炎の中で、名前を呼ぶ

南條 綾

第1話

 今日も朝の点検を終えて、署内のロッカールームで制服に着替えていると、無線が入った。


「本署、至急出動。渋谷区のマンションで火災発生。煙が確認されている。救急も併せて」


 隣で着替えていた同期の花音かのんが、ぱっと顔を上げた。彼女はいつも冷静で、現場でも頼りになる存在だ。長い黒髪をポニーテールにまとめ、鋭い目つきなのに、笑うとえくぼができる。


 そんな彼女が、私の隣のロッカーを使うようになって、もう三年になる。


「綾、一緒だね」


 花音が小さく微笑んだ。私は頷いて、急いでヘルメットを掴む。心臓が少し速く鳴るのは、火災のせいだけじゃないかもしれない。


 現場に到着すると、七階建てのマンションの四階から黒煙が立ち上っていた。住民はほとんど避難済みだったが、一人、避難が遅れている女性がいるとの情報。


 エレベーターは使えず、階段を駆け上がる。煙が濃くて視界が悪かった。私は先頭を、花音が後ろからついてくる。無線で状況を確認しながら、四階の廊下に到着。指定された部屋のドアは熱を帯びていた。


「綾、私が入る」


 花音が私の前に出ようとする。私は無意識に彼女の腕を掴んだ。


「待って。先頭の私が行く。バックアップはよろしく」


 花音は一瞬、私をじっと見て、それから小さくうなずいた。


 私はドアを蹴破り、中に突入する。リビングで、床に倒れている若い女性を発見。意識はあるが、煙を吸い込んで咳き込んでいる。私はすぐに彼女を抱き上げ、窓際へ運ぶ。


 花音が後ろからエアパックを準備しながら、私をカバーしてくれる。


「綾、早く外へ!」


 外のバルコニーから、はしご車が近づいてくる。私は女性を花音に預け、自分も後を追う。


 無事に地上へ降り、救急隊に引き渡した時には、すでに火は鎮火され始めていた。署に戻って、報告書を書きながら、花音が私の隣に座った。


「さっき、危なかったね」


 彼女の声は低くて、少し疲れている。私はコーヒーを一口飲んで、答える。


「あなたがカバーしてくれたから、大丈夫だった」


 花音は黙って、私の顔を見つめた。いつもより、少し長い時間。


「綾は、いつも先に行きたがる」


「それは……」


 言葉が詰まる。私が先に行くのは、彼女を守りたいからだ。でも、そんなことは言えない。その夜、残業で遅くなった。私と花音だけが署に残っていた。


 シャワーを浴びて、ロッカールームで髪を乾かしていると、花音が入ってきた。彼女もシャワーを浴びたばかりで、髪が濡れている。制服ではなく、私服に着替えている。白いブラウスに、ジーンズ。いつもと違う雰囲気だ。


「綾、まだ帰らないの?」


「うん。ちょっと疲れてて」


 私はドライヤーを止めて、彼女を見た。


 花音は私の隣に座って、自分の髪を拭き始めた。静かなロッカールームに、ドライヤーの音だけが響く。


「今日、ありがとう」


 花音がぽつりと言った。


「私の方こそ」


 私は答えた。でも、花音は首を振る。


「違うの。綾が先に突入してくれて……私、怖かった」


 彼女の声が、少し震えている。私は驚いて、花音を見た。彼女が怖いなんて、初めて聞いた。


「花音が?」


「うん。綾がもし何かあったらって、考えて……」


 言葉が途切れる。花音は目を伏せた。私は、ゆっくりと彼女の手を握った。温かくて、少し震えている。


「私も、怖いよ。でも花音が後ろにいてくれるから進める。」


 花音が顔を上げた。彼女の瞳に、私の姿が映っている。距離が、近い。


「綾……」


 名前を呼ばれて、私は自然と彼女に近づいた。唇が触れる寸前で、花音が目を閉じた。私は、そっとキスをした。柔らかくて、温かくて、少しコーヒーの味がした。キスが終わると、花音が小さく笑った。


「ずっと、したかった」


「私も」


 私たちは、もう一度キスをした。今度は、もっと深く。


 それから、私たちの関係は変わった。仕事中は変わらずプロフェッショナルで、でも二人きりになると、手を繋いだり、キスをしたり。消防士という危険な仕事だからこそ、互いを大切に思う気持ちが強くなった。


 ある日、大規模な倉庫火災があった。炎が激しくて、鎮圧に時間がかかった。私は隊長の指示で内部突入。花音は外でホースを担当していた。


 中は熱気が充満していて、視界が悪い。突然、天井が崩れ始めた。私は咄嗟に身をかがめたが、瓦礫が足に当たって動けなくなった。無線で助けを呼んだ。すぐに花音の声が返ってきた。


「綾!? どこ!?」


「東側……足が……」


 すぐに救助隊が来てくれた。先頭は、花音だった。彼女は瓦礫をどかしながら、私に近づいてくる。


「綾、大丈夫!?」


 彼女の顔が、すすで汚れているのに、泣きそうだった。


 私は笑おうとした。


「ごめん、ドジっちゃった」


花音は私のヘルメットを外して、額にキスをした。


「馬鹿……絶対、助けるから」


 チームは、私を運び出し、無事に病院へ。私は軽い捻挫で済んだが、花音はそれから三日間、私の付き添いで泊まり込みだった。


 退院の日、花音が私のアパートまで送ってくれた。部屋に入ると、花音が後ろから抱きついてきた。


「もう、危ないことしないで」


「消防士なんだから、仕方ないよ」


 私は振り返って、花音を抱きしめた。


「でも、約束する。絶対、帰ってくる」


 花音は私の胸に顔を埋めて、小さく頷いた。


 それから、私たちは一緒に暮らし始めた。消防署では秘密だけど、プライベートでは、普通のカップルみたいに。朝一緒に起きて、コーヒーを淹れて、時にはケンカもする。でも、いつも仲直りする。


 ある冬の日、休みが重なった。私たちは温泉旅行に行った。雪が降る中、露天風呂で二人きり。


「綾、好きだよ」


 花音が私の肩に頭を乗せて言った。私は彼女の手を握る。


「私も。ずっと、一緒にいたい」


 雪が静かに降り続ける中、私たちはキスをした。


 未来はわからない。消防士という仕事は、いつ何が起こるかわからない。でも、今この瞬間、彼女が隣にいる。それだけで、十分だった。


 危険な現場も、穏やかな日常も、全部ひっくるめて、私たちは一緒に歩いていく


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

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