橋を渡ると

うたかた

第1話

 うだるような蒸し暑い夏のこと。

 空調で適温をたもつ療養病棟で、新道亮は思いだそうとしていた。

 いつからだろう。香苗が全く反応してくれなくなったのは。半年以上だが、一年は経っていないはずだ。

 入院当初、香苗の瞳は開いていた。言葉は発さず、表情はないにしても、声をかけたらこちらに顔を傾けてくれた。いまでは目を閉じている場合が多い。話しかけても言葉が届いているのか、分からない。手を握っても返ってこない。訪問のたび、気持ちが届かない辛さを味わう。

 リハビリでしか運動はしないから、手足もほっそりとしていた。触ると薄い皮膚のすぐ先に、硬い骨が確認できるくらいだ。

 食事もできなくなった。鼻孔にチューブを繋ぎ、栄養を取っている。


「もって一年だそうだ」

 香苗の両親とそろって病棟へ行った帰り道。彼女の父親が教えてくれた。

こちらに視線を寄越さず、前を向いて歩きながら。小さく丸まった背中は何かに耐えているようだった。療養病棟という場所が病院と異なり、病気から回復する場所ではなく、【死を迎えるための場所】だと知ったのも、そのときである。

 病棟に来るたびに、亮は胸が痛んだ。

 なぜ彼女のしゃべり方がおかしかったと気づいて、すぐに病院へ向かわなかったのだろうか。

 週末に自宅で一緒に映画を観て過ごし、車で家まで送った。香苗は助手席で目をつむり黙っていた。いつもは、彼女が亮に何かしら会話を投げかけてくる。映画はどうだったか、平日のサークル活動で何をした、アルバイト先のコンビニで起きたことなど。脈略がないが、思いつく順に飛びでてくる話を運転しながら聞く。亮はそれが好きだった。だが、今日は沈黙が車内を埋めている。

 彼女の家の前に着き、フロントドアを開ける。軽く肩をたたく。

 立ちあがり、「またね」といった時の香苗の返事が確かに妙だった。呂律が回っていなかったと思う。そこですぐに病院に連れて行けばよかったのだ。さっきまで眠っていたから、言葉がはっきり出てこなかったのだろう、疲れていたのだろう。そんな言い訳を捏ねている場合ではなかった。

 彼女の背中を目で追う。玄関の扉は開けて中には入ったし、後は両親がいるから大丈夫だ、と済ませてしまった。それを──ずっと後悔している。


 夜に香苗の母から電話がきていた。風呂あがりに気がつき、すぐに折り返す。激しい動悸を感じつつ。

「亮君、香苗って今日おかしくなかった?」

 切羽詰まったトーンだった。亮は、香苗を家に送ったときの違和感を話した。

「私も晩御飯を料理していたしさ。あの子が帰って来て、二時間たったくらいかな。食卓に料理を並べようと思って、香苗に声をかけたの。ちょっとテーブル拭いてって。そうしたら突然私の隣に立って。不安そうな顔をして私をじっと見つめるのよ。何しているのって訊いたけど、返事もない。ようやく口を開いたと思ったら、赤ん坊みたいに喃語をしゃべってね。慌てて救急車を呼んだの」

 橋梗塞って言うんですって。

 その一言の響きは、今も耳に残っている。調べたところ、脳梗塞のひとつで『脳幹』の一部『橋』で起こるものだそうだ。『橋』は中脳と延髄を繋ぐ重要な神経であり、情報の通り道となっている。

 脳梗塞で後遺症を残さないためには、発症後の四時間以内に血栓溶解剤を注射しないといけない。さもないと血流が止まり、脳への酸素と栄養の供給が絶たれて、脳細胞が死滅するそうだ。

 香苗の母から責められはしなかった。だが、すぐに対処しなかった自分のせいだ。懺悔の気持ちと彼女の状態が気になって毎日、大学帰りに病室に来ていた。少しでも体と心の刺激となってほしいと願う。

