【中編】第1話 聞いた時点で、世界が敵になる

​※これは「空気を読めない者が消される国」に来た初日の記録。


 石の廊下は、どこまでも無機質に続いていた。

 天井に吊り下げられた、青白い光源は、歩く人々の影を鋭く、そして長く石床に刻んでいる。その光は不自然なほど一定の光量を保ち、影の輪郭はナイフで切り取ったかのように鮮明だった。


​ 私の前を歩く数十人の背中は、一様に硬直していた。

 彼らは一言も発さない。だが、その足並みには奇妙な「確信」があった。

 角を曲がる。階段を下りる。特定の扉の前で、一切の躊躇なく列を離れる。

 まるで、目に見えない糸が彼らの指先を引き、正しい座標へと導いているかのようだった。あるいは、彼らの脳内には最初からこの建物の詳細な地図が書き込まれており、私はそのデータが欠落したバグのような存在に思えた。

 

 私には、その糸が見えない。

 手に持った『記録局第三課』という紙切れには、場所を示す地図も、入室すべき時間も、ましてや担当者の名前すら書かれていなかった。ただ冷たい事実だけがそこにあり、あとの一切は「察しろ」という沈黙の海に放り投げられている。

 

 不意に、私の三歩前を歩いていた男が足を止めた。

 

 彼は、彫刻が施された重厚な黒檀の扉の前で立ち尽くしていた。

 その顔には、隠しきれない焦燥が浮かんでいる。額には脂汗が滲み、彼は何度も自分の書類と、扉の横にある認識票を見比べ、周囲の様子を窺っていた。

 

 助けを求めるように、彼は隣を通り過ぎる者に視線を送った。縋るような、悲痛な視線。


 だが、その視線が誰かと交わることはなかった。

 人々は、まるでそこに障害物すら存在しないかのように、あるいは道端に落ちた石ころを避けるような滑らかな動作で彼を避け、無言で通り過ぎていく。誰も彼を「見ない」ことが、この場における唯一の正解であるかのように。

 

 男の喉が、引き攣ったように動いた。

 彼は意を決したように、扉の横にある小さな真鍮製のレバーを引いた。

 

 ――カチリ。

 

 静寂の中で、その小さな金属音はやけに鋭く、鼓膜を直接刺すように響いた。

 扉が、重々しい音を立てて開く。

 男は吸い込まれるように中へ入り、扉は再び、完璧な沈黙をもって閉じられた。

 

 私は、その扉の前を通り過ぎる瞬間に、足を止めた。

 前世の、数学教師としての本能が警鐘を鳴らしていた。

 あの男の動きには、数学的な「美しさ」が欠けていた。根拠のない、追い詰められた末の賭け。それは論理的な帰結ではなく、単なる「祈り」に近い挙動だった。そしてこの世界は、祈りなどという不確定なものを、最も嫌悪しているように感じられた。

 

 その直後だった。

 

 扉の奥から、短い、押し殺したような叫び声が聞こえた。

 空気の振動が扉を震わせ、直後に、先ほどよりもさらに冷たく、決定的な「カチリ」という音がした。

 

 それは、内側から鍵がかけられる音だ。

 

 数秒後、横壁にある、今まで気づかなかったほど小さな隙間から、先ほどの男が弾き出されるように廊下へ転がり出てきた。

 彼の胸元から、配属通知の紙が消えていた。

 

「あ……待ってくれ、私はただ、ここだと思って! 書類の色が、この扉の装飾と同じだったから――!」

 

 男の声が、廊下に反響する。

 それは、このアルクシオンに来て初めて聞いた、剥き出しの、感情を伴った「言葉」だった。

 だが、その言葉が放たれた瞬間、周囲の空気は劇的に、そして暴力的に冷え切った。

 

 清掃員のような、紋章のない灰色の服を着た無言の男たちが、どこからともなく現れた。

 彼らは男の両腕を左右から掴み、抵抗を許さない手際で引きずっていく。その動作には怒りも同情もなく、ただ「不要なゴミを片付ける」という事務的な効率性だけが宿っていた。

 

