空気を読むと無能になる王国で、転生した俺は嫌われ役を引き受けた

@at_potechi

【前編】第1話 聞いた時点で、世界が敵になる

 チョークの粉が、指先の指紋に白く入り込んでいた。

 放課後の教室。窓の外からは運動部の威勢のいい掛け声と、遠くで鳴る吹奏楽部のチューニングの音が混じり合って聞こえてくる。西日が斜めに差し込む黒板には、直前の授業で書き殴った二次関数のグラフが、美しい放物線を描いて残っていた。

​「……先生、ここ。なんでマイナスになるんですか」

​ 一人の生徒が、申し訳なさそうにノートを差し出してきた。

 私は、指先の白い粉を軽く払い、穏やかに笑って答えた。

​「いい質問だ。そこがこの問題の『心臓』だからね。前提を一つずつ整理しよう。まず、この座標が意味するのは――」

​ 説明は、私にとっての救いであり、誠実さそのものだった。

 分からないという生徒に対し、前提を揃え、因果を繋ぎ、その脳内にある「霧」を言葉の光で晴らしていく。それが世界を正しく、安全に保つ唯一の手段だと信じていた。言葉を尽くさないことは、私にとって知的な怠慢であり、相手に対する無意識の暴力と同義だった。

 

 教え、導き、理解を共有する。

 それが、私の人生における揺るぎない「正解」だったはずだ。

​ 視界が、爆ぜるように白んだ。

​ 意識が戻ったとき、まず喉の奥に焦げ付くような渇きを感じた。

 次に、肺に入ってくる空気が、凍りつくように冷たいことに気づく。

​ 石の床だ。

 磨き抜かれた灰色の石が、肌から体温を容赦なく奪っていく。

 起き上がろうとして、手が滑った。指先に伝わるのは、冷徹なまでの平滑さ。そこには教室の黒板のような、僅かな「引っかかり」すら存在しなかった。

 

 死んだのか。それとも。

 

 説明はない。

 予兆も、導入も、慈悲深い神の導きもない。

 

 ただ、気づけば私は「そこ」にいた。

 

 高い天井から吊り下げられた、電灯とは似ても似つかない冷たい光源。

 規則正しく並ぶ、天を突くような巨大な石柱。

 そして、どこまでも続く、無言の列。

​ 王宮アルクシオン、手続き場。

 脳の隅に刻まれた断片的な知識から、ここがそう呼ばれる場所であることを理解するのに、時間はかからなかった。

​ 椅子の脚が石床を擦る、乾いた音が反響する。

 誰一人として、喋っていない。数百人が同じ空間にいるはずなのに、聞こえてくるのは衣服が擦れる音と、機械的な足音だけだ。

 

 私の前には、果てしない人間が並んでいた。

 皆、一様に顔を伏せ、あるいは虚空の一点を見つめ、決まった拍子で数歩ずつ前へ進む。

 列の先にある窓口では、事務官らしき男たちが、感情の欠落した手つきで淡々と書類を捌いていた。

 

 空気が重い。物理的な質量を持って、肩にのしかかってくるような感覚。

 隣の列に目を向けると、一人の男が窓口に立ったところだった。

 

 男は、窓口の事務官と一度も目を合わせなかった。

 事務官もまた、何も言わない。

 

 ただ、事務官の手元にある三束の書類のうち、真ん中の一束がわずかに指し示された。

 コン、と人差し指が石の台を叩く。乾いた、一度きりの振動。

 

 隣の男は、一瞬の躊躇もなく、右から二番目の書類を引き抜いた。

 

 迷いはなかった。

 それが正しいのか、自分に適合しているのか、確認する素振りすら見せない。

 正解をあらかじめ知っているというより、理由を聞くという選択肢が、最初から存在しないような動きだった。

 

 男はそのまま、無言で列を離れ、奥へと消えていった。

 

 察する――。

 その言葉の意味が、アルクシオンにおいては「理由を聞かずに行動する」という生存律であることを、私は本能的に理解し始めていた。

 

 ――ここでは、わからないまま動ける者だけが、普通なのだ。

​ 背筋を、嫌な汗が伝う。

 やがて、私の番が来た。

​ 窓口に立つ。

 事務官の男は、死んだ魚のような、曇ったガラス玉のような目で、私の前に三つの封筒を並べた。

 

 どれも同じ茶色。印影もない。

 

 私の指先が、封筒の端に触れる。

 わずかな紙の引っかかり。指先の皮一枚を削るような、乾いた不快感。

 

 数学教師としての習慣が、脳内で演算を始めていた。

 前提が足りない。この三つの変数は何か。選んだあとの責任はどうなるのか。

 確証のないまま判断を下すことは、私にとって何よりも恐ろしい「罪」だった。

 