 ベッド脇の椅子に腰かけて、大学での出来事などを語りかけ、音量に気をつけながらスマートフォンで動画を流す。彼女の長い黒髪を指で梳く。

 その後は、傍らの椅子に腰かけて本を読む。時折、香苗の手を握る。何の反応がなくとも、隣に香苗がいた。緩やかに息をしている。それだけで良かった。

 面会の制限時間が来ると、亮は本に栞を挟んで鞄にしまった。「また来るから」といって手を振り、席を立つ。もちろん返事はなかった。


 だが、その日は違っていた。部屋の入口を出る際に、「旅にいこう」と聞こえた気がしたのだ。確かに香苗の声だった。だが、振り返って見ても、彼女の唇は微動だにしていない。

 窓の白い遮光カーテンがふわりと揺れて広がった。わずかに開いた窓から、暖かな風が吹きこんでくる。──何かの聞き間違いだ。そう結論付けた。

 

 亮は翌日、大学の授業を終えて病棟へ来た。

 工学系の大学で建築を学んでいるのだが、その日の最後の講義は〝建物の意匠について〟だった。建物の維持とデザインの関係性。例えば植物を貼りつかせたビル。住人たちは、森のなかで新鮮な空気を吸う気持ちになれるし、心も視覚も和む。しかも、太陽熱も二割減となる。

 しかし、植物は管理に費用がかかるうえ、コンクリートに根付いてひび割れの原因になったりするそうだ。自然と人工物は調和しづらく、反発しあう。放って置いたら植物はコンクリートを砕いて成長していく。後に残るのは、美しい廃墟だろう。いずれ草は枯れてなくなるから。

 教室でその講義を聞いた亮は、病院に似ている、と思った。そのままだと即座に死に向かう香苗を、人工物で必死に引き留めてくれている。食事ができない彼女に、機械が経鼻胃管で栄養剤を与えてくれなどして。

 そうするとコンクリートへのひび割れのように、自然物としての香苗の体や精神が反抗したり、暴れたりすることはないのだろうか。

 授業の内容を反芻しながら、四階の病室へ入る。電気代の対策なのだろう。蛍光灯が一部間引かれており、薄暗さを感じた。亮が部屋に入る動きで、こもっていた汗などの匂いが拡散される。


 香苗の隣のベッド脇に女性が座っていた。何をするでもなく、眠る老婆の手を握り、顔を眺めている。五十代くらいに見える。どことなく老婆に似ている顔つきをしているので、おそらく娘さんなのだろう。


 亮は香苗のベッドを囲うカーテンを開き、はっと息を呑んだ。

 香苗がベッドに腰かけている。

 端に折りたたんだ病院着を置き、白いワンピース姿で。窓からの陽光が服に反射し、照度の低い病室のなか、彼女の姿だけが明るく見えた。思わず「え……」という言葉がこぼれる。

「待っていたわ」

 長らく言葉を発していなかったろうに、掠れもせずクリアな声だった。

「……大丈夫なの?」

亮の問いに、香苗は黙って頷く。

「手続きはすませたから、一緒にでましょう。このまま旅にでたいの。温泉に入りに行きたい」

 見ると、ベッド横に黒いキャリーケースが置いてある。一メートルないくらいの高さのものだ。事態を飲みこめない。

 だが、香苗がベッドから腰を上げて歩きだしたので、亮もケースのハンドルを握る。立ちあがった彼女から金木犀の香りがした。唖然としながらも、その背中に付いていく。骨に薄い皮膚がついているだけだった体に、ふくよかさが戻っていた。

 亮は鼻の奥にじんと熱さを感じた。正常でないのは分かっている──だが夢や幻だとしても、縋りたいと思った。

 鳴り響く電話に対応するなど、忙しく動く看護師たちは香苗たちを見つけると、立ち止まり拍手をした。

「退院おめでとう」

 皆、笑顔で一様に言う。なぜだが病棟の出口まで付き添う。敷地外で振り返ると、看護師や医師は整然と横に並んで大きく手をふっていた。三十人はいるだろう。

「おめでとう、おめでとう」

 二人との間に距離ができればできるほど、大声で叫んでいた。目を細めた、その笑顔は張りついたもので感情を読み取ることはできなかったが。


 歩いて五分程の駅に向かう。

 床ずれを気にするほど動いていなかった香苗が、たどたどしくも歩いている。一歩一歩、地面を踏みしめるように。亮は彼女が倒れたときを考えて、半歩後ろでキャリーケースを運ぶ。

 駅に着いた時には、亮の方が息があがっているくらいだった。ベンチで待っていると、すぐに電車はやって来た。強い冷房の効いた車内には亮たち以外、誰もいない。二人で座席に隣りあって座る。