 男は、必死に周囲に説明を求めた。

 自分がなぜ間違えたのか。正解は何だったのか。誰に聞けばよかったのか。

 だが、廊下を行き交う人々は、眉一つ動かさない。歩調を緩めることすらない。

 

 男の叫びが遠ざかり、重い防音扉の向こうへ消える。

 あとに残ったのは、先ほどまでと変わらない、整然とした沈黙と、男が転倒した際に床に擦ったわずかな靴の跡だけだった。

 

 私の指先が、無意識に震えていた。


 ――間違えれば、消されるのだろう。


 ここでは、試行錯誤という概念そのものが、歓迎されていない。一度の判断ミスが、そのまま社会的な「消去」に繋がる――

少なくとも、今のところ私の目には、そう映っている。


 数学の解答用紙なら、バツをつけられて終わりだ。だがここでは、解答を間違えた瞬間、その先の続きを与えられない。


 私は、手に持った紙を、破れるほど強く握りしめた。

 

 さらに奥へ。地下へと続く、さらに狭く、湿り気を帯びた階段を下りていく。

 光源はまばらになり、壁の石材は剥き出しのまま、どす黒い苔が血管のように這っている。

 辿り着いたのは、廊下の最果て。

 歪んだ木の扉に、手書きで「第三」とだけ掠れた文字で書かれた、見捨てられたような場所だった。

 

 扉を押し開ける。

 

 そこは、書類の墓場だった。

 天井まで積み上げられた、黄ばんだ紙の山。インクの匂いと埃の匂いが混じり合い、肺に重く圧し掛かってくる。

 埃の舞う薄暗い室内で、数人の男女が、死人のような青白い顔でペンを動かしていた。

 

 彼らは、私が入ってきたことに気づいているはずだった。扉の軋む音は十分に大きかったからだ。

 だが、誰も顔を上げない。挨拶も、業務の説明も、席の案内もない。

 

 空いている椅子が、一つだけあった。

 脚が折れかけ、ガタつくその椅子が、私の場所だと「察しろ」と言わんばかりに、ぽつんと置かれている。

 

 私は、そこに腰を下ろした。座面は冷え切り、座るたびにギィと不吉な声を上げた。

 机の上には、無造作に置かれた一束の書類。

 

 開いてみると、そこには意味をなさない数値の羅列が、びっしりと、病的な密度で書き込まれていた。

 何のための集計なのか。何の記録なのか。

 タイトルも、注釈も、単位すら存在しない。

 

 周囲の職員たちは、その数値を、ただ別の紙に書き写す作業を繰り返している。

 書き写す。それだけ。

 そこには思考の介在する余地はない。ただ、沈黙に従い、意味を求めないことだけが推奨される苦役。


 廊下で見た少女が、どの扉を選んだのか。それを考えること自体が、この国では無意味なのだと、私は理解し始めていた。

 

 私は、右手の指を、埃の積もった机の端に置いた。

 

 チョークの粉はない。

 だが、脳の奥で、前世の記憶が熱を持ち始める。

 

 この数値の羅列。一見すればカオスだが、私の目には違った見え方をしていた。

 特定の周期で繰り返される 0.045 の誤差。

 行ごとにわずかに偏る標準偏差。

 

 これは、ただの乱数ではない。

 何らかの「物理的現象」を、極めて不器用に記録した結果だ。

 

 指先が、机の上で静かに動き始めた。

 脳内に、巨大な黒板を召喚する。

 仮想のチョークを握り、意味を持たないはずの数値に、前世の論理という名のメスを入れていく。

 

 誰も教えてくれないなら、この世界の構造そのものから、正解を導き出すまでだ。

 説明を拒む世界に対して、私は私の論理で、その沈黙の内臓を暴いてやる。

 

 その日、私の席は、私自身の意志で「確定」された。


 不意に、部屋の隅で誰かのペンが止まる音がした。

 一人の老職員が、濁った、だが鋭い目で、私をじっと見つめていた。

 その視線には、先ほどの事務官のような「忌避」ではなく、もっと深い、底の知れない「観察」の意志が宿っていた。

 

 彼もまた、この「ゴミ溜め」で、何かを隠し持っている者の一人なのだろうか。

 私は目を逸らさず、指先の演算を止めなかった。

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