ピエロ 〜 tried to be loved 〜

里中 半平太

序章

四十歳が見えてきた今も、俺は実家の二階にいる。

戻ってきた、というより、逃げ帰ったの方が正しい。


畳は黒ずみ、壁紙はめくれている。

天井には染みがあり、時間だけが溜まっている。

昔からこうだったのか、俺が汚したのかは分からない。


夜になると煙草を吸う。

火をつける時、指が震える。

意志とは関係なく、勝手に揺れる。

薬のせいだ。

飲まないと眠れず、

飲むと身体が自分のものじゃなくなる。

それでも吸う。

震える手で、確認するみたいに。


階下からテレビの音がする。

人の声は聞こえない。

まるで誰も住んでいない家のようだ。

俺は今この家にいるが、昔からなぜか落ち着けなかった。


幼い頃、俺は孤独だった。

友達はいたはずだが、胸の中はずっと一人だった。

その代わり、優等生だった。

勉強もできた。先生の言うことも聞いた。

怒られない位置を、ちゃんと分かっていた。


少し大きくなれば褒められるとにより、

胸の奥が少しだけ静かになっていた気がする。

期待されると、そこに居てもいい理由ができた気がした。

だから、外さなかった。

外した瞬間、何も残らなくなる気がしていた。


それは意思じゃない。

身を守るための反射だった。


優等生の仮面をかぶっていれば、怒られない。

だまって笑っていれば、面倒なことにはならない。

道化師を演じていれば、

とりあえずは、その場をやり過ごせた。


道化師は演じれば演じるほどに、

孤独ではなく、賛美を浴びるのだ。


息は苦しかった。

でも、止まるよりはマシだった。


やがて、ひとつの仮面だけでは足りなくなった。

場面ごとに、

別の顔が必要になった。


外から見れば、

暴走族だったようにも、

ヤンキーだったようにも、

裏の世界と関わる人間のようにも、

見えたかもしれない。


それも、仮面だった。


夜の国道を、仲間と並んで走った。

爆音と振動の中で、頭を空っぽにした。

別に、何も楽しくなかった。

仲間のニヤついた顔が心底、醜く見えた。


ただ、

こうでもしないと、

自分の居場所がなかった。


強くなりたかったわけじゃない。

荒れたかったわけでもない。

ただ、

どこに立てばいいのか、分からなかった。


俺は変わったんじゃない。

その場その場で、生き延びるための顔を使い分けていただけだ。


別にしたくもない喧嘩もした。

拳は腫れ、口の中が鉄の味になった。

血は、似合っていたと思う。

若くて、壊れてもよかったからだ。


殴られた夜もある。

殴った夜もある。

地面に倒れている俺を相手は見下ろす。

少し快感に似たような感覚を覚えた。


スーツを着るようになってからも、

俺は踊り続けた。

形を変えただけだ。

止まれない前進、踊る道化師。

人に媚び、人は笑い、人が周りによってきた。

もちろん俺は笑っていない。すべてが計算済みだからだ。


その頃から、眠れなくなった。

胸が急に締めつけられ、息が浅くなる。

片耳が聞こえなくなり、呂律も回らなくなる。

身体のあちこちが痛み、理由もなく汗をかく。

薬が増え、体重と病名も増えた。

鬱だとか、双極性だとか、線維筋痛症だとか。

どれも俺の身体に、居座った。


それでも俺は笑っていた。

優等生みたいに。

道化みたいに。

空気を読んで、場を回して、

「大丈夫」と言い続けた。


階下から声がした。

「たっちゃーん」


一回で起きないと、もう一回呼ばれる。

俺は煙草を灰皿に押しつけた。


「うどん、食べる?」

鍋の音がする。

湯気の匂いが、階段を上がってくる。


「……いらん」

低く、痰がからんだような声が出た。


少し間があって、

おかんが言った。


「今日はあんた、じいちゃんの命日よ」

「墓参り、行ったらええで」


その瞬間、胸の奥がずれた。


じいちゃん。

でかかった背中。

握ると痛いくらい大きかった手。


俺が少年だった頃、

唯一俺を認めてくれた人。

ずっと「たっちゃん」と呼んでくれた人。


天井の染みが、急にぼやけた。

手の震えが止まらない。


じいちゃん。

じいちゃん。

じいちゃん。


思い出さないようにしていた名前が、

勝手に、何度も出てくる。


胸が苦しいのに、息は出る。

これは、昔血を見た時の感覚に似ている。

身体は、ちゃんと覚えている。


——あの日からだ。

俺が、笑うことで生き延びるようになったのは。

仮面を被らないと、立っていられなくなったのは。


階下で、おかんが鍋をかき回している音がする。

俺はまだ、動けずにいる。

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ピエロ 〜 tried to be loved 〜 里中 半平太 @Hanpeita_Satonaka

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