わたしの付き合う相手が王子様なんて聞いてない!!
空落ち下界
第1話 おはようと言えない私のろくでもない朝
おはようという言葉は、一体誰が発明したのだろう。一日の始まりにわざわざ声帯を震わせて発するほどの価値がその四文字にあるとは到底思えない。
私・音亀佳奈子は、校門をくぐりながら心の中で毒づいた。周囲には、朝の光を全身で浴びて光合成でもしているかのような、キラキラとした高校生たちが溢れている。彼らは親しげに「おはよー!」と声を掛け合い、無機質な挨拶にさも重要な意味があるかのように振る舞っている。
……謎だ。
謎と言えばもう一つ、例えば時給1000円のバイト。一時間は3600秒。一秒は約0・27円。
そう考えると、挨拶に費やす数秒の間にも、私の人生という資産は切り売りされていることになる。
その対価が、他人の形式的な笑顔だけだなんて、どう考えても割に合わない。
昔、先生に「お前は世の中とズレている」と言われたことがあるが、ズレているのは私ではなく、この非効率な社会の方ではないだろうか。
「…………」
俯き加減で歩く。視界に入るのは、履き古した自分のローファーとアスファルトのひび割れだけだ。
黒髪のおかっぱ頭は、視線を遮るための防壁。
中学の三年間、誰ともまともに喋らずに過ごした結果、私のコミュニケーション能力は、もはや絶滅危惧種並みに衰退していた。
「あ、音亀さん。おはよ」
クラスメイトの誰かが声をかけてきた。
喉の奥がキュッと締まる。脳内では『ああ、返さなきゃ。でも今さら返してもタイミングが遅いか? いや、無視は良くない。でも声が出るかな。よし、一、二の、三で——』と、数千行のコードが走るような演算が行われる。
「……ぉ、……」
掠れた吐息のような音しか出なかった。
相手は、私が返事をしなかったことに気づいたのか、苦笑いを浮かべて去っていく。
……ほらね。
一度で届かなければ、二度目はない。
私の声は、世界に届く前に霧散してしまう運命なのだ。追いかけてまで言い直すガッツなんて私にはないし、どうせ私なんて、いてもいなくても変わらない背景の一部。そう自分に言い聞かせると、少しだけ胸のざわつきが収まった。
だが、そんな私の平穏な陰キャ生活は、一瞬の物理現象によって粉砕されることになる。
「——っと、危ない!」
背後から響いたのは、鈴の音を転がしたような、けれど凛として力強い声だった。
同時に、背中に柔らかな衝撃が走る。
何かがぶつかった。それも、かなりの勢いで。
「ひゃぅっ!?」
変な声が出た。
バランスを崩した私の体は、重力に逆らえず前方へと倒れ込む。
だが、地面の硬い感触が来るのを覚悟して目を閉じた瞬間、私の体は"誰か"の腕の中に収まっていた。
「……大丈夫? 怪我はないかな」
鼻をくすぐったのは、石鹸のような、少しだけ甘い香水のような匂い。
顔を上げると、そこには信じられないほど現実感のない光景があった。
銀髪。
染めているのか、あるいは天性のものか。
太陽の光を乱反射して、プラチナのように白く輝く髪が、私の視界を埋め尽くした。
短めに整えられたその銀の毛先が、私の頬に触れてチリリとくすぐったい。
その髪の持ち主——王子様のような美貌の少女は、心配そうに眉を下げて私を覗き込んでいた。
切れ長の慈愛に満ちた瞳。
制服のネクタイを少し緩め、爽やかな笑みを浮かべるその姿は、性別という概念を飛び越えて、ただただ『美しい』という暴力で私を殴りつけてくる。
「…………あ、……ぁ……」
私の視線は、思わず一点に釘付けになる。
至近距離。抱きしめられた腕越しに伝わる、柔らかな確かな弾力。
その王子様の胸元は、同じ女子である私から見ても、驚くほど豊かな膨らみを持っていて——それが今、私の胸とぴったりと重なり合っていた。
重なり合う二つの膨らみ。
私の無駄に発育の良いこの肉の塊と彼女のそれと押し潰し合う感触が、脳の変なスイッチを押しそうになる。
「顔が赤いよ? やっぱり、どこか打ったかな」
銀髪の少女は、さらに顔を近づけてくる。
潤んだ唇が、私の耳元に触れそうな距離まで迫る。
心の中では『ちょ、待って、近い近い近い! 心拍数上がりすぎて死ぬ! っていうか、この人めちゃくちゃ胸大きくない? 私だってそれなりにある方だと思ってたけど、この密度は何!? 銀髪で、美人で、巨乳って属性盛りすぎでしょ、設定資料集かよ!』と、脳内オタクが絶叫している。
けれど、口から出たのは、情けないほど小さな、そして最低の感想だった。
「……お、重い……です……」
それが、私と彼女の最悪で最高にズレた出会いだった。
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