第16話 1日目の夜
掃除を終え、夕飯を済ませると、陽葵は限界だったのだろう。糸が切れたようにリビングのソファで眠り込んでしまった。僕と栞は彼女を抱え、湿り気のない清潔なベッドへと運んだ。
泥のように眠る陽葵の寝息だけが、静まり返った寝室に響いていた。
僕と栞は、彼女を起こさないよう音を立てずにリビングへ戻り、古いランプの灯りの下で向かい合った。
「……学校、もう無理だよね。明日になれば、僕たち三人は『行方不明者』扱いになる」
僕が小声で切り出すと、栞は膝の上で組んだ自分の手をじっと見つめながら頷いた。
「ええ。ここにいられるのも、長くは持たないわ。私の親が別荘の管理状況をチェックしたり、カードの履歴を調べたりすれば、すぐに場所は特定される。……落ち着いたら、また別の場所へ逃げて、そこで家を借りるしかないわね」
「家を借りる、か……」
口にしてみたものの、それがどれほど現実味のない話かは二人とも分かっていた。
住所も保証人もない、身分証さえ持たない17歳の子供を、誰が雇い、誰が部屋を貸してくれるだろう。
「あと一年、僕たちが18歳で、せめて法律上の大人だったら、もう少しどうにかなったのかな」
僕の弱気な言葉に、栞が椅子を引き寄せ、僕の手にそっと自分の手を重ねた。
「悠真くん、一人で抱え込まないで。私にできることは何でもする。お金のことも、これからの場所のことも、二人で考えればいい。……陽葵を守るって決めたのは、私でもあるんだから」
栞の言葉は力強く、温かかった。その励ましに、僕は少しだけ顔を上げた。
隣の部屋では、あんなにひどい目に遭った少女が、僕たちを信じて無防備に眠っている。あのアザが消え、心からの笑顔がずっと続く日常を取り戻すためなら、どんな泥水を啜ってでも頑張れる気がした。
「……ああ。あいつの、あの元気な笑顔を守るためなら、なんだってやるよ。絶対に、あんな家に連れ戻させたりしない」
僕が誓うように言うと、栞は「そうね」と小さく微笑んだ。
けれどその微笑みは、どこか寂しげで、胸の奥を締め付けられるような痛みを堪えているようにも見えた。
陽葵を守るという強い結束。それは、僕と栞を繋ぐ唯一の、そして強固な鎖だ。けれど、陽葵の名前を出すたびに僕の瞳に宿る熱い光を、栞がどんな思いで見つめているのか、鈍感な僕は微塵も気づいていなかった。
「悠真くんは……本当に、陽葵のことが大切なのね」
栞の言葉は、夜の静寂に溶けてしまいそうなほど淡いものだった。
陽葵を助けたいという彼女の気持ちに嘘はない。親友を救いたいという祈りは、間違いなく本物だ。けれど同時に、陽葵だけを見つめ、守ると誓う僕の横顔に対して、彼女の胸の奥には毒のような微かな嫉妬が滲んでいた。
(……私だって、ここにいるのに)
そんな独白が漏れ聞こえてきそうなほど、一瞬だけ栞の視線が鋭く、そして悲しげに揺れた。僕が差し出す「守る」という言葉が、自分ではなくすべて陽葵に向けられていることへの、やり場のない羨望。
「……さあ、私たちも休みましょう。明日は、これからのことをもっと具体的に詰めなきゃいけないんだから」
栞は僕の手に重ねていた手を、名残惜しそうに、けれど自分を律するように静かに離した。その指先がわずかに震えていたことにさえ、僕は気づかない。
深い静寂に包まれた別荘。
僕も、栞も、そして陽葵も。やがて深い眠りへと落ちていった。
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