしい。
彼は机の上の鞭を手に取り、壁の地図を叩いた。
「ヴェーバー、貴様には第3分隊を任せる。あそこの連中は前の分隊長を『誤射』して殺したようなクズ共だが……貴様なら手懐けられるだろう」
とんでもないブラック人事だ。
前任者が部下に殺された部署に配属? 労基署に駆け込みたい。
「……はッ! 光栄であります!」
だが、俺の口は条件反射でイエスマンの返答をしていた。
ディルレヴァンガーはニヤリと笑うと、手元の瓶を放り投げてきた。飲みかけのシュナップスだ。
「持って行け。歓迎の祝杯だ」
「……ダンケ(感謝します)、ヘル・コマンデウア(指揮官殿)」
俺は瓶を抱え、逃げるように指揮所を後にした。
4. 悪夢の夜明け
兵舎に戻ると、部下たちが掃除を終えて待っていた。
俺はディルレヴァンガーから貰ったシュナップスを、ドンとテーブルに置いた。
「……ボスの奢りだ。飲め」
うおおっ! と歓声が上がる。
透明な火酒が、薄汚れたコップに注がれていく。
俺はため息をつきながら、自分のベッドに腰を下ろした。
足元の軍靴を脱ぐ。
丁寧に泥を拭い、革の状態を確認する。
このひとときだけが、唯一の癒やしだ。
(ああ、いい革だ。このマァシュシュティーフェルだけは、何があっても守り抜いてやる)
一時の安らぎ。
だが、明日からは「前任者を殺した」という第3分隊の指揮だ。
俺はネクタイを少し緩め、MP40を抱きしめるようにして、煎餅布団に横になった。
社畜の処世術と、オタクの拘り。
この二つだけで、果たしていつまで生き延びられるのか。
ベラルーシの夜は、日本の残業時間よりも長く、暗かった。
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