「お母さん達に連絡はしたの?」

 そう尋ねると、香苗は首を横にふった。

「電話なんて繋がらないわ」

「かからなかったのか。それでもまず実家にいくべきじゃないか」

「ううん。私はまず、あなたと旅にでたいのよ」

 香苗は亮の目をじっと見つめ、彼の手を握って膝のうえにおく。亮はその手から温もりを感じた。少し人心地がつく。


 車窓から見える外界は、強い日差しで暑そうだった。汗をハンカチで拭うサラリーマンや、肩で息をしている買い物帰りの主婦の姿が、電車の外を流れていく。

 電車は一駅も止まらず目的地に着いた。何という駅かは分からない。駅名標はAIが書いたかのような文字で判読不能だったし、到着した際のアナウンスも雑音混じりで聞き取れなかった。


 電車から降りると、待ち構えていたような熱気が身体にべたりと貼りつく。亮は深く呼吸をする。海から漂う磯の香りが肺に充満した。

 駅前の風景は、二人で行った伊東温泉の街に似ていた。遊歩道に立ち並ぶヤシの木々。土産や名産品を売っている店や、潮風によって塗装の剥げた看板をかかげる食事処などがある。

 二人はどこに寄ることもせず、商店街の通りを過ぎて橋を渡る。灰色の絵具を均一に引き延ばしたような真新しい橋。位置が低いのだろう、さわさわと川の流れる音がはっきり耳に入ってきた。


 渡り切ると、亮は仰天した。橋の先に小さく見えていた旅館が、突然、目の前に出現したからだ。

 うっすらピンク色の外壁をした宿は、一部屋ずつの区切りがはっきりしていて、左右の端から山のように中央へ盛り上がっていた。最上階の部屋は十階以上だろう。


 亮たちは旅館の門をくぐり敷地内に入る。緩やかなスロープを登っていくと、通路脇の花壇に、人の高さはある火柱が垂直にあがっていた。それも間隔をあけて、複数。

 亮は通路中央に飛び上がって避ける。熱さは感じない。それを見ていた香苗が、口元を緩めた。 

「嫌だなあ。向日葵じゃない」

 火柱の上部を内から外へ、そっと撫でる。

 確かに彼女が触っている部分は、花びらのように広がっていた。そこから下は、茎のように細く真っすぐ伸びている。緑色ではなく橙ではあるが。亮はおそるおそる花弁を触る。火のように伸縮はするが、やはり熱はない。

 亮の様子を香苗は、口角をあげて見つめていた。彼女の笑顔を見たのはいつぶりだろう。温かい気持ちが胸にさざ波のように押し寄せてくる。触りすぎたのか、燃える向日葵の花弁が一枚散った。「勿体ない」と香苗が拾って、自身の髪に挿す。黒くながい髪についた、真っ赤な花弁が鮮やかに亮の目に映った。

 

 旅館のロビーは薄暗く、木の床が足下で軋む。体に落ち着かなさを感じる。巨大な生物の口の中にいるような気持ちになった。だが、香苗は「早く行こう」と彼の手を掴んで進んでいく。

 受付には、髪が薄く小太りな中年男性がいた。この人も伊東温泉の宿で見た気がする。

 香苗が名前を名乗り、部屋の鍵を受けとる。用紙にさらさらと連絡先等を記入する。

「お食事の時間はどうなさいますか」

 男の質問に「午後の六時で」と間髪入れず回答した。

 普段、宿でのスタッフとのやり取りなどは他人まかせだったのに。亮はそのてきぱきとした対応に驚いた。二人で男の後ろをついていく。

 一階の突き当りの部屋前で止まった。男は扉を開けて、荷物を置き「それでは。ごゆっくり」とにこやかに言う。深いお辞儀をした後、早足に去っていった。


 畳の座敷が広がる。中央に座卓があり、緑の座布団が二つで、テレビが中央奥。典型的な和室だった。

 香苗が障子を開き、外をのぞく。先ほど渡ってきた橋と川が見え、せせらぎと河鹿蛙の鳴き声が部屋に飛び込んできた。ルル、ルルと甲高い声が続く。


 香苗は住み慣れた家に戻ってきたかのように、大きく伸びをした。それから、畳に大の字で寝転ぶ。

 亮もキャリーケースを横にして部屋に置き、隣に腰かけた。上から彼女の顔を見つめる。長い睫毛に、こちらを見返す瞳。病に倒れる前とおなじ頬の血色、滑らかで艶のある黒髪──何もかもが生き生きとしていた。

