【第五章:フィナティピ王国篇】
第7話 『幻視の余韻と、報告の灯』
氷原を抜ける帰路、風は西へ傾いていた。
太陽の輪郭が氷壁に反射し、白と藍の境目がゆるやかに移ろう。
リュゼ・アウリステルは黙したまま、掌の内側に残る冷気を感じていた。
――“欠片の脈動”は、まだ彼の皮膚の奥に潜んでいる。
幻視は消えたが、何かが確かに触れた。
それは言葉にならない微かな音。封印の心臓が、彼に一瞬だけ呼びかけた気がした。
坂を下り、氷原から街道へと続く雪路に出る。
遠くに灯るのは、フィナティピ北部の監視街〈セネヴァン〉の篝火。
風の流れで橙色が滲み、街の屋根からは煙が上がる。
その煙を見て、リュゼは安堵の息を漏らした。
「……あの二人も、もう宿に戻っているだろう」
街門を抜けると、夕暮れの色が雪を染めていた。
行商人たちが荷を下ろし、鍛冶屋の炉が赤く光る。
その一角、酒場〈氷狼亭〉の扉が半ば開き、暖かな音が漏れ出している。
中から聞こえたのは、朗らかな笑い声――マーカス・ロッティの声だ。
扉を押し開くと、焔の明かりが彼の目に映る。
マーカスはテーブルの上で魔剣と魔銃の手入れをしていた。
「お、戻ったか。思ったより早かったな、リュゼ」
その声に、ユーコが静かに振り向いた。
白衣の袖を押さえ、軽く会釈する。
「おかえりなさい。氷原は、どうでしたか?」
リュゼは軽く頷き、雪を払って腰を下ろした。
「異常の確認に出ただけのつもりが……封印痕の変調を見つけました。
黒い欠片のようなものが――封印陣の中で脈動していました」
マーカスの眉がわずかに動く。
「封印の……欠片?」
「はい。触れた瞬間、幻視が走りました。古い誓士たちが、槍を掲げて封を刻む光景です」
ユーコは小さく息を呑み、掌を胸の前で組む。
「幻視……それは、聖印が呼応しているのかもしれませんね」
沈黙が短く流れたあと、マーカスがグラスを手にとった。
「なるほどな。つまり、封印そのものが“目を覚ましかけてる”ってわけか。
やっぱり、こっちの方も動き出してるな……」
その言葉に、リュゼは小さく頷いた。
「港の方で、妙な灯が見えました。普通の信号灯ではありません。
……闇の契約教団の動きかもしれません」
マーカスの表情に影が差す。
一瞬だけ、彼の指が魔銃のグリップを強く握った。
「なら、早いとこ動いた方がいい。見張るだけで済む相手じゃない」
「ええ。ただ、まだ確証はありません。――今夜はまず、封印の座標を整理して報告書をまとめます」
リュゼは淡々と答え、荷袋から記録符を取り出した。
氷原で感じた冷気はまだ腕輪に残っていたが、その奥で《ルーミナス・グレイヴ》が微かに共鳴していた。
まるで、何かが“次の夜”を待っているように。
ユーコは静かに立ち上がり、卓上のランプに手をかざした。
「……星が落ち着いています。今日はまだ、大きな動きはありません」
その声は柔らかく、雪の夜に溶けるようだった。
マーカスは肩をすくめ、酒をひと口飲んで笑った。
「ふぅん、そう願いたいね。けど、こういう静けさのあとってのは、だいたい嵐がくるもんだ」
リュゼはグラスを受け取り、少し遅れて口にした。
「……嵐、ですか」
「そうだ。封印が揺らげば、俺たちの旅もまた一歩、深くなる」
マーカスの言葉に、ユーコは小さく微笑んだ。
その微笑みの奥で、ほんの一瞬だけ蒼い光が瞳を過った――
彼女自身も、まだ気づかぬ“星霊の兆し”が、静かに息づき始めていた。
外では、雪がまた降り始めていた。
氷狼亭の灯がその白に滲み、夜の気配が街を包む。
リュゼは静かに席を立ち、窓の外を見た。
雪明かりの向こう、封印の方角にかすかな光の筋。
あの欠片は、まだ呼んでいる。――それを胸に刻み、彼は短く息を吐いた。
「明朝、再び現場を確かめに行きます」
その言葉に、マーカスは笑みを返す。
「頼もしいね。俺たちも行こう。報告が終わったら、氷原の調律に取り掛かる」
「了解しました」
三人の影が焔に重なり、暖かな光が揺れる。
外の雪は深く、夜はなお長い。
だがその灯の中に、確かな絆の輪郭が芽吹き始めていた。
――氷上の誓いは、静かに始まっている。
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