 前世の倫理が、私の口を動かした。

 この世界が嫌うと、まだ言葉にできない何かを踏み抜くための「確認」のために。

​「……失礼。一つ、確認してもよろしいでしょうか。この封筒の違いについて――」

 

 その瞬間。

 

 周囲の、紙が重なる音。

 衣擦れの音。

 遠くの足音。

 

 それらすべてが、一斉に、断絶した。

 

 広大な手続き場を、心臓の鼓動すら憚られるような冷たい静寂が支配する。

 窓口の事務官が、ゆっくりと、錆び付いた機械のような動作で顔を上げた。

 

 その目は、怒りでも困惑でもなく、「見てはいけない汚物を見てしまった」という忌避の色に染まっていた。

 

 背後で並んでいた者たちが、一歩。

 誰が号令をかけたわけでもないのに、軍隊のような整然とした動きで、私から物理的な距離を置いた。

 

 誰も何も言わない。

 ただ、空気だけが、死んだ。

 

 私が発した「質問」という刃が、この場のすべての沈黙を切り裂き、その代償として私が世界の外側へと弾き飛ばされたことを告げていた。

​「……次」

​ 事務官の口から、乾いた、感情の乗らない単語が一つだけ漏れた。

 

 回答はない。解説もない。

 ただ、そこから立ち去れという事実だけが提示された。

 

 私は、指先がかすかに震えるのを、もう片方の手で抑えた。

 

 ここでは説明は助けにならない。

 むしろ、言葉を発したその瞬間に、私は「異物」として登録されたのだ。

 

 私は一番左の封筒を掴み、逃げるようにその場を離れた。

 誰の視線も感じない。

 だが、私が歩む進路上の人間だけが、まるで波が引くように、あるいは油を垂らした水面のように、わずかに、だが確実に距離を取る。

 そして私が通り過ぎると同時に、また示し合わせたように元の、死んだような沈黙へと戻っていく。

 

 誰も私を「見た」とは認めない。しかし、全員が私の「異常」を把握している。

 この物理的な疎外感こそが、アルクシオンにおける「不適格」の証左だった。

 

 割り振られた席は、手続き場の最果て、光の届かない太い石柱の陰だった。

 

 座った椅子の背もたれが、硬く、冷たく背骨を突く。

 私は無意識に、右手の親指と人差し指を擦り合わせた。

 そこにあるはずの、温かいチョークの粉感を探すように。

 だが、指先に残っているのは、先ほど触れた封筒の、冷え切った紙の感触だけだった。

 

 私は震える手で封筒を開け、中の紙を広げた。

 そこには、たった一行。

 

『記録局第三課 配属を命ずる』

 

 それだけだった。

 何をする部署なのか、どこへ行けばいいのか、地図も、時間も、目的も記されていない。

 

 周囲を見渡す。

 私と同じ書類を手にした者たちが、やはり無言で、示し合わされたように同じ方向の廊下へと吸い込まれていく。

 彼らは迷わない。

 地図など必要ないのだ。空気を読み、流れに身を任せることが、彼らにとっての地図なのだから。

 

 私は、自分が手にしている「説明」の無力さを噛み締めた。

 

 前世で私が積み上げてきた、論理、因果、証明。

 それらは、このアルクシオン王国においては、重しにもならないゴミ屑だった。

 

 ここでは、誰も謝らない。

 誰も助けない。

 

 私は、重い足取りで立ち上がり、彼らの背中を追った。

 自分の足音が、石床に反響してやけに大きく、場違いに響く。

 私が一歩踏み出すたびに、廊下の騒音が、まるで誰かが音量つまみを絞るように小さくなるのを感じた。

​ 聞いた時点で、世界が敵になる。

 

 その理解だけが、この冷たい世界で私が初めて手に入れた、唯一の「証明済みの事実」だった。

 

 廊下の角を曲がった先で、一人の少女がうずくまっているのが見えた。

 彼女もまた、書類を手にしていた。

 だが、その手は激しく震え、顔面は蒼白だ。

 周囲の人間は、彼女がそこに存在しないかのように、その横を通り過ぎていく。

 

 誰も、彼女に「どうした」とは聞かない。

 助ければ、助けた側もまた、理由を説明できない行動をとった「無能」として扱われかねない。

 ――少なくとも、この場の空気はそう告げていた。

 

 私は、その光景を横目に、自分の指先を強く握りしめた。

 

 指が、空中に見えないチョークで数式を描きかける。

 だが、それは形を成す前に霧散した。

 まだ、計算を始めるための前提が、あまりにも足りない。

​ この国は、沈黙という名の暴力でできている。

 そして私は、その静寂を殺してしまった者として、最初の歩みを踏み出さなければならなかった。

 

 振り返っても、先ほどまで私がいた列は、何事もなかったように淡々と進んでいる。

 私という異物が排除された後の世界は、より一層、完璧な静寂を取り戻していた。

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