霧の街の天気予報

未人(みと)

第1話

 ロンドンの朝は、私の天気感覚をいつも少し狂わせる。

 日本にいた頃は、空の色や湿った風の匂いで、なんとなく「今日は傘かな」と分かった。それが、ここではあまり役に立たない。

 窓の外は白い。建物も街路樹も、途中で溶けるように消えている。

 霧は、どちらとも言えない顔で、街を包んでいた。


​「今日、雨かな」


 私がそう言うと、キッチンで紅茶を淹れていた夫は、国家の存亡に関わる重大な儀式でも執り行うような真剣な顔で、カップに注ぐミルクの量を見極めていた。


「降るかもしれないし、降らないかもしれない。ロンドンだし」


 それは答えになっていない。でも、ここではたぶん正解だ。


 ​足元で、飼い猫が小さく欠伸をして、丸くなっていた体をほどく。

 それから思い出したように前足を舐め、ゆっくりと顔を洗い始めた。

 急ぐ気配はない。


「……あ、顔洗ってる」

「それがどうかしたの?」

「今日は雨かも。猫が顔を洗うと雨なんだって」


 夫は一瞬、真剣な眼差しで猫を見た。


「その猫、どのくらいの確率で当たるの?」

「さあ。体感だと……五分五分?」

「素晴らしいね。BBCの気象予報士よりは信頼できそうだ」


 ​猫は会話に興味がないらしく、私たちを一度だけ見上げて、また前足に集中する。


「日本だとね、他にもあるよ。朝、蜘蛛を見たら晴れとか。夜の蜘蛛は縁起悪いけど、朝はいいんだって」

「忙しいね。昼休みとかないのかな」


 彼は皮肉っぽく笑いながら、紅茶のカップを二つテーブルに置く。


「こっちはね、昨日の夜、空が赤かったら安心なんだ。翌日は天気がいいって、船乗りの喜びさ」

「じゃあ、猫は陸の人向けで、空は海の人向けだね」

「なるほど。情報網が違う」


 彼は納得したようにうなずく。


「他にもある?」

「月に輪がかかると雨。輪が薄いと小雨で、濃いと本降り」

「細かいなあ。どのみち、濡れずに一日を終えるなんてロンドンっ子のすることじゃないのに」


 朝食を終え、出かける準備をする。


「雨だよ。傘、持っていかなくていいの?」


 私が聞くと、彼は壁にかかった防水ジャケットのフードを指差して笑った。


「ロンドンで傘をさすのは、観光客か、よっぽど高価なスーツを着た男だけだよ。でも……」


 彼は少し考えてから、クローゼットの奥から折り畳み傘を一本取り出し、私に手渡した。


「君の猫の予報に敬意を表して、一本だけ持っていこうか。結論はひとつ。降ってもいいし、降らなくてもいい」


 ​玄関で靴を履きながら、私は思う。

 迷信は、未来を当てるためのものじゃない。

 世界をどう見ているかを、交換するためのものだ。

 ​ドアを開けると、霧の中から小さな雨粒が落ちてきた。


「ほら、猫の勝ち」

「半分だけね」


 彼はそう言って、一本の傘を広げ、私を招き入れた。

 私たちは同じ傘の下、肩を寄せて歩き出す。

 ロンドンの天気は、相変わらず分かりにくい。


 でも、それでいい。

 ​窓辺では、猫がようやく顔を洗い終えて、満足そうに丸くなっていた。

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霧の街の天気予報 未人(みと) @mitoneko13

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