 病棟でいつも感じていた、彼女の全身を覆う死の感覚。それが、すっかり霧散しているようだった。

「大学三年の時にきた温泉を思いだすな。あれは楽しかった」

「二人ともお金ないのに宿代を奮発したものね。海が見える露天風呂に、広い和室。食事も美味しかった。その前の岩手旅行で失敗したお陰だわ」

「まだそれを言うのか。あれで、宿代をケチったら駄目だと分かったんだよ」

「忘れられないわよ。門構えは立派だったけど、妙な部屋だったもの。もとは二部屋だったのを、壁を抜いて一つにしたみたいだったし。ベッドの布団はしけってたし。次の日に行く宮沢賢治記念館が楽しみだ、って言っていたあなたも落ち込んで黙りこくっていたじゃない」

「あれは本当に幽霊がでそうだったからな。掛け軸の裏に呪文が書いてあってもおかしくない。熟睡できなかったよ」

「宿がこれだけ不気味だったら、本当に遠野で河童に出会えるかもね。そう冗談を言っても、亮は笑わなかったもん。私は隣にあなたがいたから、安心してよく眠れたけど」

 香苗が亮の手を握る力が強まった。

 亮は病院での様子や病気のことを訊こうとする。しかし、舌が固まって言葉が出ない。諦めて、橋梗塞については落ち着いたら聞こうと思った。


 しばらくたわいもない話をした後、亮は風呂に入ってきた。


 部屋に戻ると、香苗が座布団に座って漫然とテレビを眺めている。

 画面にはアミューズメントパークが映っており、芸能人が四角い画面狭しと、大袈裟にはしゃいでいた。

 亮は自分たちがそこに行った時、混雑したうえ雨に降られ、アトラクションの故障もあり、散々だったことを思いだす。先ほどのお化け屋敷のような宿と同じだ。失敗した思い出ほど記憶に残るのだなと、苦笑いを浮かべた。


 座布団に座るとノックの音が響いた。

 扉をあけると、そこには仲居さんがいた。「お食事の準備を始めてよろしいでしょうか」と訊くので、構わないと答える。すると、金目鯛の煮つけや蒸アワビ、刺身の盛り合わせなどが乗ったお盆を、座卓に運んできた。最後におひつが卓にのせられる。

「布団も出してしまいますね」と、無駄のない動きで、寝床も用意して帰っていった。


 料理は絶品だった。

 普段、尾頭付きの金目鯛は見られている気がして気後れするのだが、香苗の前ではそうは言えない。しかし、一度箸をつけると、生姜のきいた煮汁が染みた味は抜群だった。口に含むと甘じょっぱい香りが鼻を抜ける。食欲をそそる。あっという間に茶碗が空になった。おひつからご飯をよそって三杯目。腹がくちくなって、まどろむ。心地よい疲労感が身体を満たしていく。まるで、乾燥した地面に恵みの雨が降ったかのようだ。


 亮は布団のうえに、ごろりと転がる。

「あーあ。食べてすぐに横になるのは良くないんだよ」

 香苗の声が遠くから聞こえてくる。

 意識が遠のいていくなか、彼女の指が髪の毛を優しく梳く。その感触だけが残った。


三 

 悪夢を見た。 

【葬儀場の煙突から……灰色の煙が浮かんでいる。鼓動が高鳴っていく……建物に入り……斎場の扉を開けると、部屋の両脇にパイプ椅子が並ぶ。小柄で丸まった背中……それが振り向くと、香苗の両親だ……祭壇にあるのは、香苗の遺影……母親は口元をきつく結び……亮を睨んでいる……動悸が止まらない。亮の胸倉を父親が掴む……「早く病院に連れていかなかったから」……「お前のせいだ! どうしてくれるんだ!」と怒号を浴びせてくる。涙混じりで……泣き声は掠れていき、しだいに……泡が割れるような音になって……】

