【第一章:ブローグン王国編】

第6話 『師匠の選択』

《前半》


《青年期完結編》


 炉の火が、季節の境目を告げるように揺れていた。

 十八を過ぎたころから、マーカスはほとんど一人で店を回すようになった。朝の火起こしも、昼の納品も、夜の研ぎ直しも、師匠がいなくても滞りなくこなせる。客もいつの間にか、「ドレイアスの鍛冶屋」ではなく「マーカスの鍛冶屋だ」と口にするようになっていた。


 誇らしくないと言えば嘘になる。

 だが、その誇りに影が差すのは、師匠の不在が日々増えていったせいだった。


 最近のドレイアスは、朝早くに消え、夜更けに戻る。

 どこへ行くのか尋ねても、「ちょっとな」と笑うだけだった。


 街の噂は、相変わらず断片的で気味が悪い。

 「古書店で星の写本を探してたぞ」

 「黒樹の樹皮を大量に買ってたらしい」

 「占い師のところで、何度も同じことを聞いてるって」

 誰も核心を知らない。ただ、師匠は“何かを急いでいる”と、街の空気がささやいていた。


 マーカスは仕事を続けながら、その気配を背に受けていた。

 金槌を振るうたびに、何かが遠ざかっていく。

 炉の火の明滅が、胸に小さな空洞を作るようだった。


       ◇


 ある午後、山風が強く吹いた。

 鉄を打つ寸前、マーカスはふと空を見上げる。

 淡く、だが確かに、星の光が揺れていた。

 昼間だというのに。


 ――また、だ。


 この一年、時折こんな瞬間がある。

 星が脈打つように瞬く。

 耳の奥が、ふっと沈む。

 そして、左肩の印が、かすかに熱を帯びる。


 “封印の内部脈動”――まだ彼はその言葉を知らない。

 だが、世界のこの国のどこかで、目に見えぬ力が軋んでいるのを肌が覚えていた。


 金属に触れると、時折“冷たくない”日があるのもそうだ。

 あれは鉄が熱いのではない。

 自分の方が、何かに導かれて温度を忘れる瞬間だった。


 作業に戻ろうとしたとき、扉の前に影が立った。


「よぉ、若いの」


 ドレイアスだった。

 だが、いつものように豪快に笑う様子はなく、どこか疲れた眼で店内を見回した。


「……全部、一人でやったのか」


「いつものことだろ。師匠がいないから」


 軽口のつもりだったが、言葉は思ったより重く響いた。

 ドレイアスは一度だけ目を伏せ、それから作業台に手を置く。


「悪いな。任せきりで」


「別に怒ってない。でも……気になるだろ。何してるんだよ、最近」


 沈黙。

 炉の火がぱち、と小さく弾ける。


 ドレイアスは答えなかった。

 ただ、背に負っていた包みを下ろし、中から重い石板を取り出した。


 石板は黒樹の森で見た遺跡と同じ材質だった。

 表面に刻まれた線は、古代語のようでもあり、星図のようでもあった。


「……それ、どこで」


「町外れの丘でな。昔埋めてあったもんだ」


 マーカスは眉をひそめる。

 この国に“町外れの丘”はあるが、遺跡が眠っているなど聞いたことはない。

 だが師匠が嘘をついている気配はなかった。


 ドレイアスは石板をそっと撫でた。

 その仕草は、長年の鍛冶仕事の手とは思えぬほど慎重だった。


「……印のことか?」


 問いかけると、師匠の肩がわずかに揺れた。

 否定はしない。それだけで十分だった。


 その沈黙こそが回答である――ただの慰めではなく、未来に彼が歩むべき“封印の軌道”への暗示でもあった。


       ◇


 その夜。

 仕事を終えても、眠気は少しも訪れなかった。

 炉はもう火を落としているのに、左肩がじんわりと熱を帯びている。


 ――呼ばれている。

 誰に、何に、なぜ。

 わからない。

 ただ、その“呼び声”が何であるかを、

 理解するにはあまりにも早すぎる――そう思った。


 呼び声は、ただの夢ではない。

 未来の大陸封印を揺るがす、遠い力の片鱗――

 そういう存在からの呼び声だったのだと、後に知ることになる。


 だが、この数年ずっと続いた“気配”が、日に日に明確になっていく。


 星の揺らぎ。

 印の疼き。

 黒樹の森の石碑が夢の底で形を変え、扉のような闇を描き出す。

 少女の影が、遠くで消える。


 世界が、どこかで沈んでいる。

 その“沈み”が、自分の皮膚の内側にまで忍び込んでくる感覚があった。


 マーカスは火床の前に座り、肩を押さえながら息を吐く。

 炉の赤は、小さな命のように脈動して見えた。


 ――師匠。

 あんたは、どこまで知っている?


 問いは宙に溶け、返事はない。


 そのときだった。


 外の風見鳥が、カタ、と音を立てる。

 北を向くはずの尾羽が、一瞬だけ逆へ振れた。


 空気がざわめく。

 大地が沈黙の息を吐く。


 マーカスは身を強ばらせた。

 印が、鋭く脈打った。


 ――始まる。


 理由はわからない。

 だが、これまでの“前兆”とは違う気配だった。


 この夜を境に、何かが決定的に歪む。


 彼自身も、それを悟っていた。

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