始まりの合図

イロイロアッテナ

第1話 クラル

「お母さん、ただいま。はい、言われた通り、パンとバクーの乳。あと、お釣りは、ここに置くね」

クラルはそう言うと、大きな包み紙と皮袋を二つ、端がささくれだったテーブルの上にどさっと置いた。

重みでテーブルが少し軋みを上げ、その横で一枚の硬貨が金属音を立ててクルクルと回る。

「ほらほら、そんな乱暴に置かないの」

石の洗い場に落ちる細い水の流れに栓をして振り返った母は、弱々しい言葉でクラルを咎めた。

「ごめんなさい、お母さん」

クラルは直立不動の姿勢をとって、直角に頭を下げ、その頭を持ち上げるとニカッと笑った。

「さあ、次は何をしようか。床掃除?夕餉の準備?父さんの工房の掃除は……父さんに怒られるか。さあ、何でも言って。さあさあ、ほらほら」

「ちょ、ちょっと待って、クラル」

クラルの母は、流しの下の布巾で軽く手を拭くと、肩からかけた薄手の羽織りの前を両手で軽くかき合わせ、木の椅子に座った。

石造りの家の窓から、通りで遊ぶ子供たちの声がずいぶんと大きく聞こえる。

「ごめんね、クラル。家の手伝いばかりさせて。あなたも、みんなと遊びたいでしょうにね」

クラルの母はそう言うと、口に手を当て、大きく咳き込み始めた。その途端、クラルは矢のような速さで母のそばに行き、優しく背中をさすった。

「そんなこと、どうでもいいよ。どうせ、このドブネズミ横丁から出やしないんだから。また、いつでも遊べるよ」

クラルはそう言って台所の水屋に目を走らせ、次いで固く閉ざされた工房の扉に目をやった。

「薬を飲む?」

クラルの母は激しく咳き込みながらも、左手でクラルを遠ざけるように優しく押し返し、大丈夫だと言わんばかりに、首を何度も横に振った。

「大丈夫、今日の分は、もう飲んだから」

咳の合間に、途切れ途切れに話す母の言葉は、とても苦しそうだった。

クラルは母の左手を取り、右手で背中をさすりながら、寝室のベッドまで付き添って母を横にならせた。

まだ、子供たちの遊ぶ声が風に乗って届く。あの声はバージとその取り巻きたちだろう。

クラルは静かに窓を閉め、薄手の毛布を母の上にかけてやると、忍び足で寝室を出た。

扉を閉める時、クラルは非常に小さなささやき声で

「このまま寝てて。今日の夕飯は僕が作るから」

そう言うと、右手で扉の取っ手を持ち、左手を扉に添えて、ゆっくりと時間をかけて扉を閉めた。


鍋の蓋を取ると、大量の湯気が解き放たれ、クラルは慌てて、頭を引っ込めた。

それから、鍋の中におたまを差し入れて、ゆっくり、大きく、具と汁をかき混ぜる。

その時、背後で扉が開く音がして、クラルの父が工房から出てきた。

父は大きく背伸びをすると、腰を左右に軽くひねり、首を傾けて左右の肩を上下させた。

「お父さん、お疲れ様。座って。今すぐ、料理を出すから」

クラルはバクーの乳煮を、木の椀に盛り付けると刻んだポッロの葉を上からかけて、スプーンを添え、父が座るテーブルの前に置いた。

「先に食べ始めてて。僕もすぐ持ってくるから」

クラルが自分の分を持ってテーブルに、そろりそろりと戻ってきた時、クラルの父は、何も言わずクラルを待っていた。

「シャンティは、また、倒れたのか」

「……うん」

母が倒れた時、クラルは母に代わって、夕餉の支度をするが、まだ簡単な汁物しか作れないから、それで、母の不調が父にも知れたのだろう。

「薬も、まだあるけど、そんなに、たくさんあるわけじゃないんだ」

クラルは椀の中のポムの実を、スプーンで突きながら、父を見ずに言った。

「どれくらいだ」

「え?」

「薬、あと、どれぐらいある」

「あ、ええと、一月はないかな。三週間と、少しくらい」

「そうか」

クラルの父は、そう言うと、また押し黙り、バクーの乳煮をすすり始めた。

「母さんが起きたらさ、後で、乳煮を持っていくよ。今はまだ、寝てたほうがいいよね」

クラルの言葉に、父は黙って、うなずいた。

部屋を照らす、ろうそくの炎が、わずかに揺れ、ジジ、ジジと、かすかな音を立てる。

「今、取り掛かっている仕事が、もうすぐ終わる。納品が済めば、後金が入る。それで、薬が買える」

クラルの父が、そう声をかけると、クラルは表情を明るくして、何度も、うなずいた。

「もっとさ、どんどん祝福して、こう、ガバッと、儲かるといいのにね」

母の薬のめどが立ったことが嬉しくて、ついつい饒舌になってしまったのだろう。クラルは、嬉しそうに話す自分を、黙って見つめる父の視線に気がついて口を閉じた。

「クラル、滅びの話は覚えているか?」

「ごめんなさい、お父さん。わかってる、冗談で言ってみただけ。滅びの話は、小さい頃から教えてもらっているから、忘れてないよ」

クラルは、自分がつい調子に乗って、父や一族のすべての大人たちが、口を酸っぱくして言う虎の尾を踏んでしまったことに気がついた。

父の目から、懸念の色が消えない。

もう一度、教えを暗唱しろ、ということだ。

「かつて、僕たちの、ひいひいひいじいちゃんたちが富と権力を求めて、無理やり大量の武具に祝福しまくったんだよね。でも、そんな雑な祝福は長く持たなくて、それを使った国もじいちゃん達も、みんな、やられたんだよね?」

クラルを見つめる父の厳しい目に、柔らかい光が戻る。

「そうだ。決して、忘れてはいけない」

「忘れてないよ。それで、散り散りになった、じいちゃんたちは、それぞれの一族ごとに、こっそりと生きていくことになるんだよね。ここの横丁みたいに」

クラルの父は、もう言葉を発せず、黙って、うなずいた。

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