 亮の耳元に、ぼこりぼこりと何かが湧いてくる音が聞こえた。


 目を見開く。

 巨大な穴のような暗い天井が視界に現れ、布団の上にいるのだと気がついた。碇がついた船のように体がぴくりとも動かない。口も同様だ。寝汗なのだろうか、背中がびっしょりと濡れている。

 突然、誰かに手を掴まれた。隣にいた香苗だ。腕を引っぱられると同時に、体を縛りつけていた鎖がほどけた。

「逃げましょう」

 なぜ? と口を動かす。声は出なかった。だが、周囲をみて部屋の全体が水浸しだと気づいた。

「やはり、ここは私以外いられないみたい。あなたを連れては来られなかったんだ。温泉が溢れ続けているのよ。すぐに旅館全体が沈むわ」

 香苗が部屋の扉を引くと、大量の水が部屋へなだれ込んできた。亮の浴衣が膝のあたりまで濡れる。足を取られそうになりつつ、二人は廊下にでて前へ進む。

 壁に勢いよくぶつかる水が泡立ち、波のようになっている。暴れる水が唯一の生物に感じられる。


 旅館のスタッフも人っ子一人、見当たらない。旅館客の避難する物音、叫び声もない。水が壁にぶつかる衝突音だけが、旅館内にこだましていた。

 

 玄関まで着いたものの、大扉は水圧で重々しかった。二人がかりで人が一人通れる隙間をあける。すんなりとはいかなかったが、何とか通り抜ける。その間も、ざぶりざぶりと水は二人の足元を駆けあがり、クジラのように飲みこもうとしてくる。

「橋を渡って帰りましょう」

 火柱の向日葵が咲くスロープを通り抜ける。敷地をでて見えてきた橋は、心なしか行きに見たときより狭く感じた。橋を渡りきると、もう戻ってこられないのではないか。亮にはそんな不気味な予感がした。


「でも、キャリーケースも部屋の中だし、財布も携帯も何もない。少し時間を置いて旅館に戻れば──」

「旅館ごと無くなるから無駄よ。それより急いで帰らないと」

 眉間にしわを寄せて、まくし立てる香苗に亮は言葉をなくす。ただ、黙って闇夜の橋を渡りはじめる。明かり一つなく、暗い川と同化したような橋を。

 二人で橋の袂まで来て、亮が先に一歩踏み出したところ。香苗が手を離した。


「先に帰って……こちらを絶対に振り返らずに」

「なにを言っているんだ。一緒に帰ろう」


「先に行って! 私はここに残らないといけないから」

 亮は振りかえる。彼女は全身が、燃えていた。向日葵のように地面で棒立ちになって。足のつま先や膝や、腰から炎があがっている。顔の部分が花弁のように橙色の炎に包まれていた。


 そこからの亮の記憶は朧気だ。

 魂が抜けて外から自身の姿を上空からのぞいているようだった。逆再生をされた映像のごとく、体がいた場所を狙うように戻っていく。駅まで走り、ちょうどやって来た電車に乗って、病院近くの駅へ。気がつけば、香苗のベッド横の椅子に座る自分がいた。もともとそこにいた自身の体に、遠方に出向いていた魂が勢いよく帰ってきたかのようだった。


 彼女は瞳を閉じて、穏やかに胸を上下させている。白い病院着を身にまとい、ベッドに横たわっている。静寂な部屋だった。

 唐突に、亮の頭上に看護師の言葉が降ってきた。とても穏やかな口調で。

「面会時間は終了ですよ」

 亮は力なく椅子から立ちあがった。何の幻覚だったんだろうか。橋梗塞で何も言えない彼女が見せてくれた、あれは。ひと時だけ一緒に過ごす事ができた、あれは。


 亮は香苗に向かって小さく手を振る。病室の出口に向かいながら言う。

「また来るから……」

 反応はない。

 ふらふらと歩き、部屋を出ようとすると、看護師が彼の肩をかるく叩いた。

「見てください。彼女さん、手をあげていますよ」

 ささやくように伝えてくれた。振り返ると、香苗のベッドのシーツが小さく膨れていた。なかで僅かに手を動かしたのだ。いつも様子を見ている看護師でなければ気がつかなかっただろう、微小な変化だった。


「また来るから」

 亮はもう一度、香苗に声をかける。

 胸が詰まったせいか、震え声になった。

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橋を渡ると うたかた @vianutakata

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